第12話

 そこへ不意に背後から何かがぶつかってきた。

 その衝撃に膝から崩れそうになって、慌てて壁に手をつき身体を支える。


「佐伯と何話してたんだよ?」


 振り返ると陽平の顔がそこにあった。

 いつから居たのだろうか。

 お前も隅におけないな、とにやけた口角のあたりが言っている。


「別にたいしたことじゃないよ」

「そんなことないだろ。佐伯が行っちゃった後のお前は完全に腑抜けになってたぞ。振られたのか?」

「そんなんじゃないっ!」


 ストーカーの次は失恋男か。

 馬鹿馬鹿しい。


 僕は何もかもが面倒になって陽平を置き去りにして階段を降りていった。

 今の僕はこの場に倒れこみたいほどクタクタで口をきくのも億劫なくらいなのだ。


 「怒んなよ、光太郎。悪かった、冗談だって」と慌てた感じで陽平が追いかけてくる。


「別に怒ってない」


 反射的にそう言ったが頭はカッカしていて鼓膜のあたりがぼわんとしている。


「見るからに怒ってるよ。お前にしては珍しく」

「陽平がからかうからだろ」

「だから悪かったって」


 階段の踊り場で僕は大きく深呼吸した。


 少し冷静になろう。

 陽平と喧嘩しても仕方がない。


「佐伯が美術部に入りたいって言うから顧問のところに案内したんだけどさ」


 僕は少し冷静さを取り戻して、歩きながら陽平に事の成り行きを説明した。

 しかし喋っているうちにまた胸のあたりに血が滾ってくるようだった。


 西堀の責任転嫁する強引さ。

 佐伯の人を小馬鹿したような態度。

 女子というのは皆どうも鼻持ちならない。


「そっか。そりゃ、俺でも頭にくるわ」

「だろ?ほんとむかつくんだよ」


 僕は激しく陽平に同調した。

 

 やっぱり男は話が分かる。

 他でもない陽平がそう言うのだから、僕が憤るのは間違ってはいないのだ。

 西堀に対しても、佐伯に対しても。


「でも良かったよ」


 陽平が前を向いたまま安心したように表情を緩める。


 陽平が良かったと思うのならきっと僕も良かったと思うだろう。

 そう思わせるほど陽平の笑顔は尊さを感じさせる。


「何が?」

「光太郎が佐伯のこと好きじゃなくて」

「どういうこと?」

「もしそうだったとしたら、俺と佐伯が付き合うことになると、光太郎が可愛そうじゃん」

「は?」

「いや、俺、最近佐伯のこといいなって思ってて、気になってるんだ」


 えー!


 僕は思わず立ち止まって声を上げていた。

 驚きだった。

 陽平が佐伯のことを好きだということと、陽平が沙織のことを好きではないということに。


「声が大きいって」


 陽平が手で僕の口を押さえるような仕種をする。

 その顔が朱に染まっていた。


 陽平は本気なんだ。

 そう思ったとき僕は一つの疑問を口にしていた。


「沙織はどうするの?」

「どうして沙織が出てくるんだ?」


 陽平がきょとんとした表情で首を傾げる。


「だって、陽平は沙織と付き合ってるんでしょ?」

「は?付き合ってねえよ。どうしてそうなるんだ」


 陽平はいかにも心外という感じで吐き捨てるように否定した。


 しかし、陽平と沙織が恋仲だというのは全校生徒の常識のようなもので、そう思い込んでいるのは僕だけじゃないはずだ。

 仲良さそうに話をしている二人を見て、悔しいけれどお似合いだ、と校内の至る所で囁き合っているのを耳にする。

 あの親密な様子で付き合っていないということなら、僕の中の「お付き合い」の定義が根底から揺らいでしまう。


 果たして沙織は陽平のことをどう思っているのだろうか。

 彼女の方は付き合っているつもりなのではないだろうか。


「さては、光太郎」

「何?」

「お前、沙織のこと好きなんだろ」


 今度は僕の顔が赤らむ番だった。


 沙織のことは可愛いと思うが、好きという感情にまで至っているのかどうかは自分でも分からない。

 しかし、面と向かってそう言われると恥ずかしくて身体が熱くなる。


「そうかそうか。よーし、じゃあ俺が何とかしてやるよ」


 何が嬉しいのかにたにた笑って陽平が僕の肩を抱く。


「いいって、そんなこと」


 僕は慌てた。

 何かにつけて積極的な陽平には分からないだろうが、僕としてはこういうことは人知れず慎重に動きたい。

 ましてや今は自分の気持ちもはっきりしないのに、自分以外の人間に勝手なことをされてははっきり言って迷惑だ。


「遠慮するなって。任せとけよ」


 僕から逃げるように陽平が後ろ歩きで小走りしながら下駄箱に向かう。


「違うんだって、本当に」


 僕は何故か楽しそうな様子の陽平を追いかけて、その肩越しに下駄箱にもたれている意外な人物を発見した。


 長い髪。

 すらりとしたスタイル。

 僕は思わず表情を強張らせて足を止めた。


 僕の視線を感じて陽平も立ち止まり背後を振り返る。

 彼も瞬時に四肢を硬直させたのが、その背中からビリビリと伝わってくる緊張感で如実に掴めた。


「ちょっと話があるんだけど」


 暗く鋭い目つきは完全に僕を捉えていた。

 ここで先ほどの続きをやろうというのか。


 僕は全身の肌が粟立つのを感じた。

 彼女はきっと僕の言動を思い出し腹に据えかねてここで僕を待ち構えていたのだろう。

 そして僕をこの場で八つ裂きにして血祭りにあげるつもりなのだ。

 僕は自分の首が白木の台にちんまりと載せられて、校舎の玄関前に晒されている様子を想像して身震いした


「な、何ですか?」


 声が喉に引っかかって上手に出ない。

 完全に不意を突かれた格好の僕は何の心の準備もできておらず、思わず下手に出てしまっていた。


 こうなったら手は一つだ。

 三十六計逃げるに如かず。

 僕は逃走経路のイメージを頭の中で作り上げながら、彼女が何を言い出すか、その口の動きに注目した。


「このあたりで画材ってどこで売ってんの?」


 彼女が視線を翳らせ苦り切った表情で呟いた言葉は、彼女の口の動きに傾注していなければ聞こえないぐらいの小さな声だった。

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