第5話

 坂本先生の身長はおそらく百五十センチメートルもないだろう。

 決して背の高い方ではない僕とでも、向かい合うとかなり見上げる格好になる。


「仁科君。来週の実力テストが終わったら父兄の方と進路について面談することになってるんだけど、仁科君の場合、お父さんになるよね」


 坂本先生も当然母さんが入院していることを知っている。


「そうですね」

「仁科君のお父さん時間作れそう?もしお忙しいのならお父さんの都合のいい時間に家庭訪問させてもらってもいいんだけど」


 僕の父さんは県立博物館に勤務している学芸員だ。


 去年のこの時期に県内の広大な工場跡地から古い陶器の欠片が見つかり、それが室町時代のものだということが判明して以来、父さんは急に多忙になった。

 学生時代に大学院まで進学して考古学を専攻していた父さんは当然のように発掘チームに、しかもリーダーとして組み込まれてしまった。

 博物館の仕事はそっちのけで発掘現場に派遣されることになったのだ。


 日本史の教員である坂本先生もそのことを知っている。


「父の予定はちょっと僕にも分からないんです」


 発掘が始まってからは毎日早朝に家を出て夜遅くに帰ってくる父さんとは会話をする機会が少なく、この生活リズムがいつまで続くのか全く読めない。

 発掘のことはよく分からないが、実際携わっている父さんでさえも見通しが立たないような状況なのではないかと想像している。


「そうよね。発掘だもんね」


 坂本先生の声にはどこか羨ましさが滲んでいるように聞こえた。

 日本史を生徒に教えるような人にとって父さんの仕事は興味深く羨望の的なのかもしれない。


「どうするか訊いてみます」

「うん。時間の調整が必要だからお父さんから学校に電話してもらえると助かるな。お願いね」


 坂本先生と別れて下駄箱に向かう。


 これからどうしようか。

 今から病院に向かっても、母さんが目を覚ますまで一時間以上ある。

 でも、学校にいる理由もない。


 下駄箱の向こうから差し込んでいる西日と言うには強すぎる陽光に目が眩む。

 肌を焦がすような暑さがすぐそこにある。

 今、外に出るのは得策ではない気がした。

 図書室で涼みながら勉強でもしようか。


「おーい、光太郎」


 まるでデジャブのようだったが、今、僕を背後から呼んだのは陽平ではない。

 聞き覚えのない女性の声だったからだ。


 女子にこんな風に馴れ馴れしく下の名前で呼ばれたことは、かつて一度もない。

 僕はどぎまぎしながら後ろを振り返った。


 そこにはあの転校生が仁王立ちしていた。

 ホームルームのときと同じ見下ろすような冷やかな視線を長い前髪の向こうから無遠慮に容赦なく僕に浴びせてくる。


 僕は首を竦めるような気持ちでおずおずと佐伯と向かい合った。


「呼んだ?」


 僕の問いに彼女は小さく顎を引いた。


 僕は彼女の意図を探るため前髪の向こうに隠れている瞳に目を凝らした。


「何?」


 少し声が上ずってしまう。


 彼女が僕に何の用だというのだろう。

 彼女とは今日会ったばかりで、もちろん話すのはこれが初めてなのに、どうしてこんなにも気安く呼び捨てにされるのだろう。

 女子と話す緊張よりも、展開が読めない不安が先に立つ。


「光太郎ってさ、美術部でしょ?」

 

 彼女は僕の目の前に立ち長い髪を指先で掬い耳に掛けた。


 黒髪から露わになった耳の少し尖った形と白さが僕の目に焼きついた。

 うなじに浮かんでいる柔らかそうな産毛の存在に、見てはいけないものを盗み見たような後ろめたさを感じてしまう。

 僕は思わず視線を床に落とした。


「そうなんでしょ?」


 確認する彼女の声に軽い苛立ちが漂う。


 叱られたような気持ちでハッと顔を起こすと、僕の目を覗き込むような彼女の力のある眼差しとぶつかった。


「そうだけど……」


 多少否定したい気持ちを抱えながら僕は頷いた。


 確かに僕は美術部に在籍していたが、それは「仕方なく」であり、形だけのものだった。


 この中学校は部活動を重んじていて、生徒は何かしらの部に在籍すべしという校則がある。

 それで「仕方なく」美術部に入部したのだが、その選択に当たっては母さんの見舞いのための時間の確保という条件を考慮したわけではない。


 運動が苦手。

 ブラスバンドのように華やかなイメージがつきまとうのも苦手。

 囲碁将棋はルールが分からない。

 結果、消去法の末に残ったのが、一人で黙々と作業ができる美術部だったというだけだ。

 しかも美術に特筆すべき思い入れがあるわけでもない僕にとって、美術部はつまり帰宅部だった。

 最低限の活動には参加したが、本気モードの部員からしてみれば爪弾きにしたい存在の幽霊部員だっただろう。

 「だった」と過去形なのは一学期の終わりに引退作品を完成させて、三年生は全員引退したからだ。

 そういう意味でも僕は佐伯の問いに首を横に振りたかったのだが、それを口にしたら、つまらない屁理屈をこねるな、と叱られそうなのでやめておいた。


「よかった」


 佐伯が小さく笑ったのを見て、僕は少なからず驚いた。

 彼女の顔は眉一本動かない鉄仮面ではなかった。

 彼女がこうも簡単に笑顔を見せるとは。

 僕はこの掴みどころのない転校生が急に近い存在になったように思えた。


「どうして僕が美術部って」

「さっき、さかもっちゃんに聞いたのよ。この学年に美術部員いませんかって。そしたら確か仁科君がそうよって」

「そ、そうなんだ」


 転入初日からいきなり担任教師を「さかもっちゃん」呼ばわりとは。やはりこの御仁は何を考えているのか分からない。


「ねぇ。あたし、美術部に入りたいの。どうしたらいい?」

「え?今から入りたいの?」

「入れないの?美術部は転校生入部お断り?」

「そういうことはないけど。三年生はもう引退したんだよ」

「絵を描くのに引退なんかない」


 そういう問題ではないのだけれけど。

 しかし、胸を張って堂々と言われると、僕は反論できなかった。


「梶田先生に相談すればいいんじゃないかな」


 僕は逃げるように美術の教師で部の顧問の名前を挙げた。


 ただ、この顧問は僕に輪を掛けて幽霊的存在で、僕が在籍している間に部員の指導に現れたことは一度もなく、絵筆を持った姿すら見たことがない。

 自分が美術部顧問であるということを認識しているかどうかさえ甚だ疑わしいような教師だ。

 だからこそ三年生の佐伯がこの時期に入部したいと言い出しても、軽く「ご自由に」と言いそうな気はするが。


「カジカジはどこにいるの?」

「えっと」


 僕はカジカジが梶田先生を指しているのだと思い至るまでに少し時間がかかった。

 彼女は誰にでもあだ名をつけないと気が済まないのだろうか。「職員室かな。でなかったら美術室の準備室か。目がチカチカするようなワイシャツ着てるから、すぐに分かるよ」


 梶田先生の色づかいのセンスは、さすが美術教師、凡人には理解できない、と校内で評判だ。

 どこで売っているのか見当もつかない光沢のあるテロテロの生地に原色をちりばめた柄は、遠目で見ても梶田先生だとすぐに分かる。


「連れてって」

「え?」

「職員室も美術室も場所分からない」


 僕は気がひけた。


 職員室は生徒なら誰しも足を踏み入れたくないところだし、美術室に行って後輩の邪魔をするのも嫌だった。

 引退した先輩幽霊部員の顔など誰も覚えていないだろうが、こちらとしてもどんな顔をして入って行けば良いのか分からない。

 何とか彼女から逃れる術はないだろうか。

 僕の心はすでに後ずさりしている。

 隙あらば駆け出す算段だ。


「職員室はすぐそこだし、美術室はこの校舎の三階……」

「カジカジの顔も分からないから」


 眉間を曇らせて目を細めた彼女の不機嫌そうな言葉に囚われて、僕は鬼軍曹に命令された一兵卒として背筋をピシッと伸ばし先に立って歩き出した。

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