その意味を答えよ

安東 亮

第1話

 自転車が揺れるたびに、カゴに入れた一輪の小ぶりなひまわりがイヤイヤをするように左右に顔を振る。


 もっと優しく扱ってよ、ただでさえ暑いんだから。


 そんな声が聞こえてくるようで、僕はハンドルを握る両手にさらに力を込めた。

 ひまわりには申し訳ないがスピードを緩めるわけにはいかない。

 僕にできることは、汗で滑りそうになるハンドルをしっかり握り、少しでも自転車の揺れを少なくすることだけだ。


 巨大に膨れ上がった夏の太陽が轟々と音を立てて熱波を送ってくる。


 その太陽を正面に見据えて突き進む自分の姿に、僕はイカロスを思い浮かべる。

 警告を無視して太陽に近づきすぎ、羽を失って墜落したギリシャ神話の孝行息子。

 スチール製の自転車も、この暑さの前では蝋のように溶けてしまいそうだった。


 そう言えば昨日父さんが「明日からまた暑くなるらしいから熱中症に気をつけろよ」って言ってたっけ。


 確かにまとわりついてくる空気の熱さは尋常ではない。

 自転車を漕げば漕ぐほど体温は上昇し、顔は火照って頭の奥がぼーっとしてくる。


 僕は一旦自転車を止め、肩から襷に掛けたスポーツバッグに手を突っ込み、ペットボトルのコーラを取り出した。

 半分ほど残っていた黒い液体を喉に流し込む。

 さっき買ったばかりなのにすでに湯気が出そうなほど熱くなっていて、甘ったるいだけで清涼感は全くない。

 病室備え付けの冷蔵庫で冷やしなおそうかとも考えたが、僕はそのままペットボトルの底を空に向けて飲みほした。

 身体に悪いから、と炭酸ジュース嫌いの母さんの目にとまれば、また小言を言われるに違いない。

 水分補給を完了し、僕はペダルを強く踏み込んだ。


 間もなく五時だ。

 母さんはもう目覚めているかもしれない。


 僕はどんどん加速した。

 両手を広げればそのまま空へ浮き上がりそうなぐらいにスピードを上げた。

 勢いそのままに病院内の駐輪場に突進する。


 病棟に駆け込み仁科葵とネームプレートの掛かった母の病室の前に立つと、もう一つ奥の病室のドアが開き、若い看護婦が大きな花束と空の花瓶を抱えて出てきた。


 反射的に僕は手にしたひまわりを後ろ手に回してその女性とすれ違う。

 彼女が手にしている絢爛たる花々と比べると、僕の萎れ気味のひまわりはやけにみすぼらしく見えた。


 ひまわりの一輪挿しなど病室を余計に寂しくさせるだろうか。

 しかも大分くたびれてきているし。

 僕は頼りなさげに見える細い茎を弄んでひまわりをくるくると回してみる。


「可愛らしいひまわりね」


 声の方を振り返ると、花束と花瓶を抱えた先ほどの看護婦がにっこりと笑いかけてくれていた。

 僕はその笑顔に少し勇気をもらって小さく頷くと、母さんの待つ病室のドアに手を掛けた。


「光太郎っ!」


 僕が顔をのぞかせると、窓際に立っていた母さんが待っていたとばかりに声を掛けてくる。「早く、こっちこっち」


「起きてたんだ。ごめん、遅くなって」

「そんなこといいから、早く早く」


 母さんは無邪気な声で僕を呼ぶ。それはまるで新しい洋服をデパートに買いに来た少女のようだった。

 窓から入り込む西日に頬を輝かせた母さん。

 そのコロコロと響く声は入院患者とは思えない陽気さだ。

 ここが病室でなく、母さんがパジャマを着ていなければ、誰も母さんのことを病人だとは思わないだろう。

「ほら、あそこ」


 母さんが指さした窓外の病院の壁に、何やら茶色い小さなものが見える。あの形は昆虫のようだ。


「蝉の抜け殻?」

「そうよ。きっと昨夜のうちに幼虫がこんなところまでえっちらおっちら上がってきて、ここで羽化したのよ。見たかったわね、蝉が殻を破って飛び立っていくとこ」

「そんなの」


 見たくないよ、と言いかけて僕は口を噤んだ。


 どちらかと言うと母さんは虫が苦手だったはずだ。

 僕がつかまえてきた小さなてんとう虫が家の中を飛び回っただけでパニックになったし、ゴキブリなんか見るのも嫌で絶対に新聞紙で叩けない。

 カブトムシやクワガタはそのゴキブリの親戚だと言ってきかない。

 そんな母さんが昆虫の羽化の瞬間を見たいと言っていることに切ない気持ちになる。

 きっと母さんにとってこの病室での生活がそれほどに味気なく張り合いに欠けるものなのだ。


「あら、ひまわり!小ぶりでかわいい」


 母さんの笑顔が一層明るくなる。


 その表情に僕は心の中で快哉を叫ぶ。


 母親を見上げる無邪気な幼児のように健気に太陽に顔を向け続けるひまわり。

 それは母さんの大好きな花だ。

 だから僕はこの季節には通学路や校庭でひまわりが咲いているのを見つけると、罪悪感に苛まれながらも必ず失敬してくる。


「あ、早く活けなきゃ」


 僕はベッド脇の四角くて細長いガラスの花瓶を掴んで洗面所に向かう。

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