第19話
僕と佐伯はそれから毎日放課後に図書室で教科書や参考書を開きシャーペンを走らせた。
基本的には個別に自分の勉強を進め、分からないところがあれば佐伯が僕に訊くという図式だった。
前の日の夜に取り組んで間違えた問題の解き方を質問されることが多く、訊かれれば僕はできるだけ丁寧に佐伯に教えた。
佐伯は毎晩欠かさず問題集を解いてきた。
しかも結構な量を。
質問の数と内容からしておそらく僕以上に勉強に時間をかけている。
そして僕への質問は常に前傾姿勢だ。
佐伯が真剣にK高校を目指していることが、意外にも僕に良い刺激となって集中力を向上させた。
人に教えることは思っていたよりも難しく、自分のためにもなった。
佐伯に教えているようでいて自分の基礎を固めることになっている場面が多々あって、はじめは乗り気でなかった僕も次第に二人で勉強することの意義深さを思い知った。
図書室は静かだった。
収められている本は古いものばかりで、かつ狭いので図書室を利用する生徒は少なく、しかし何故か空調は良くきいていて勉強するには好条件の穴場でもあった。
勉強に集中しているからか佐伯はぱったり美術室に行かなくなった。
あの三面鏡に映る女性は誰だったのだろう。
それを僕はまだ佐伯に訊いていない。
「やばっ。光太郎。もう五時だよ!」
向かいに座った佐伯の抑えてはいるが、鋭い声が図書室の静寂を切り裂くように響く。
「え?もう?」
僕は顔を上げて壁の時計を確認する。「ほんとだ。じゃあ、今日はこの辺で」
僕らは机の上を急いで仕舞い始めた。
佐伯は僕が毎日母さんの見舞いに行くことを知っていて、時間になると気をつけて教えてくれることがある。
しかし、今日は二人とも勉強に集中していたせいか、時計に気づくのが遅れたようだ。
今頃母さんは僕のいない病室で一人寂しく目を覚ましているに違いない。
僕らは競うように図書室から出た。
ツクツクボウシが鳴いている。
空の色も、雲の高さも、吹き抜ける風も、辺りには秋の気配が色濃い。
明日から中間テストが始まる。
「ねえ」
「何?」
「そのうちあたしもお見舞いに行っていいかな」
その提案に僕は一瞬返事が出来なかった。
もちろん佐伯が病院に来ること自体は母さんの病状に関して何も問題はない。
しかし僕が女の子を連れてきたとなったときの母さんのはしゃぎようが目に浮かんで、どうにも面倒に思えた。
「やっぱちょっと非常識だよね。忘れて」
僕の顔色を深読みしたのか、佐伯が少し申し訳なさそうに頭を搔く。
「いや、全然そんなことないよ。喜ぶと思うし」
ぎこちなく笑いながら、僕は母さんに頼まれていたことを思い出した。「そうだ、佐伯にお願いがあるんだけど」
「何?」
「お見舞いに来るときに麦わら帽子を買ってきてほしいんだ。もちろんお金は僕が出すからさ」
「お金のことはいいけど、何で麦わら帽子?もう季節じゃないよ」
「ちょっと前に散歩を勧めたときに、母さんに日焼け対策用に頼まれてたんだ。日焼け止めぐらいならコンビニに売ってるからいいんだけど、麦わら帽子はどこで買えるのか分からなくて」
雑誌に載っているようなもので、つばが広くて花柄のリボンがついていて、と説明していると佐伯がクスッと笑った。
「お母さん、可愛い人だね」
佐伯は自分の胸を叩くような仕種を見せる。「お任せあれ。きっと気に入ってもらえるのを見つけてくるよ」
「ありがと。これで母さんももう少し積極的に身体を動かしてくれるようになると思うよ」
「うん。それじゃ、ここで。あたしはちょっと美術室に寄るから」
僕と佐伯は美術室と校舎をつなぐ渡り廊下で互いに手を振り合った。
僕は佐伯の背中を見送りながら顔の横で振っていた手をゆっくり握りしめた。
彼女の姿が廊下の角を曲がって行くのを確認してから、僕は少し駆け足気味に自転車置き場に向かった。
あの佐伯とこんなに屈託なく話せるようになるとは思ってもみなかった。
佐伯はクラスの中では相変わらず仏頂面で通しており、僕と二人でいるときの口数の多さや柔らかい表情を普段見せることは全くない。
ここのところ図書室通いをしているうちに気づいたことは彼女は意外に人見知りで恥ずかしがり屋だということだ。
その性格が彼女の日常の鉄仮面のような、感情を出さない顔や他を寄せ付けない雰囲気を作り出している面はあるのではないだろうか。
図書室で気分転換に手に取った本を借りるとき、図書委員に申し出て所定の用紙に必要事項を記入するだけなのに、顔を少し赤らめて僕に頼んだりする。
一度、西堀が他の美術部員と一緒に図書室に来たときに挨拶されると、西堀ともろくすっぽ言葉を交わすことをせず、彼女たちが出ていくと大きく息を吐き出したり、うつむきがちにハンカチで額や首筋の汗を押さえたりするのだ。
あんな風に素の表情(僕が思っているだけだが)を僕の前で見せてくれるのはもしかして僕のことを……。
まさかね。
自転車置き場にたどり着き、鞄を前かごに入れたときに僕は小さな悲鳴のようなものを聞いた気がした。
聞いたというよりそれは直接僕の心に訴えかけてきたような感覚だった。
しかも声の主は佐伯だったような。
錯覚だろうか。
少し佐伯のことについて考え過ぎなのかもしれない。
僕は校舎を振り返り美術室のあたりを仰ぎ見た。
校舎は僕の微細な第六感を否定するように、どっしりと静かな威厳を秘めてそこに佇んでいた。
美術室の窓ガラスが夕焼けを反射して茜色に輝いている。
佐伯はあそこにいるのだろうか。
僕は鞄を自転車の前かごに残したまま校舎に駆け戻った。
今から全力で自転車をこいでも母さんと話ができる時間はわずかしか残らないのに、と後ろ髪を引かれる思いがしたが、どうにも先ほどの僕の心に届いた佐伯の声に胸騒ぎを感じずにはいられない。
ちょっと確認するだけ。
何事もなければそれですぐに引き返せば良い。
靴を脱ぎ、上履きを履く手間を惜しんで靴下のまま一気に三階に駆け上がったところで、今度ははっきりと佐伯の叫び声を耳で捉えた。
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