第15話

 見慣れた車が正面からやってきて、僕たちの背後に通り過ぎていく。

 ほんの一瞬の出来事に僕の心は千々に乱れた。


 何故?

 どうして?


「どうしたの?仁科君」


 僕の異変に気付いたのは沙織だった。

 小首を傾げて天使のようなキラキラと輝く瞳で僕の顔を覗きこむように見つめる。


 僕は必死に表情を取り繕い口角を上げた。


「何でもないよ。さ、早く行こう」


 西の空を指さして前進を促す。

 そこには複合商業施設の外壁に設置された大きな観覧車がゆったりと回転していた。

 様々な若者向けの人気ショップがテナントとして入っているこのビルは、今年の春に建てられたときにシンボルの観覧車でも大きな話題を呼んだのだが、ここにいる四人の誰もまだ乗ったことがなかった。

 一通り買い物を終えたとき「記念にあれに乗ろうよ」と高らかに提案したのはもちろん陽平だった。


 僕は佐伯の様子を窺った。

 いくら陽平の提案でも、彼女はきっと「子供じみたことを」と小蠅を追い払うような仕草で却下するだろう。

 そんな僕の予想を見事に裏切って彼女があっさり「いいよ」と同意したことで、僕たちは彼岸の時季に一向に弱まらない日差しの下をてくてく歩いてきたのだ。


「栗山さんは観覧車好きなの?」


 僕は精一杯テンション高く沙織に話しかける。


「そうねー」


 実は高所恐怖症なのよ。

 でも、ここは退けないでしょ。


 沙織は小声で僕に耳打ちすると、決意の眼差しで目前に迫った鉄の塊を見上げた。

 そしてその視線をライバルに向ける。


「佐伯さんはどう?」

「あたし、馬鹿だからね。煙と一緒」


 佐伯が余裕の笑みを浮かべるのを見て、沙織の目にさらに力が宿る。


 マジかよー。


 先頭を歩く陽平がうんざりした声を出す。


「一時間待ちだってよ」


 振り返った陽平は恨めしそうにギラギラ照りつける太陽を見上げた。


 前方を見遣ると乗り場のある二階から延々と人の列が続いていて、僕たちの目前に「ここから一時間待ち」というプラカードを持った店員が立っていた。


 とりあえずそのまま列の最後尾に並んでみたものの、日除けのない歩道の上でこれから一時間立ち続けるという状況に、僕たちは悲壮感漂う顔を突き合わせる。


「どうする?」


 言い出しっぺのくせに陽平が滴る顎の汗を手の甲で拭いながら弱々しい声を出す。


 しかし、列に並ぶ人たちの一様にうんざりした顔を見ると、ここは確かに思案のしどころだ。


 軽いノリだったのに荒行、苦行のようになっては誰かさんの機嫌を損ねかねない。

 そんなことになっては、せっかく四方に注意を配って慎重に築き上げてきた今日という時間が台無しになってしまう。

 それはきっと陽平や沙織も同じ気持ちだろう。


「いいじゃん、一時間ぐらい」


 軽い調子で計画続行を訴えたのはまたもや意外にも佐伯だった。

 一人涼しい顔で、遠いところから眺めるように僕たち三人の顔を見渡す。


「そうだよな。ここまで来たら乗らずに帰る方が後悔する。よし、絶対に乗るぞ!」


 陽平は簡単に佐伯に靡いた。


 それを見た沙織も作ったような笑顔を浮かべて頷き、日差しを遮るように額に手をかざした。


 佐伯は歩道わきに設置してある自動販売機でペットボトルのウーロン茶を購入し飲みながら戻ってきた。

 彼女もこの暑さがつらくないはずがない。

 彼女の首筋にも汗が浮かんでいたが、列の前方を見据えるその目には暑さなんかに負けず絶対に観覧車に乗るんだ、という意気込みが感じられるようだ。


 こいつ実は内心ものすごく観覧車を楽しみにしているな。

 平静を装っている心の奥を見つめるように僕は佐伯の横顔に注視した。


 しかし、僕の視線に気づいた佐伯にギロッと見つめ返され、僕は慌てて目を陽光が照り返す歩道に落とす。


 黙って一点を見つめていると先ほどの映像が僕の頭の中でフラッシュバックする。


 先ほど通り過ぎた車は紛れもなく我が家のもので、当然ながら父さんが運転していた。

 そして助手席には運転席に向かって熱心に話しかける坂本先生。


 それだけのことと言えば、それだけのことだ。


 父さんが勤務する博物館はこの駅のそばにある。


 坂本先生の専攻は日本史で、以前から父さんの博物館での仕事や発掘の進捗状況に興味があるようだった。


 土曜日の今日、父さんは久しぶりの休日出勤ということで平日と同じ時間に起きて出掛けて行った。

 前もって予定していたのか偶然なのか、博物館を訪れた坂本先生と父さんがこの暑さに耐えかね喫茶店で喉を潤すために車で向かって僕らとすれ違っただけ。

 大方そんなところなのだろう。

 何もおかしなところはない。


 それなのに僕の心はささくれだっている。

 それは何故か。


「仁科君。大丈夫?少し顔色悪いよ」


 沙織は周囲に気を配れる素晴らしい女性だ。

 摘み取ったはずなのに根が残っていたのか彼女に対する恋情の芽が僕の心の表面から顔を出すのを抑えられない。


「ありがとう。大丈夫だよ」

「軽い脱水症状かもよ」


 そう言って佐伯は手にしていたペットボトルを僕に向かって差し出した。「ほれ。水分摂った方がいい」


 こいつ意外に良い奴なのかもしれない。


 僕は喉と心に渇きを感じて反射的に佐伯の優しさに手を伸ばそうとした。

 しかし、すぐ脇から殺気のような気配を感じて、瞬時に僕の体は石化した。


 折角の申し出なのだが陽平の目の前で佐伯が口づけたペットボトルを受け取り、潤いを得ることは大いにはばかられる。

 もしそんなことをしたら冗談ではなく観覧車の上から陽平に叩き落とされかねない。


「ありがとう。でも僕も買ってくるからいいよ」


 そう言うと漸く陽平の目から人を縛りつけるような力強さが失せた。

 僕は急に金縛りから解き放たれたように四肢に動きを取り戻して喘ぎながら自動販売機に向かった。


 硬貨を入れ迷うことなくコーラのボタンを押す。


 ゴトン。


 商品が取り出し口に落ちてきた音と同時に、僕の頭にも先ほどの自分への問いかけに対する答えが降りてきた。


 生臭かったのだ。

 父さんの横顔を見つめて話しかける坂本先生と、その言葉にゆったりと笑う父さん。

 車の中で談笑する二人の様子が僕の目には保護者と担任教師という関係以上に親密に見えたのだ。


 ペットボトルを手にして振り返るとそこには陽平を眩しそうに見上げる沙織がいて、何やら熱心に佐伯に話しかける陽平がいて、面倒臭そうに口を開く佐伯がいる。

 複雑な三角関係に嵌りこんでいる三人の男女だ。


 しかし、彼らよりも父さんと坂本先生の間から漂う空気ははるかに濃密でねっとりしていた。

 それを思いがけず吸い込んだ僕は毒気にあたり呼吸困難に陥ってしまったのだ。


 胸が痞える。

 肺が上手に酸素を取り込めない。

 苦しくて立っていられない。


 やはりこれ以上とてもみんなの前で笑っていられない。

 そして僕のせいでこれからの雰囲気を壊すのは避けたかった。


「ごめん。悪いんだけど先に帰るわ。僕のことは気にしないで、みんなで遊んでて」

「え?急にどうしたの?やっぱり体調悪いの?」


 沙織が不安げに訊ねてくる。

 その表情は僕の調子を心配するのと同時に、この場から味方を失うことを危惧しているようだった。


 僕は力なく首を横に振って否定する。


「ちょっと用事があるんだ。本当にごめん」


 協力すると言ったのにこんなことになって沙織には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 僕は買ったまま蓋も開けていないコーラを強く握りしめた。


「用事があるんじゃ仕方ないな」


 陽平がスパイクの入った買い物袋を肩に担ぎながら訳知り顔で僕に視線を絡ませてくる。

 ここは任せておけ、とその目が言っている。


 僕は彼の視線を避けるように力なく項垂れた。


 陽平は僕が母さんの見舞いに行くと思っているようだ。

 それはあながち間違いではないが、時間はまだ大分早い。

 彼の憐れむような表情に母さんを強く意識させられて、僕の心はさらにずぶずぶと沈み込んだ。


 さっきの父さんと坂本先生を見たら母さんはどう思うだろうか。


 嫌でも浮気の二文字が僕の頭を過ぎる。

 いくら楽天家の母さんでも、自分が不自由な体で入院している間に夫が息子の担任教師と深い仲になっているかもしれないと思ったら、笑い飛ばすことなんてできないだろう。

 母さんが可哀そうだ。

 僕はやり場のない怒りを込めて拳を握り締めた。


「急に用事って何だよ?」


 僕はその一言に背筋を凍らせた。


 せっかく高揚していた気分に水を差されたのが気に入らなかったのか、佐伯が不機嫌そうに眉根を寄せている。


「用事は用事だから仕方ないじゃん。な?観覧車は三人で乗っても楽しいぞ。どういう風に座る?今のうちに決めとこうぜ」


 黙りこくった僕を気遣うように、陽平が場の雰囲気を取り繕おうとする。


「私、高いところ怖いし一人は嫌だな。陽平君の隣がいい」


 おどけた感じで沙織が手を挙げるが、目は笑っていない。

 ここが勝負所と踏んだのだろう。

 いいかな、と陽平にではなく佐伯に問いかけるあたりが策士だ。

 佐伯が沙織と争ってまで陽平の隣に固執するはずがない。

 佐伯が了解してしまえば、陽平に巻き返す場面は回ってこないだろう。


「マツ、光太郎の用事が何か知ってるな」


 佐伯は沙織を無視して強引に話を戻した。

 佐伯の剣幕に陽平がたじろぐ。


「それは、その……」

「病院に行くんだ。母親が入院してるから」


 僕は三人の前に放り投げるようにそう告げると、すぐに踵を返した。


 語尾が震えたことを気付かれただろうか。

 背を向ける前にすでに目が潤んでいたことを悟られただろうか。


 僕は逃げるように早足でその場を離れ、容赦なく降り注ぐ日差しの下を駅に向かって歩いた。


 どうして僕が嘘をつかなくてはいけないのか。

 母さんのことを出してまでして皆をだますなんて……。


 悔しさと腹立たしさが募って叫び声をあげたくなる。

 胸に迫ってくるものをぐっと押し殺していると、高温多湿でふやけた頭がさらにおかしくなりそうだ。

 気がつけば止めどなく涙が溢れ出ていた。

 しかし僕の背中を三人が目で追っていると思うとなかなか手で拭うこともできない。

 涙で頬にできたラインがすぐに乾いてむず痒い。

 僕はこめかみを伝う汗を払う素振りで頬を撫でて涙を拭った。


 僕はペットボトルの蓋を捻り冷たいコーラを無理やり喉に流し込んだ。

 慣れ親しんだ爽やかな喉越しに、今は微かに痛みと苦みが感じられた。


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