第11話

 授業が終わるや否や、誰とも無駄話をせず鞄を下げて教室を出ていく佐伯の背中をこっそりと僕は追った。


 長い髪を軽く揺らして廊下の中央を闊歩する佐伯。

 まるでモデルが花道を歩くように堂々と一定のスピードを保って突き進む。

 彼女の前に立つのを怖れるかのように、同学年の生徒たちが次々と脇に寄っていく。


 彼女の人を寄せ付けないオーラは、後姿を見ているだけでもビリビリと伝わってくる。

 僕の足取りは一歩一歩重量感を増していった。


 あの佐伯に部活動の何たるかや集団行動でのマナーを説かなくてはならないのか。


 僕は身の丈に合わないひどく大それたことをしようとしている気分だった。

 全校集会で訓話する校長に「話が長い」と説教するとか、職員室に乗り込んで梶田先生に「その服どこで売ってるんですか?」と訊ねることの方がまだ簡単に違いない。

 果たして僕にそんな胆力と能力が備わっているのだろうか。


 彼女に声を掛けるタイミングを計るどころか、見失わないようについていくだけで息が切れてくる感がある。

 そんな僕にはこの距離を詰めて彼女の肩を叩きこちらへ振り向かせることなど、沙織にデートを申し込むことより難易度が高いことのように思える。


 彼女は迷いのない足取りで階段を上がっていく。

 この棟の三階には美術室がある。

 彼女は今日もそこでキャンバスと対面するつもりなのだろう。


 一段一段上るたびに張りと弛緩を繰り返す彼女のふくらはぎの肉感的な動きは、父さんが日曜に見ていた競馬中継のサラブレッドの四肢を彷彿とさせる。

 膝裏の青みがかった血管が透けて見えるような白さはいやに扇情的だ。

 フェチという言葉を耳にすることがあるが、僕は自分が女性のその部分にフェティシズムを覚えるのかもしれないと思い至って何となく自己嫌悪を覚えた。

 性的興奮を肯定的に捉えられない心理は僕がまだ子供だということなのだろう。


 そんなことをぼんやり考えているうちに彼女はさっさと階上に消え、姿が見えなくなってしまった。

 僕は慌てて彼女を追いかけた。


 階段を駆け上り美術室の方へ廊下を右に曲がったところで僕は真横から声を掛けられた。


「何か用?」


 ひっ。


 僕は声にならない声とともに飛び上がって驚いた。

 その拍子に彼女がもたれているのとは反対側の壁にしたたかに肩をぶつけて思わずうずくまる。

 小さく呻きながら痛みの中で僕は自分の腹が据わるのを感じていた。

 彼女は僕が後を追っていることに気づいていたようだ。

 この状況を取り繕う言い訳など何も見当たらない。

 そして、この場を逃せば西堀に求められたことを達成することはもう無理だろう。

 動揺している心臓の動きを勢いに変えて、このまま彼女と対峙しよう。

 僕は鈍痛の残る左肩を抑えながら彼女の眼前に立ち上がった。


「あのさ……」


 僕が腹を据えて口を開くと、佐伯は冷ややかな視線で僕を射すくめる。

 あまりの冷たさに僕は心臓を凍らされて意識を失いそうだ。


「昨日も、一昨日もあたしをつけまわしてたでしょ」


 良くご存じで。

 心当たりがありすぎる僕は後ろめたさで途端に彼女の顔を正視することができなくなった。


 昨日や一昨日だけでなく金曜日の今日まで今週は毎日話しかけるきっかけを求めて僕は彼女を追い続けていたのだった。


 西堀に期限を設定されていた。


 今週中になんとかしてくださいね。


 言葉は丁寧だが彼女の口調には反論は許さないという断固とした強さがあった。

 できなければ身の安全は保障しませんよ、と鋭利なナイフで顔を撫でられたような気分だった。

 半ば一方的に電話を切られてしまってから、僕はあっという間に過ぎ去っていく一日一日を追い立てられるような気持ちで過ごしていた。

 何で僕が、と考えないわけではない。

 放っておけば良いじゃないか。

 そうは思っても目ではずっと佐伯を追ってしまっていた。


「ストーカー?」


 佐伯が気持ち悪いものを見るように顔を歪めるのを目の当たりにして、僕は屈辱的な気分に全身をわなわなと震わせた。

 全てはお前のせいだ。

 それなのにその態度は何だ。


「違う!」


 唾を飛ばしながら僕は身体を熱くする。

 僕は男として最も忌むべき汚名の一つを浴びせられ発奮し、やっと佐伯の目を見返すことができた。「君に言っておきたいことがあるんだ」


「何よ」


 突き放すような低く冷たい声。

 佐伯は僕のことを半ば本気でストーカーと思っているのだろう。

 腕を組んで斜に構える彼女の心は非常に遠くにあることが分かる。


 千里の道も一歩から。

 とにかく一歩踏み出すことが大事だ。

 踏み出しさえすれば後はそれの繰り返しなのだから。


「今日も美術室で絵を描くのか?」

「そのつもりだけど、そんなこと美術部を辞めた人に関係ないでしょ」

「それがあるんだよ」

「どうして?」

「どうしてって佐伯は美術部員じゃないのか?」

「カジカジには認めてもらったわよ。それは光太郎だって知ってるじゃん」

「だったらOBの言うことは聞いてもらわないとな」

「何それ?意味分かんない」


 佐伯が面倒臭そうに眉間を曇らせ目を細める。


「部員にとってOBの言葉は絶対だ。それが部活動ってもんなんだよ」


 幽霊部員だった自分が部活動について語っているなんて僕が一番驚いていた。

 しかも口から出てくる理屈が筋が通っているのか甚だ自信がない。

 それでも言ってしまった以上後戻りはできなかった。

 僕はあるのかどうか分からないOBの威光を笠に着ているつもりで言葉を続けた。「部活動は礼に始まり礼に終わる。佐伯は美術室に入るとき、出るときに挨拶をしてるか?」


「そんなこと言いたくてストーカーしてたの?」


 呆れた、と佐伯は僕を馬鹿にしたように苦笑する。


「だから違うって。挨拶の話は例えばってこと。部に入ったんなら部員同士仲良くするのは当たり前だろ。美術部は一人でやってるわけじゃないんだ。部長や部員に自己紹介ぐらいしたのか?」

「絵を描くのは個人。自分以外他に誰もいらない。あたしに指導できそうなレベルの人はいないし、話し相手がほしくて美術部に入ったわけじゃない。だから今のままで何の問題もない」


 佐伯が低い声で押し通す主張に思わず頷いてしまいそうになる。

 しかしここが踏ん張りどころだ。


「佐伯に問題がなくても周りは問題だと思ってるんだよ。佐伯が美術室で使ってる画材は部員がお金を出し合って買ったものだ。部費は払ってるのか?誰の許可をもらって画材を使ってる?美術部には美術部なりのルールがあるんだよ。それが守れなきゃ部員じゃないし、部員じゃなければ放課後に美術室は使えない」


 言い終わった後の声の響きに爽快感があった。

 ストーカー呼ばわりを辞めさせたい一心で思いつくままに言葉をつないだが、佐伯相手にこれだけ開き直れるとは思いもよらないことだった。

 これだけ言えばさすがの佐伯も少しはしゅんとなって可愛げのあるところを見せるのではないか。


「くっだらない」


 へ?


「あたし、美術部辞めるわ。誰に唆されたのか知らないけど光太郎も御苦労さま」


 手をひらひらと軽やかに揺らし余裕の頬笑みを残して身を翻すと、彼女は躊躇する様子もなく階段を降りていった。


 こんな展開になるとは。


 部費は幾らなのか。

 部長は誰がやっているのか。


 これだけ言えばそういった美術部に在籍し続けるための質問が返ってきて当然だろう。

 そう思い込んでいた僕は返す刀でばっさりと袈裟掛けに斬られたような、ぐうの音も出ない敗北感にしばらく呆然と立ち尽くすだけだった。

 千里の道は途中で途絶えていたようだった。

 気が付けば踏み出した足を置く場がなく暗闇の奈落に真っ逆さまだ。


 どれぐらい僕はぼうっとしていただろう。

 真っ暗闇の中にいるような感じがしていたが気がつけば目の前には校舎の白い壁があった。

 当然ここは美術室前の廊下だ。


 とりあえず、だ。

 とりあえず責任は果たしたと思えば良いだろう。


 西堀が求めている結果には至らなかったが、佐伯が部を辞めれば彼女が部員から責められることはなくなるのだから、彼女もほっとするに違いない。

 僕もこれ以上佐伯のことで誰かに何かを求められるという事態は降りかからないという意味では、この展開は大成功だったのではないか。


 そうだ。

 そうに違いない。


 僕はようやく自分なりに状況を良い方向に解釈することができて顔を起こした。

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