第13話

 地味だったろうか。


 僕は自分の身体を見下ろして何度目かの溜息をついた。


 何の面白味もない白地のアディダスのTシャツにジーンズ生地のハーフパンツ。

 まだ暑いからと足を出してみたのだが、まばらに毛が生えているにゅるっと伸びた生白い脛ができそこないの大根のようで貧相に見える。

 スニーカーはお気に入りのニューバランスだが、通学にも使っているので薄汚れていて改めて見るとどうにも冴えない。


 仕方がない。


 昨日、急に佐伯と画材屋に行くことが決まって服を買いに行っている時間がなかったのだ。

 そういう言い訳で自分を納得させて、今のところは待ち合わせの駅の切符売り場前から逃げ出さないでいる。


 しかし、時間的に余裕があったとしても恰好良い服装を調達できたかどうかは甚だ疑問だった。

 どういったものが女子に受けが良いか皆目見当がつかない僕が、時間に追われ一人で買い物に出かけたところで良い結果につながるとは思えない。

 普段から外見にもう少し気をつかっていればこういうことにはならなかったのだが。

 せめて靴紐ぐらいは、としゃがみ込んで一度ほどいてからきれいに結び直す。

 ここに来て三度目だ。


「仁科君、早いね」


 呼びかけられてハッと顔を起こすと、ミニのワンピースから伸びた柔らかそうな白く輝く脚が目に飛び込んできた。

 さらに視線を上げるとそこには……沙織の笑顔があった。


「こ、こんちは」


 素早く立ち上がると頭がフラッとした。

 緊張で血の気が失せる。

 盆の窪辺りが寒くなる。

 気を抜けば遠のきそうになる意識の尾を必死に手繰り寄せ、何とか挨拶代わりに白目を剥くような状態だけは回避した。


 これまで一緒のクラスになったことのない沙織と話をするのはこれが初めてだ。

 彼女が僕の名前を知っていたことが嬉しくもあり不可解でもある。


 それにしてもどうしてここに沙織が?

 偶然?

 それとも……。


「私、隣のクラスの栗山沙織。今日はよろしくね」


 ぺこりと頭を下げる。僕もつられて同じ動作をした。


「くぇ?」


 顔を上げると同時に僕は思わず鶏が首を絞められたような素っ頓狂な声をあげていた。

 事態をうまく理解できない。

 よろしく、ということは彼女も一緒に画材屋に行くということなのか。

 佐伯が彼女を呼ぶはずがないから、誘ったのは陽平ということになる。

 何のために……と考えたところで、僕はカッと胸から首筋までが一気に熱くなるのを感じた。

 陽平が言っていた「何とかしてやるよ」がおそらくこれなのだ。

 あの野郎、余計な真似を。


「顔赤いよ」

「そ、そう?」


 僕と沙織は切符売り場とジュースの自動販売機のわずかな隙間に並んで立った。


「やっぱり陽平君はまだよね」


 沙織が確認するようにあたりを見回す。


 僕は黙って大きく頷いた。

 腕時計を見ると待ち合わせの時間までまだ十分もある。

 時間にルーズなところのある彼が現れるには、まだ間があるはずだ。

 そう考えると沙織と二人きりの時間がすごく重いものに思えてきた。


 沈黙が続く。

 秒針がゆっくりと進む。

 沙織が現れてからのどが渇いて仕方がない。

 舌の奥が粘って声が渋滞してしまう。

 陽平が現れるまでどんな会話をすれば良いのか。

 ここで佐伯が到着したらますます何を話せば良いのか分からない。

 こんなことなら僕も時間ぎりぎりに来れば良かった。


 とりあえず自動販売機でコーラのペットボトルを買う。

 蓋を捻るといつものシュワッと炭酸が弾ける爽やかな音がして、それだけで少し救われたような気分になる。

 何となく耳からの刺激で脳の動きが活性化された感じがしてくる。

 可愛いワンピースだね、ぐらいの月並みだが僕にとっては画期的な褒め言葉がするりと口をついて出てきそうだった。


「私ね、陽平君のことが好きなの」


 占いにはまってるの、程度の軽い口調で沙織はさらりと僕に重大なことを告白した。


「そうなんだ」


 僕は一瞬蓋を開く手を止めたが自然に相槌を打っていた。

 不思議と心は冷静だった。


 やっぱりね、そりゃそうだよね、という気分だった。

 悔しいとか残念とかいうネガティブな感情は一切なかった。

 気持ち良いという感覚すらある。


 それはきっと僕が沙織に対して抱いていた淡い好意の正体が、遠巻きに眺めて知っている彼女の外見に対してだけの薄っぺらい好感でしかなかったからなのだろう。


 テレビに映るアイドルに覚える気持ちと同じだ。

 僕はまだ栗山沙織という女性を確固として好きだと想っているわけではなかったのだと思った。

 それとも時間が経つにつれてこの告白が、じわじわと麻酔が切れた傷口のように僕の心に痛みをもたらすのだろうか。


「だから、仁科君がもし私のことを……」

「違うよ」

「え?」

「陽平に僕が栗山さんのことを好きだ、みたいなことを吹き込まれたのかもしれないけど、それは陽平の早とちりと言うか一人合点なんだ」


 僕はコーラを口に含む。

 冷たい火花のような刺激が喉を潤していく。

 自棄に見えないようにゆっくりと口から離したペットボトルの蓋を閉める。

 同時に沙織への気持ちにもかたく栓をする。

 しっかり閉めたペットボトルはうっかり手から滑り落ちても、中身は一滴も零れることはない。


「そう。だったら私、失礼なこと言っちゃった。ごめんなさい」


 彼女は僕に深々と頭を下げた。

 背筋を伸ばしたきれいな姿勢で。


 僕は誰かからこんなにきちんと謝罪されたことがなく、しかもあの校内一美人の栗山沙織に許しを乞われる状況にあたふたと慌てた。


「ちょっと、そんなに謝らなくてもいいよ。元はと言えば陽平が悪いんだし」


 顔を起こしても沙織は申し訳なさそうな顔を崩さなかった。

 九回裏にサヨナラエラーをしてしまった甲子園球児ぐらい悲壮感が漂っている。


「陽平君は悪くないの。昨日陽平君に誘われたときにメンバーを聞いて私が勝手に想像しちゃったの。私こそ一人合点」

「メンバーを聞いただけで僕が栗山さんのことを好きだと思ったの?」

「だって、陽平君は佐伯さんのことが好きなのにわざわざ私を誘うってことは、そういうことなんだろうなって」

「え?知ってたの?」


 僕は思わずそう訊いてから、しまった、と唇を噛んだ。

 今、僕は陽平が佐伯に好意を持っているということを暗に認めてしまったことになる。

 しかし、ピストルから放たれた銃弾のように、一度発した言葉は取り戻せない。

 僕の不用意な言葉は沙織の胸に深く突き刺さっただろうか。


「陽平君はサッカー馬鹿だから考えてることはすぐ分かっちゃうのよ。佐伯さんが転入してきてからあの人変わったもの。でもね、私の気持ちはそう簡単には変えられないのよ」


 そう言って虚空を睨む沙織の顔は同学年とは思えないほどきりりと引き締まっていて格好良かった。

 これが誰かを好きになっている人の顔かと思った。

 どこか不安げで、だけど退くことはできないという必死さと気迫が伝わってくる。

 そこには男には真似のできない芯の強さがあるようだった。

 よくテレビ番組なんかで「男は女には敵わない」という言葉を耳にするけれど、その意味が少し分かったような気がする。

 それにしても彼女の鋭い観察力と洞察力には脱帽だ。

 沙織は熱いだけでなく冷静さを兼ね備えている。


「ね、ね、ね。じゃあさ、じゃあさ」


 急に彼女が何か楽しいことを思いついたようなキラキラ輝く瞳で僕の顔を覗き込むように見つめてくる。


「何?」


 その上目づかいのまっすぐな瞳があまりに澄んでいて、僕は初めて陽平に嫉妬を覚えた。

 至近距離でそんなに見つめてこないで。

 僕は目を合わせていると石にされてしまいそうな感じがして、慌てて視線を逸らした。

 畜生。

 目茶苦茶可愛いじゃないか。


「仁科君は佐伯さんのこと好き?」

「は?それはない」


 僕は少し鼻白む思いでコーラをぐびぐび飲んだ。


 あんな勝気な女、好きなはずがない。

 僕のことをストーカー呼ばわりしやがって。

 そもそも何であいつの買い物に付き合わなくてはならないのか。

 陽平もあんな傲慢な女よりも沙織と付き合った方が楽しいに決まっているのに、本当に馬鹿だ。


「そっか、残念」

「どうして?」

「だって、もし仁科君が佐伯さんのこと好きだったら、佐伯さんを陽平君に取られないようにしたくなるわけじゃない?それって私と利害関係が一致するもん。仲間になれるところだったのに」


 沙織と仲間か。

 それって悪くない。

 いや、すごく楽しそう。


 僕はたった数分の会話で学年のアイドルとの距離がぐっと縮まった感じがして嬉しかった。

 沙織と恋人同士になるなんて想像するだけで気後れしてしまうが、彼女の方から仲間だって言ってくれるなら僕は喜んで彼女の援護射撃をするつもりだ。

 僕は残ったコーラを一気に飲み干し清涼感たっぷりで沙織に向き直った。


「僕、栗山さんのこと応援するよ」

「ほんと?ありがと!でも、仁科君は陽平君にも同じようなこと頼まれてるんじゃないの?」


 陽平が僕みたいなイケてない凡人に何かを期待するはずがないし、もし頼まれたら頼まれたで僕も何をしたら良いのか分からず困ってしまう。


「そんなこと言い出すような奴じゃないよ。自信満々だもん。それに陽平には栗山さんがお似合いだって。あいつなんかより断然」


 僕の中の沙織のイメージが変わりつつあった。

 清純派の世間知らずのお嬢様だと思っていたのだが、恋の駆け引きみたいなことに挑戦しようっていう姿勢は僕よりも断然大人だ。

 恋愛の成就のためにひたむきな姿勢を見せる彼女は、僕の中で今までとは違うベクトルにではあるが、なお一層好感度が上昇した。

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