第9話

 僕に告白?

 まさか。


 しかし、一旦辿りついてしまったその思考に僕の心は勝手に高揚した。

 高鳴り出した胸のドキドキが受話器越しに聞こえてしまっていないだろうか。


 好きです、先輩。


 そんなこと言われたらどうしよう。

 西堀、西堀……。

 かわいい子かな。

 いくら不真面目だったとは言え全く参加していなかったわけではないのだから、美術室内で顔を合わすことはあったはずだが……。

 大所帯でもないのにやはり何も思い出せない。

 今日の電話での受け答えだけ取ってみれば丁寧な口調から悪い印象は全くない。

 とりあえず会ってみて……。


「佐伯さんって知ってますか?」

「佐伯?」


 やっぱり僕への告白ではなかったようだ。

 背骨を抜かれたように力が抜けて、僕はベッドに転がり込んだ。

 仰向けに寝そべると投げやりな声が出てしまう。「同じクラスだから、そりゃ知ってるけど」


 そう言えば佐伯とは梶田先生を探しに美術準備室に同行したとき以来ろくに話はしていない。

 あの後彼女の部活動はどういう展開になったのだろう。

 美術室を使わせてもらいたいと願い出て、梶田先生も案の定二つ返事であっさり許可していたが。

 美術部の部長から佐伯の名前が出てくるということは、本当に部活に参加しているということなのだろうか。


「どういう人ですか?」

「どういうって言われてもなぁ」


 彼女が転校してきてからまだ半月ほどしか経っておらず、彼女について何かを語るほどの知識はない。

 強いて言えば何を考えているか分からなくて怖いということなのだが、そんなマイナスイメージは伝えづらい。


「会話されたことあります?」

「少しだけど」

「普通ですか?」


 ものすごく曖昧な問いかけにどう答えたものかと逡巡する。

 佐伯との数少ないやり取りを思い出してみると、僕の中での普通の定義からはかなりはみ出しているような気がするが。


「普段は無口で外見は少しとっつきにくい感じはするけど、話せば結構フランクだよ」


 モノは言いようだ。受験生にもなるとこういう言い回しができるようになる。


「そうなんですか。良かった」


 受話器の向こうから、少し安心した、という感情が伝わってきて、逆に僕は若干不安になった。「佐伯さんって見た目的に怖そうな感じがしたんで、ちょっとほっとしました」


 やっぱり。

 

 僕の雅な表現の仕方では彼女のサディスティックで強引な性格を包みこんだオブラートがちょっと厚すぎたようだ。

 実際は見た目に輪を掛けて性格も怖いのに。


「何かあったの?」

「あのですね……」


 言いにくそうに口ごもる。「最近ちょこちょこ放課後に佐伯さんが美術室に現れるんです。それで二時間ほど絵を描いていかれるんですけど、その、ちょっと……」


「ちょっと、どうしたの?」

「私は別にいいと思うんですけど、部のイーゼルを使ってらっしゃるんです。あと準備室に置いてある部員の画材を勝手に使ったりも。挨拶して無視されたって言う子もいます。それで部員から、部長なんだから一言言ってくれって言われて正直困っちゃって……」

「なるほど」


 僕は思わず唸った。

 さもありなん。


 佐伯は周囲の気持ちを忖度するという面が欠けているように思う。

 きっと彼女にも他の生徒をないがしろにするつもりはないのだろうけれど。


「こんなこと言ったらなんですけど、美術部の部長って運動部の部長と比べると形だけのもので、大した役割ないじゃないですか。やることって言ったら部費と美術準備室の鍵の管理ぐらいで。だから軽い気持ちで引き受けたんですよ。これで内申点が上がるんならラッキーかも、みたいな感じだったんです。だから部長になって早々にこんな事件が起きるなんて思ってもみなくって。だから私……」


 僕は受話器を耳から少し離した。


 西堀はお喋り好きなのだろう。

 僕はまだ打ち解けたつもりはないのに、ベテランの講談師のように息つくことなくどんどん言葉を浴びせてくる彼女の声が少し耳にうるさくなってきた。

 だからと言って無下に電話を切ることもできないのだが。


 僕はベッドから身を起こした。


 事件という表現はちょっと大げさな気もするが、彼女の我が身の不運を嘆く気持ちは理解できなくもない。

 相手があの佐伯でさえなければ彼女にとっても「事件」とまではならなかったのだろう。


 僕だってクラスメイトでありながら佐伯に話しかけるのは勇気が要ることで、そんな場面はできれば避けて通りたい。

 僕が西堀の立場だったらと考えると背中が寒くなるようだった。


 それに女の子と電話をする機会なんて初めてのことで、異性とのコンタクトに免疫がない僕にとってはこれは非常に貴重な経験であることは間違いない。

 しかも、もし西堀がそれなりのルックスだったとしたら、ここで彼女と仲良くなっておくことは僕に残された中学生生活において損であるはずはない。

 お喋りは女性共通の特性なのかもしれない。

 少しぐらい耳がキンキンしたってここはひとつ先輩として彼女の悩みを真剣に受け止めてあげよう。


「……そうしたら仁科が何とかしてくれるって」

「は?僕が何だって?」


 彼女の話に注意を戻した途端に僕の名前が出てきて声が裏返ってしまった。


「もう。先輩、私の話聞いてくれてました?」

「もちろん聞いてたけどいきなり名前を呼ばれたからちょっとびっくりしちゃって。ハハハ……。で、どうして僕が出てきたんだっけ?」

「いきなりじゃないですよ。ですから、困って梶田先生に相談してみたんです。いくら幽霊とは言え一応美術部の顧問なので。そうしたら梶田先生が一言、佐伯を美術部に勧誘したのは仁科だから仁科が何とかしてくれる、って。だから今日先輩にお電話してるんです。お願いします。何とかしてください」

「ちょ、ちょっと待って。僕は別に佐伯を勧誘なんかしてないって」


 それは間違いない。佐伯に脅されて梶田先生の所まで案内させられただけだ。


「でも、先生は先輩が佐伯さんを連れてきたって言ってましたよ」

「それはそうだけど」

「こんなこと言ったら失礼かもしれないですけど、美術部OBとして勧誘なさった以上、先輩にも責任があると思うんです」


 電話なのに実際に目の前で西堀から詰め寄られているような圧迫感を受ける。

 僕は後には退けないという部長の使命感ような気迫にたじろいでいた。


 責任ねぇ。


 思いがけず後輩から突き上げを食らい、突然中学生にはなじみのない言葉が僕の心に重くのしかかってくる。

 僕は生れて初めて他人のことに対して責任を果たさなくてはいけなくなってしまったようだった。

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