第14話

「あいつって?」


 低い声に振り向くと自動販売機の陰からぬっと佐伯が姿を現して、僕は背筋を鉄柱で貫かれたように直立不動で立ちすくんだ。

 今度こそ本当に石になりそうだった。

 まともに佐伯の顔を見ることができない。


「い、いつ来たの?」


 思わず訊いてしまっていた。


 いつからそこにいたのか。

 どこから話を聞かれていたのか。


 互いの心音が聞こえそうなくらいに隣り合っている沙織も表情を失っていて、声を出すこともできないでいるようだった。


「今よ。時間でしょ?」


 反射的に腕時計を見る。

 確かに待ち合わせ時間にジャストのタイミングだ。


「丁度だね」

「ほんと、ぴったり」


 ハハハ。

 フフフ。


 僕と沙織は顔をぴくぴく引きつらせながら、何もおかしくないのに見つめ合って笑い合う。

 互いに笑うしか術がなかったようで、僕たちは何度も何度も頬の筋肉を持ち上げた。


 挙動不審の僕たちに冷ややかな視線を送りながら佐伯はゆっくりと切符の券売機に向かった。

 スキニーなジーンズに胸元が大きく開いたベージュのカットソー。

 色合いは地味だが彼女のスタイルの良い身体のラインをすっきりと見せていて中学生とは思わせない落ち着きが漂っている。


 彼女と二人きりで買い物にならなくて良かったと心底思う。

 僕と佐伯が並んで歩いていたら、道行く人にはどんな風に見えるのだろうか。

 本当にこいつ僕と同い年かよ。


「いくらの切符?」


 値段を答えようとしたら胃の奥からコーラの香りの大きなげっぷが出てしまった。

 慌てて口を抑えるが時既に遅し。

 僕をストーカーと訝しんだときと同じ冷淡な目で佐伯に睨まれる。

 ああ、もう石にでも何でもしてほしい。


「次の次の駅だから二百十円よ」


 沙織も緊張が抜けないのか少し声が上ずっているように聞こえる。

 私も買わなくちゃ、と明るく独り言を言いながら沙織が佐伯の隣の券売機に小銭を入れる。


「光太郎」

「何?」

「この人どなた?」


 気だるそうに沙織を指した細い指の爪が透明に光っているのはマニキュアを塗っているのだろう。

 それが少しも大人ぶって見えないのが彼女のすごいところだ。


「栗山沙織さん。同じ学年で隣のクラスの」


 切符を手にした沙織が「栗山です」と恭しく頭を下げる。


「光太郎が呼んだの?」


 沙織のお辞儀を無視して、佐伯が僕に不機嫌そうに問いかける。


「ごめんなさい。私が勝手に押しかけて来たの。話を聞いて楽しそうだなって思って」


 仁科君は悪くないの、という感じの、にこやかで友好的な表情で沙織が僕の前に立つ。


 陽平に誘われたのに恋敵の佐伯に対して陽平のマイナスになりそうなことを口にはしない。

 そこに沙織の度量の大きさと清らかな性格が垣間見える。


「楽しそう?画材買いに行くだけだよ」

「私もどんな画材があるのか見てみたいなって。いいでしょ?」


 別にいいけど、と呆れ気味に許しが出て、僕と沙織は一瞬視線を交わし互いに安堵の表情を見せ合う。


「じゃあ行こうよ。光太郎、何分の電車?」

「ちょっと待って。陽平がまだ来てない」


 腕時計を見ると待ち合わせの時間を三分過ぎている。


「いいじゃん。待ち合わせの時間はもう過ぎてるんだし、来ない人が悪いんだから」

「それはそうだけど、せっかくだからもう少し待ってあげようよ。ねぇ、栗山さん」

「もうすぐそこまで来てると思うの。私、電話掛けてみるね」


 沙織は肘にかけていた鞄から携帯電話を取り出し、僕たちから少し離れていった。


 耳に電話を押し当て、小首を捻り、ボタンを操作しては再び耳に当てる。

 同じ動作を繰り返していることからしてなかなか陽平がつかまらないようだ。


「昨日から理解できないんだけど、マツは何でついてくるの?美術部OBでもなければ絵が好きなわけでもないんでしょ?」


 佐伯が眉間に皺を寄せ、責めるような口調で僕を問い詰める。

 マツとは松波陽平のことに違いない。


「言ってたじゃん。画材屋のそばにサッカーグッズの大きな店があって、そこでスパイクを買うらしいよ」


 僕だって苛立ってくる。

 どうして僕が陽平のために佐伯の攻撃にさらされなくてはいけないのか。

 どうしてあいつは時間どおりに行動できないのか。


「だから、別にあたしたちと一緒に行く必要ないじゃん。スパイクでも何でも一人で買いに行けばいいでしょ?」

「そりゃそうだけど。僕、口下手だから僕と二人でいてもきっとつまらないよ。みんなで行った方が楽しそうじゃん」

「別に楽しくなくていいの。画材買って帰るだけなんだから」

「そう言うなって。部活はみんなでやるもんだよ。これもその練習だと思ってさ」

「光太郎はいつもそういうこと言うけどさ、前の学校じゃそんなこと言われたことないよ。部活動がどうとか、チームワークがどうとか」

「郷に入っては郷に従えってことだよ。うちの美術部はチームワークも重視してる。そういう学校ごとの校風も取り入れるのが部活動なんだよ」


 佐伯はむすっとした表情で押し黙った。


 完全に口から出まかせなのだが、部活の一環だと言えば彼女は大人しくなる。

 彼女なりに一応、僕のことを部のOBとして、あるいは美術に敬意を表している人間として尊重してくれているからなのだろう。

 しかし……。

 それも僕が幽霊部員だったってことがばれるまでだ。

 事実が知れたら僕はただでは済まないのではないか。

 何とか中学校を卒業するまでは佐伯の前ではアートを愛する人間の振りをし続けなければならない。


「サオリン、つながった?」


 佐伯がなれなれしく呼びかけると、沙織が俯き加減で戻ってくる。


「全然出てくれない」


 しょんぼりを絵に描いたような肩の落とし方だ。

 背中に疫病神が憑いていないか目を凝らしてしまう。


 遠くから踏切が鳴る音が聞こえてきた。

 電車が近づいてきている証拠だ。

 この電車を逃すと三十分近く待たなくてはならない。


「タイムオーバー」


 佐伯は一人で改札を通っていく。

 もはやその背中を引きとめる言葉が出てこず、僕と沙織は黙って見送るしかなかった。


 ホームへ向かう彼女の背中を見つめる僕の心に一つのアイデアが浮かんでいた。


 自動改札機が二台しかないこんな小さな駅で待ち合わせに失敗することはあり得ないし、いくら時間にルーズでも陽平は何の連絡もなしにすっぽかすような男ではない。

 とすれば沙織にここに残ってもらって、僕が佐伯と二人で買い物に行くというのはどうだろうか。


 今から佐伯と二人きりになるのは肝が冷える思いだが、やがて現れた陽平は沙織と行動を共にすることになる。

 僕たちを追いかけて電車に乗るも良し、諦めて別のデートをするも良し。

 どちらにせよ陽平との仲を深めたい沙織にとって悪い状況ではないに違いない。


「栗山さん、あのさ」

「仁科君」


 沙織も同じことを考えていたのか、僕が何も言わなくても彼女はこくりと頷いた。


 そのとき僕と沙織の間にぬっと黒いものが割り込んできた。


「いい雰囲気のところぶち壊してごめんよ。行こうか」


 陽平だった。

 僕と沙織の肩に手をまわして、まるでいななく馬をなだめるようにぽんぽんと叩く。


「行こうか、じゃねえよ。電車が来ちゃうだろ」

「だから行こうって言ってるんだろ。さ、早く、早く」


 これ、と沙織が陽平に切符を差し出す。

 彼女はあらかじめ二枚買っていたのだ。


 クー。

 何と甲斐甲斐しいことだろう。

 目頭が熱くなるのを禁じ得ない。


 しかし陽平は当たり前のような顔で「サンキュ」と受け取り、さっさと改札を抜けていった。


「陽平!」


 僕が怒鳴るように声を出すと、沙織が僕のTシャツの裾を軽くひっぱり、眉を八の字にして小さく首を横に振った。

 

 その「これも惚れた弱みなのよ」というような諦めに似た表情に僕は何も言えなくなる。


 余裕を持って予定時刻より前に来て待つ僕と沙織。

 精密機械のように時間きっかりに現れた佐伯。

 遅ればせに駆けつけるも電車にはギリギリ間に合わせる陽平。


 とにかく無事出発できそうで一息つくと、待ち合わせにもそれぞれの性格が出ていて面白いような気にもなる。


「じゃあ、行こっか」

「仁科君、お先にどうぞ」

「いや、ここはレディファーストで栗山さんがお先に」


 僕と沙織が改札の順序を譲り合っているとホームで陽平の大きな声がこだまする。


「ちんたらしてると置いてくぞ。何やってんだよ」


 ちゃっかり佐伯の隣に身を寄せるように立ってこちらに手を振っている陽平を見て、僕と沙織は盛大にため息をついた。


 到着を知らせる警笛が鳴り響きホームに電車が滑り込んできて僕と沙織は慌てて駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る