第18話
放課後になって漸く僕は佐伯のもとへ向かうことにした。
彼女はきっと今日も美術室にこもり、買ったばかりの絵具でキャンパスに新しい色彩を施していることだろう。
そこへずかずかと乗り込み作業の邪魔をするのは非常に勇気のいることだが、今日を逃してはもう二度と謝るタイミングは来ないような気がしていた。
三階は教室のドアも廊下の窓も全て開け放たれている。
近づいていくと部屋の中から夏の余韻が残った少し生ぬるい風に運ばれて絵具のにおいが漂ってきた。
長年にわたって美術室の床や壁や天井に浸みこんだ、決して強くはないが濃く深いにおい。
懐かしいような、それでいて肩身の狭い寂しい感情が胸に訪れる。
僕は確かに美術部に籍を置いていたが、部活動のためにここに来たのは本当に数えるほどしかない。
当然上達するはずもなく、ろくに作品を仕上げることもできず、それでも少し生真面目な性格で時折義務感に突き動かされて顔を出したこの部屋。
こそこそと廊下から中を覗き見る。
美術室には二人の生徒がいるだけだったことに僕は少しほっとする。
そのうちの一人、奥の窓際で黒板に向かって座っているのが佐伯だった。
いつにも増して険しい表情。
この暑さのなか、他を寄せ付けない圧倒的な雰囲気を醸し出してキャンバスに正対して鎮座している。
もう一人、廊下側で行き詰った感じで少し小首を傾げキャンバスを眺めている女子生徒の顔に僕は覚えがなかった。
あの鬼気迫る形相の佐伯と同じ空間でよくも平然と作業ができるな、と半ば呆れてしまうが、それはそれで感嘆に値する胆力だとも思った。
僕は小さく、「失礼します」と口の中で言って足を踏み入れた。
廊下側の女子生徒が軽く僕に会釈する。
僕のことを知っているのだろうか。
彼女の目に少し親しみがこもっているように見えた。
放課後に美術室に来る人間は美術部に関係しているだろうと思ってお辞儀をしてくれたのかもしれない。
僕も軽く頭を下げて彼女の前を通り過ぎる。
「ちょっといいかな」
キャンバスを挟んで向かい合う位置に立っても、顔色一つ変えずに筆を走らせている佐伯に僕はおずおずと声を掛けた。
目の前に立っていて聞こえていないはずがないし、視界に入っていないはずがない。
しかし、佐伯から返事はない。
佐伯は本当にキャンバスの四角い枠以外に視野が及んでいないような集中した様子で作業を続けている。
詫びを入れに来たのに邪魔はできない。
僕はその場で立ち続けているしかなかった。
暑くてじっとしているだけで額に汗がにじんでくる。
手持無沙汰で窓の外に目を向ける。
土埃の舞うグラウンドで野球部員が監督のノックを代わる代わる受け、走り高跳びの練習をする陸上部がいて、サッカー部員がいろんな角度からシュート練習を行っている。
目を凝らすと陽平もそこで一緒に汗を流していた。
陽平の動きは他の生徒と比べると歴然とした違いがあった。
パスを受けるときのトラップの安定感。
縦にドリブルすると見せかけての鋭い切り返し。
速い振り抜きからの強烈なシュート。
ここまでは聞こえてこないが、ゴール裏で見ている女子生徒たちが歓声を上げているのが分かる。
あの男前があんな動きを見せたら、そりゃうっとりしちゃうよな。
「何?」
「へ?」
気がつくと佐伯が怪訝な顔つきで僕を見上げていた。
「あたしに用があるんでしょ?」
射るような眼差しでずどんと訊かれると心構えがあってもまごついてしまう。
「そ、そうなんだ。あの、その、土曜日はごめん。急に、その……」
何て話せば良いんだろう。
母さんの顔が見たくなって何も言わずに帰っちゃった、などとは言えないし。
「そんなことよりさ」
佐伯はおもむろに絵具を仕舞いだした。
今日の活動はもう終わりなのだろうか。「K高校って難しいの?」
「受験のこと?そうだなぁ。うちの学校からだと上位三十ぐらいまでかな」
「三十!」
佐伯は一瞬目を見開くと、途方に暮れたように腕を組み口をへの字に曲げた。
「K高に行きたいの?」
「K高には楠木って先生がいるんだろ?」
「そうなの?知らないな」
そう言うと佐伯は僕を蔑むような目で眺めた。
「光太郎、美術部のくせにK高のクスクス知らないのかよ」
「知らないよ。そんなに有名なの?その先生」
知らないものは知らない。
しかし、僕は何となく自分の返答が失敗だったような嫌な予感を覚えた。
佐伯は椅子の背もたれに身を預けて顔を廊下側に向けた。
「部長、この人こんなこと言ってるよ」
佐伯に声を掛けられた廊下側の女子生徒が困ったような顔で僕の方を見た。
部長?
彼女が僕に責任を追及してきた西堀だったのか。
「仁科先輩、K高の楠木先生はこのあたりの学校の美術部員のあこがれの存在ですよ。私の学年の部員は楠木先生の指導を受けたくて、みんなK高を目指してます」
「光太郎。それでも少しは美術を志してるのか?」
試すような口ぶりの佐伯に僕は足もとから怖気が這いあがってくるのを覚える。
「ま、まあね」
とうとう化けの皮がはがれようとしている。
僕は佐伯の手によって拷問にかけられ、この絵具の飛び散った美術室の床は僕の血でさらに一つ染みを増やすことになるのか。
「ま、いいけど」
佐伯は組んでいた腕をほどき、頭の後ろで指を交差させた。「光太郎ってこないだの実力テスト、学年で何位だった?」
突然、佐伯が僕のプライベートに足を踏み込んでくる。
テストの順位は受験生にとって神経質になる分野だ。
「何でそんなこと答えなきゃ……」
「何位だった?」
佐伯の眼は威圧的だった。
聞きだすまで引き下がらないという意思表示が顔に現われている。
彼女の傲慢な態度の前には僕の抵抗など空しい。
「……九位だけど」
「九!」
佐伯は目を見開いて、再び西堀の方に顔を向けた。「部長、九位だって」
「すごいですね。羨ましいな」
「光太郎はK高受けるの?」
「まあ、そのつもりだけど」
佐伯は明らかに僕を見る目の色を変えた。
「さっきも部長と話してたんだけどさ、あたしたち勉強が苦手で。非常にまずいことにあたし九十位。部長はあたしより少し良くて七十位」
「ちょっと、佐伯先輩。内緒って言ったじゃないですか」
「まあまあ」
二人は打ち解けた様子だった。
佐伯が部活に対する姿勢を改め、美術部員も彼女のことを認めたということだろう。
そのことに自分が一役買えたということなら少し誇らしい気持ちになる。
「光太郎」
「何?」
佐伯の僕を見る目にいつの間にか蔑みが消え、信じられないことだが少し媚びているような印象がある。
佐伯がこんな視線を送ってくるとは思ってもみなかった。
何か嘘くさい。
「勉強教えてくんない?」
「別にいいけど」
「ほんと?よし、じゃあ早速」
「え?今から?」
「そ。今から」
「僕、あと一時間ぐらいしたら用事があるんだけど」
もちろん今日も病院に行くつもりだ。
「じゃああと一時間」
佐伯は僕の用事が何かを訊くことなく、テキパキと後始末を終わらせた。
「部長。悪いんだけどこの絵、乾いたら準備室にしまっといてくれる?」
そう言ってイーゼルごと美術室の隅に動かした絵には女性が描かれていた。
三面鏡の前に座り口紅を引く女性の後ろ姿。
彼女は背後に立った誰かに気づいたようで、鏡越しに目で微笑んで見せている。
これは佐伯の母親だろうか。
何気ない生活の一風景に現れた、母親の愛する我が子への深い慈愛の情が表現されているように僕は受け取った。
「行こ」
佐伯が僕の袖を引っ張るように掴む。
「どこへ?」
「図書室。別にあたしんちでもいいけど、どっちがいい?」
何かを試すように僕の顔を覗き見る佐伯にどぎまぎしてしまう。
僕は慌てて答えた。
「図書室で」
廊下に出た僕らの背中に西堀が、「ごゆっくり」と声を掛けたので、僕は振り返って思いきり睨みつけた。
しかし、西堀は首をすくめて小さく舌を出しただけだった。
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