第2話
すっかり俯いてしまっているひまわりを水に差し部屋に戻ると、白衣を着た医師がベッドの脇に立っていた。
ベッドの上に座り血圧を測られている母さんが医師の向こうから小さく手を振る。
僕は、「こんちは」と医師に軽く挨拶をして、花瓶を窓際に置き処置が終わるのを待つ。
ピピピと電子音が鳴る。
母さんが脇から体温計を取り出すと、医師は無言で受け取り病室から出て行った。
入れ替わりに僕が母さんの横に移動して、パイプ椅子に腰を下ろす。
「あの先生、独身かしら?」
母さんはパジャマのボタンをとめながら、医師が出て行ったドアに目をやる。
「さあ」
「あんなに無口で陰気な感じだと、一緒にいても面白みがないわ」
「でもお医者さんって儲かるんでしょ。だったら結婚したい人もいるんじゃない?」
何の気もなしにそう言うと、母さんはじっと僕の眼を覗き込んできた。
「中学生の光太郎には分からないかもしれないけど、お金じゃないのよ、夫婦って」
将来を憂うような重い口調で言われても困るって。
一般論として思いつきで言っただけなんだから。
僕は話を変えるためにスポーツバッグの中を漁った。
本屋の袋を取り出し母さんの膝の上に置く。
「はい、これ」
「ありがとう。いつも悪いわねぇ」
全然悪いとは思っていない調子で母さんはにんまり笑い、さらりと受け取る。
中身は三十代の主婦層をターゲットにしたファッション雑誌だ。
毎月これを買うのが僕の一番手を焼く任務と言える。
買い始めて二年近くになるが、未だにコンビニエンスストアのレジでは赤面してしまって店員さんの顔をまともに見ることができない。
しかしそんなことはあっけらかんとした性格の母さんはきっと思いもよらないだろう。
エロ本を買うのとどっちが恥かしいかな。
友達から借りることはあっても自分で買ったことはないから分からないけど。
「あら、こういうのってかわいいわね。ね?ね?」
母さんは早速雑誌をペラペラめくり出し、気に入ったものを見せてくる。
しかし中学三年生の僕は同世代の女子がどんな流行を追っているのかも理解の外。
もちろん三十代の主婦の恰好に良し悪しを言えるほどのファッションセンスを持ち合わせているわけがない。
決まって上辺だけの「そうだね」を使うのだが、母さんは僕がどうこう言うのを期待しているわけではないようだ。
鼻歌交じりに次々とページを繰っていく。
母親の若作り。
見ているこっちが落ち着かない気分になるから、「母さんはもう四十過ぎてるじゃん」って毒を吐きたくなるけど、やめておく。
ずっと病室でパジャマ生活の母さんにとって、この雑誌の中の世界ってどんな風に見えるのかな。 そう考えるとじりじりと胸が痛い。
「そう言えば明日から二学期ね」
一通り目を通して気が済んだのか、雑誌を閉じた母さんが少し遠い目をして微笑む。
毎日院内だけの生活の母さんが今日で夏休みが最後だということに気づいていたことに僕は少し驚いた。
「そうだよ。って言ってもこの一週間毎日補習授業で学校通ってたから、あんまり新しい学期が始まるって感じはしないけど」
「どこ受けるか決めたの?」
「どこって?」
「高校よ。他に何か受けるものある?」
「そりゃそうだけど……」
僕は少し間をとって口を開いた。「K高かな」
僕は近くの県立の高校の名前を挙げた。
この辺りの公立の中では一番レベルが高いと言われているが、僕の成績なら落ちることはないという自信はある。
「どうして?」
意外にも母さんは、まるで嫌いなピーマンを病院食の中から見つけたときのような苦い顔をした。
僕の答えに納得していないようだった。
何故だろう。
僕の学力を心配しているのだろうか。
「どうしてって、レベル的に大丈夫だと思うから」
「T学園じゃなくていいの?」
母の言葉に僕は不意を突かれたような気持ちになった。
T学園は県内屈指の全国的にも名の知れた私立の進学校だ。
僕が通っている中学校からも毎年二、三人は進学しているようだが、僕の今の成績では客観的に見て合格できるかどうか怪しい。
「ちょっと厳しいかな」
「何が?」
「俺の頭では」
「そうなの?」
「そうだよ」
「光太郎って頭いいんでしょ?」
「そんなことないよ」
直球でそんな風に訊かれると、いくら親が相手でも否定するしかないじゃないか。「とにかくT学園は俺にはレベルが高いの」
母さんはまだどこか不満そうだった。
一人息子をT学園に、と期待していたのだろうか。
そんな教育ママだったっけ、この人。
正直、今、母さんにT学園って言われるまで、僕はあまりその学校を意識していなかった。
受験まであと半年しかない。
それなのに来年どこの高校に通うか僕はまだ真剣に考えたことがなくて、漠然とだけどK高に行くんだろうなって思いこんでいた。
「本当は、お金のことなんじゃないの?」
そういうことか。
母さんが気にしているのは、うちは余裕がないからっていう理由で僕が私立のT学園を諦めたんじゃないかってことみたいだ。
「もう少し頭の出来が良かったら、頼み込んででも行かせてもらうんだけどね」
僕は今、親に二つ嘘をついた。
一つは頭のこと。
今の僕の学力から判断してT学園は、全然歯が立たないってわけではない。
残り半年、死に物狂いで勉強すれば何とかなるかもしれない。
今の時点で厳しいからと見切りをつけるのは時期尚早だ。
もう一つは意気込み。
他の同級生も同じだと思うけど、僕は高校に対してあまり興味を持っていない。
K高に行ったって、T学園に通ったって人生そんなに変わらないだろうって思っている。
中学三年生の僕にはまだ人生の目標なんて全然見据えられていないし、こんなことをやりたいからっていう明確な志望動機を高校に対して持っていない。
自分の学力レベルにあった分相応の高校。
そういう物差しでしか高校選びなんてできない。
だから、たとえもう少し頭の出来が良くても、頼み込んでまでしてT学園に行きたいかどうかは分からない。
母さんにT学園の名前をあげられたとき、僕の体は軽い拒否反応を示して、反射的に否定的な言葉を発していた。
きっと頭の中で、T学園に行くにはこれから毎日毎日しんどい思いをして机に齧りつかなくてはいけないことだとか、K高ならうちの中学校から二、三十人は行くけどT学園に入ったら知らない人ばっかりで寂しそうだとかいうつまらないマイナスのイメージを作り上げてしまったのだろう。
まあ僕の高校進学への想いというのはこの程度のものだということだ。
でも母さんはとりあえず納得したようだった。
「くれぐれもお金のことは心配しないでね。そういうのは何とでもなるんだから。……じゃあ、少し横になるね」
母さんは瞼の重さに耐えきれない様子でベッドの中に横たわった。
時計を見ると六時半を過ぎたところだった。
顔を戻すと、もうすでに母さんは静かに寝息を立て始めていた。
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