第10話
車の中で父さんがカーステレオに合わせて、お気に入りの懐メロを口ずさんでいる。
父さんの横でこれまでも何度となく聞いてきたその退屈なメロディーが、今日の僕にはどうにも耳触りで仕方がない。
歌のテンポがいけないのか、父さんのお世辞にも上手いとは言えない唄声が気に食わないのか。
先ほどの西堀からの電話でブルーになっていた僕はとにかくイライラしていた。
息がつまりそうだがクーラーを掛けているから窓を開けるわけにもいかない。
当てどなく窓の外に目をやりながら、花屋で買った花束を握る手に力を込める。
漸く病院の駐車場に到着する。
父さんより先にシートベルトを外し車から降りると、僕はのっそり出てきた父さんの前に立って歩いた。
先導するためではない。
父さんの顔を見なくて済むからだ。
毎日のように通っている病室までの階段や廊下も父さんと一緒だと何かが違う。
親と歩くのが気恥ずかしく早く病室に入りたくて、どうしても足早になってしまう。
しかし、父さんは僕の気持ちも知らずにゆっくりと歩く。
何となく足取りが重いように見えるのは、単に僕の気が急いているからだろうか。
ノックして病室に入ると母さんはベッドにちょこんと座っていた。
膝の上に載せていた雑誌を枕の横に置き、こちらを見て「いらっしゃい」とキュッと口角を上げて微笑む。
母さんの所作や声がどことなくぎこちなく他人行儀に見える。
何故だろう。
いくら夫婦でも久しぶりに会うと鯱張ってしまうものなのだろうか。
「調子はどうだ?」
父さんが素気ないお決まりの言葉を口にする。
「うん、ぼちぼち。それにしてもすごい日焼けねぇ。真っ黒」
「そうか?これでも最近は現場に出ることが減って、ましになったんだけどな」
「少しは休めるようになったの?」
「ああ。だから今日は久しぶりにこうやってここに来られた」
「そうね。どうも、ありがとうございます」
母さんが恭しく頭を下げる。
「いや、別にそんな……」
先ほどから両親は目を合わせようとしない。
会話も上辺だけで、まるで用意された台本をなぞっているようだ。
しかし、そのやりとりがどちらかだけ空回りするということがないのは、さすがに何年も連れ添った間柄のなせる業と感心する。
それにしても明らかに余所余所しい空気は、二人の子供という立場の僕には少々いたたまれない。
「座ったら?」
母さんがベッドの横を指さす。
「あ?ああ」
父さんは初めてそこにパイプ椅子があるのを知ったかのような顔つきで母さんの横に腰を下ろす。
しかしそれでも夫婦の間には会話が生まれない。
僕がいるから水入らずとならないのだろうか。
「活けてくる」
僕が花束を持った右手を軽く上げて枕もとのガラスの花瓶を掴むと、慌てたように父さんが立ち上がる。
「俺が行ってこようか」
「そんなのいいよ。いつもやってるし。座ってて」
「そうか」
父さんが所在なさそうに再び腰を下ろす。
「きれいなお花ね」
「あ、ああ。最近はバラの色も種類が多くなってるんだな」
いったいどうしたのだろう。
前からこんな感じだったっけ。
僕は病室から出るときに一向に打ち解けない様子の両親を見やって小首をかしげた。
部屋に戻ると、とうとう二人は黙ってそれぞれ自分の手を見下ろしていた。
今さら自分の指の形や甲に浮き出ている血管に興味なんかないだろうに。
「昨日は夕立が降ってきて大変だったよ。びしょ濡れになっちゃって」
どうして僕が気を遣って話題を提供しなくちゃいけないんだ。
それともこれは余計なおせっかいなのだろうか。
「そうそう。眠る前にすごく雲行きが怪しくなってたから心配だったのよ。やっぱり降ってきたのね。自転車で帰ったの?滑って転んだりしなかった?」
母さんが少し眉間を曇らせて僕を見上げた。
「道路は空いてたから逆に安全だったよ。問題なし」
「そう言えば、昨日光太郎の担任の先生が家庭訪問に来たんだ。今の成績ならK高校は大丈夫だとさ。実力テストの結果は文系科目が少し物足りないって言ってたけど」
父さんが厳めしい顔つきで僕を見る。「苦手なのか?俺が教えてやろうか」
急に饒舌になった父さんが鼻を膨らませる。
学芸員になるぐらいだから父さんはきっと文系科目に自信を持っているのだろう。
留学経験もあるらしいから英語だってそこそこ喋ることができるのかもしれない。
「たまたま調子が悪かっただけだよ」
本当は毎回国語や英語の点数が低迷していて足を引っ張っているのだが、父さんに教わるのだけは避けたい僕は逃げを打った。
しかし、今後高校に行って理系を選択したとしても、英語は重要科目だから何とかしなくてはならない。
今までは何となく毛嫌いしていて勉強に身が入らない英文法だが、父さんがしゃしゃり出てくる前に今日からは気合を入れて取り組まねば。
「担任の先生って坂本っていう女性の方だったかしら?」
坂本先生の話をしたことあったっけ。
母さんが覚えているということは母さんとの会話の中で登場したことがあったのだろう。
相変わらず母さんの記憶力の良さには舌を巻く。
「そうそう、その坂本先生が転入生のこと言ってたな。何でも、光太郎が美術部員で、その子も美術部に入りたくて光太郎が優しく相談にのってくれたから助かったとかって。お前、美術部だったんだな」
僕は暗澹たる気分になった。
誰がいつ優しく相談にのって佐伯を助けたって?
「あら、そう。その子って女の子?」
母さんが今日初めて母さんらしい柔らかい表情を見せる。
僕の顔に浮かぶ表情の変化を見逃すまいと目を大きく見開いて。
「そう言えばさっき女の子から電話があったよな。西堀とか言ってたけどその子か?」
父さんがいたずら好きの子供のように、僕に訊ねるふりで母さんに告げ口をする。
ああ、面倒なことになってきた。
母さんは頬を光らせて、さらに僕に詰め寄る。
「え、そうなの?光太郎に女の子から電話なんて今までもあったの?」
「俺は知らないな。おい、どうなんだ?」
ようやく夫婦らしいがっちり噛み合った連携を見せて一人息子をからかう両親を前に僕は羞恥心で顔が熱くなるのを止められない。
何でも良いからとにかく否定しないと。
「そんな電話ないよ。今日のも部活の事務連絡。西堀は一つ年下で今年から部長やってる子なの」
強い口調で説明しても、二人はにたにたと笑うだけだった。
「お前、三年の夏なんだから部活はもう引退したんじゃないのか?」
「引退したのに掛かってくるなんて、何かあったの?」
僕はぐっと奥歯を噛みしめた。
先ほどまではぎくしゃくしていたのに、二人のこの息の合いようは何なんだ。
「その転入生の件だよ。三年なのに今頃に入部してきたから、どう扱っていいのか分からないみたいで」
「ふーん。で、その転入生は女の子?」
ここで本当のことを言ったら事態の収拾は覚束ない。
「名前は何ていうの?」「外見はどんな感じ?」などとさらなる質問攻めが繰り返されるのは火を見るより明らかだ。
「男だよ、男」
僕はシッシとまとわりつく犬を追い払うように断言した。
父さんは坂本先生から佐伯が女子であることを聞かされていたかもしれないと思ったが、知っているなら既に母さんに教えているはずだ、と僕は心の中でその可能性を否定した。
「本当にぃ?」
母さんは楽しくてたまらないという感じで聞き分けのない幼児のように執拗に食い下がってくる。
「本当だよ」
言い捨てると僕は母さんに背を向けて備え付けの冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いで一気に飲み下した。
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