第4話

「おーい、光太郎」


 下駄箱に向かって廊下を歩く僕の背中を、クラスメイトの松波陽平の声が追いかけてくる。


 彼はサッカー部のキャプテンを務めていた。

 この夏で部活動は引退した格好だが、県選抜の実力を持つ彼は高校へはスポーツ推薦での進学が決まっていて、夏休み中も後輩たちに混じって練習を続けていたようだ。

 おかげで陽平は三年生の中では誰よりもこんがりと日焼けしていた。


 そう言えば陽平が進学するのは母さんが口にしたあのT学園だ。


 T学園はそのブランド化されたと言っても良い知名度を維持するため、これまでの学力重視の方針を転換し、近年はスポーツの面にも力を注ぎ少子化の現代でも生徒集めに不安はないと評判だ。

 僕もT学園を受験し合格すれば校内に陽平という知り合いは確保することができる。

 しかし、スポーツ推薦の生徒と一般試験での合格者は同じクラスにはならないようだから、孤立感を拭うことには全然つながらない。


「何?」

「今から、沙織たちとカラオケ行くけど、来ないか?」


 隣のクラスの沙織は清純や可憐という言葉がぴったりの学年で、いや、校内で一番の美少女だ。

 そんな沙織とお近づきになれるシチュエーションが僕の胸にもたらした波動は決して小さくはない。

 だが、僕は表面上はそれを平然と押し殺した。


 運動神経抜群でしかも聡明な顔立ちの陽平は女子からもてる。

 毎年バレンタインデーにはアイドル顔負けの、到底一人では食べきれない量のチョコレートをもらっている。

 来年三月の卒業式には陽平の周囲でいったいどんな騒ぎが起きるのだろう、と羨ましいような怖いような気分で想像するのは僕だけではないはずだ。

 その陽平の口から沙織の名前を聞いて、僕は負け惜しみではなく素直に二人はお似合いだと思った。

 そんなところにお邪魔しても、いたたまれないだけのような気がする。


「サッカーは?」

「たまにはサッカーから離れて気晴らしするのも重要なんだよ」

「陽平の人生において?」


 僕は意地悪そうに笑う。


 しかし、陽平はいたって真面目な顔つきで頷いた。


「そう。俺の人生において」


 陽平とは二年生のとき初めて同じクラスになって話すようになった。

 四月のクラス替えで隣の席になり、五月、六月とくじ引きで席替えをしたのに三ヶ月連続で左右隣同士になって、陽平が声を掛けてきたのだ。


「この三ヶ月隣同士になったけど、これってお互いの人生においてどういう意味を持つことになるんだろうな?」


 比較対象にするのもおこがましい程のイケメンからいきなり席順の人生における意味を問われて、僕はただただ困惑した。

 しかし、どれだけ考えても僕の頭の中には一つの熟語しか浮かんでこなかった。


「偶然じゃない?」


 口に出してから後悔した。


 偶然。

 なんと空虚な響き。

 折角我が校のアイドルと仲良くなれるチャンスだったのに、面白みに欠ける奴だと思われたのではないだろうか。


 僕は陽平の次の言葉を固唾を飲んで待った。彼は黒板を睨みながら腕組みをして押し黙ってしまった。


「じゃあさ、来月も隣同士になったとしたらどう思う?」


 漸く口を開いた陽平はさらに僕を試してきた。


 僕は陽平の真意を測りかねていた。

 彼はこの自分でも嫌になるぐらい平凡な容姿で、引っ込み思案な性格の僕をからかっているのだろうか。

 いや、何故かは分からないが僕は今彼に試されているのだ。

 誰かこの質問の本当の意味を教えてくれ。

 いったい正解は何なのか。

 僕は自棄気味に口を開いた。


「奇跡じゃないかな」


 一瞬「だよねー」と陽平が僕の手を取って騒ぎ立てるかと期待した。

 しかし、陽平は僕の答えに何の感慨も示さず低い声で「そこまでは言えないな」と呟いただけだった。


 ドキドキしながら待った七月の席替えで僕の席はとうとう陽平の横から外れた。

 前後になってしまったのだ。


 僕の前の席に座った陽平は難しい方程式を前にしたような渋面で振り返り、やっぱり問いかけてきた。


「これはどういう意味なんだ?」

「縁、だと思う」


 縁か。

 縁ね。


 陽平は今回は満足そうに頷いて正面に向き直った。


 それから陽平は身の周りの物事について意味を僕に問いかけてくるようになった。


 晴天が十日続いた意味。

 新しく使い始めたばかりの消しゴムを失くしてしまった意味。

 オリンピックが四年に一回である意味。


 それを僕は真面目に考える振りをしながら思いつきで適当に答える。

 その返答に彼は大抵はどこかつまらなさそうに頷くだけなのだが、ときおり琴線に触れるのか、男の僕でさえ蕩けてしまいそうな甘い笑顔を見せてくれることがある。

 僕の答えのどこがどんな風に良かったのかは全くこちらに伝わっては来ないのだが、その笑顔の瞬間には心の中でガッツポーズしてしまう。


 将来はプロのサッカー選手になると公言し、そのための毎日の努力を惜しまない陽平を僕は心から尊敬しているが、そんなやり取りを通して僕は単なる運動馬鹿ではない哲学者的な面を見せる彼を愛していた。


 そう言えば今の席は僕が窓際で彼が廊下側と目も合わせられないような距離になっている。


「陽平はいいとしても、みんな受験勉強は?」


 沙織はどこの高校を受験するのだろうか。

 K高校ならこの先三年間毎日彼女の顔を見ることができるのだが。


「さあな。遊びに来れるぐらいなんだから、大丈夫なんだろ」


 少し自分本位で他人のことに気が回らないところがある陽平らしい物言いだった。

 しかし、そんな言い草も妙に納得してしまう。


 陽平は常に自信に満ち溢れていて、しかもそれが嫌みではない。

 彼の周りにはいつも人がいる。

 彼の魅力は光り輝き、太陽のように人を照らしている。

 人は太陽がなければ生きていけない。


「どうだ?光太郎もたまには息抜きした方がいいぞ。お前ならK高校だって楽勝だろ」


 僕が周りにひけをとらないことと言えば勉強だけだ。

 中学に入ってからテストで学年のトップテンを逃したことはない。

 K高校は公立では一番の進学校だが、校内三十位程度に入っていればまず大丈夫と言われている。


「カラオケかぁ」


 母さんが目を覚ますまでにはまだ時間はある。

 しかし、僕はカラオケが得意ではない。

 自分の声がマイクを通して部屋中に響き渡っている状況にどうにもなじめないし、誰かが歌う曲にあわせて身体を揺らしてリズムを取るのも苦手だった。

 女子がいるならなおさら緊張して上手にできないだろう。「僕は、やめとくわ」


「今日も、病院か?」

「まあ、そんなとこ」


 僕は軽く眉を顰めて見せた。

 気が乗らないときは、いつもこの手で逃げている。

 嘘ではないが、百パーセント頷くこともできない。


「あ、いたいた。仁科君」


 僕の顔を見つけて小走りに寄ってくる坂本先生が陽平の肩越しに見える。

 僕に何の用だろうか。


「じゃあ、また今度な」


 陽平はあっさり引き下がった。


 僕みたいなパッとしない人間にも声を掛ける優しさや、誘いを断られても軽く受け入れてくれる淡白さも彼の魅力の一つだと言えるだろう。


「うん。またね」


 坂本先生と正反対に走り去っていく陽平に手を挙げて、僕は坂本先生を待った。

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