第3話

 窓の外はまだまだ夏真っ盛りだ。

 朝っぱらから辟易するほどの暴力的な強い日差しには、教室の安っぽいカーテンではとても歯が立たない。

 窓際に座る僕の特に左半身はカリカリと焼けて、今にも身体の中の何かが融け出しそうだ。


「おはようございます。みんな、元気そうね。安心したわ。夏休みの間、怪我とか病気とかした人はいないみたいね」


 担任の坂本先生はこの暑いのにブラウスの上にカーディガンを羽織っている。

 冬になると、モコモコとこれでもかと言うほど重ね着をして、しきりに両手をこすり合わせたり足踏みをしたりする極度の冷え症だ。

 まだぎりぎり二十代だったと思うが、中学生の僕から見ても色気がない。


「俺は心に傷を負ったよ」


 教室の一番後ろの席からクラス一の調子者の遠藤が茶々を入れる。


「遠藤君、どういうこと?」

「彼女に振られたってことさ」


 教室内が一気に沸く。

 かわいそう。

 良い気味だ。

 原因は何?

 彼女って誰だったの?

 そもそもお前、彼女いたんだっけ。


 色々な声が錯綜する。


「それはそれは。中学最後の夏休みの思い出としては少しセンチメンタルね」

「俺の夏は早々と終わったわけさ。先生はどうだった?」

「何が?」

「今年の夏は彼氏できた?」


 再びどっと歓声が上がる。クラス全員が目を爛々と輝かせて教壇に顔を向ける。


「先生のことはいいのよ。先生のことは……」


 まさかの展開という感じで坂本先生は教卓に目を落とし、チョーク箱や出席簿に意味もなく手を伸ばしたり髪を掻きあげたりとしどろもどろになっている。


 彼氏できたの?

 彼氏と海に行った?

 何やってる人?

 芸能人で言えば誰に似てるの?


 四方八方から火の手が上がり、四面楚歌という感じの教室に坂本先生の顔が引きつる。


「彼氏なんかそう簡単にできないわよ」


 芝居っぽくがっくりと教卓に手をついて見せた担任教師に生徒たちは追い打ちをかける。


「今年の夏も一人だったんだ。かわいそ」

「山田、お前付き合ってやれよ」

「坂本先生なら俺は構わないけど」


 教室内が笑いの渦となる。

 ホームルームからこんなに盛り上がっているのはうちのクラスだけだろう。

 そろそろ隣のクラスの担任からクレームが飛んできそうだ。


「もう、私のことはいいから静かにして。今日は皆さんに特別に報告しないといけないことがあるのよ」


 さすがに坂本先生の声にも怒りの色がこもってきて、敏感な生徒たちはぴたっと口を噤む。


 普段は柔和な彼女も数年前に一度キレたことがあったようだ。

 言うことを全く聞かない男子生徒を思い切り平手打ちにし、その生徒が口の中を出血してカッターシャツがどんどん赤く染まっていくのに保健室に行くことも許さず、平然と最後まで授業を進めたという伝説を誰もが知っている。

 その男子生徒はいわゆる不良だったが、教師とは言え女性の平手をまともに食って血だらけになったという事実は彼にとって汚点以外の何物でもなかったらしく、公に体罰を訴える気にはならなかったようだ。

 そして彼女は空手の有段者だという噂が今ではまことしやかに流れている。


「今日からこのクラスに新しいメンバーが加わるの。佐伯さん、入って」


 名前を呼ばれてゆっくりとドアから現れたのは、ハッとするほど肌の白い少女だった。

 彼女は緊張している様子もなく、堂々と胸を反らせて手招きする教師に近づいた。

 教卓と黒板の間に立つ。サッと正面を向く。

 瞳を隠す長い前髪。

 表情を殺した緩まない頬。

 彼女は唇だけを動かしてハキハキと挨拶をした。


「佐伯杏奈です。よろしくお願いします」


 軽くお辞儀をするとすぐに顔を上げ、睥睨するように右から左へと視線を飛ばす彼女。


 クラス全体がビクッと固まる。

 少なくとも僕は彼女の顔がこちらを向いたときに慄然としてその瞬間は暑さを忘れ、思わず背筋を伸ばしていた。


 すらりとしたスタイルの良さと、中学生とは思えない大人びた顔つき。

 彼女は隣にいる坂本先生がかわいそうに思えるぐらい色っぽいが、そのひんやりとした美しさのためか、容易には近づきがたい雰囲気がある。


「ということで、今日から同じクラスメイトとして皆さん仲良くね。じゃあ、佐伯さんはあそこに座って」


 坂本先生が指したのは窓際の最後尾、僕の後ろの席だった。

 そう言えば朝教室に入ってきたときに、こんなところに机あったっけ、と訝しんだ覚えがある。

 しかし、まさか中学三年の二学期に転入生が現れるとは思いもよらなかった。


 転入生には何かしらの事情がつきものだが、卒業まで半年ほどのこの時期にとは、佐伯家には余程の事情があったのだろう。

 しかし、そんなことを訊こうものならどういう仕打ちが返ってくるか分からないという不気味さを彼女はオーラとして纏っている。


 顎を引き涼しい顔つきできびきびと彼女が僕の方に向かって歩いてくる。


 僕は何となく視線を合わせてはいけないような気がして机に目を落とした。

 横を通り過ぎた彼女が作る空気の流れが妙に冷たくて、この暑いなか僕の腕に鳥肌が立った。

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