暁桜編〈フェードアウト・後編〉



(はあっ、はあっ、はあっ……)


 さくらは逃げていた。

 最初は護から。だが今はいつの間にか得体のしれない恐怖に切り替わっていた。




(ああイヤよ……“またあの場面”……)

 繰り返される無限の時間の中、漂う意識が灰色に揺らめく。




「――すまない。俺はさくらの気持ちには応えられない」


 デビューして3年。初の全国縦断コンサートを昨日東京で終え、16歳の誕生日を迎えた今日、護に会う為にマンションを訪れた。

  今日はコンサート直後のオフと言う事もあり、芸能人として目立たぬよう、ふっくらしたつば付きの帽子にロングヘアーを隠して伊達眼鏡、紺のパーカーにジーンズにブルーのスニーカーと言うスタイルだった。

 ついに結婚できる年齢になり、憎からず思われている事を自覚した上で護に告白に来た。

 だが、そこで目にしたのは、見知らぬ異性と裸で室内にいた護の姿だった。

「……どうして?」

 玄関でガウンを羽織っただけで、平然と出迎えた護に詰問する。


 3年前、大学進学を蹴って自分と同じプロダクションに就職し、そのまま付き人になり、成人の後はマネージャー兼保護者として、陰に日向に自分に尽くし、今はこのプロダクションを紹介してくれた恩人の養子になり、昇進の話も持ち上がっていた。

「見ての通り、俺には好きな女性がいる」

「ウソ……じゃあどうして今までそばに居てくれたの? さくらが嫌いになったの?」

「いいや、違う」

「じゃあなぜ?」

「さくらは俺にとってまさしく救いの天使だった。――あの日、さくらの母親に恋をし、託された赤ん坊。そのさくらが成長していつの間にか俺を好きになっていてくれた事も知っていた」

「それならなぜ、さくらを拒むの?」

「俺は汚れている」

「そんな事ないわ!!」

 さくらは髪を振り乱さんばかりに声を上げるが、護はただ寂しそうに淡々と答えた。

「さくらには見せないようにしていただけだ。俺はさくらにふさわしい男じゃない」

「そんなの関係ないわ!! さくらが好きになったのは後にも先にも護ちゃんだけよ!」

「……さくらは本当に綺麗になった。虐待を受けて心も体も見にくくねじ曲がり、人をだます事を覚え、狡猾に立ち回るのが今の俺だ。そんな男にさくらは似合わない。」

 護はいつものように手を出して撫でるような仕草を、今は何かガラス越しにでも見るように手を止めてしまう。

「小さい頃から護ちゃんだけを見続けていたのよ?」

 さくらはそれを見て、その線を護に越えて欲しくて、すがる様に問いかける。

「ああ、知った上でこうして答えてる。俺はそう言う男なんだ」

「ひどい……」

 だが、淡いその期待はあっさりと裏切られてしまう。

「その通りだ。そしてそれがさくらの為でもある」

「違うわ」

「何が違う?」

 話しの流れが読めずに護が聞き返す。

「ひどいのはさくらの告白を断った事じゃなくて、護ちゃんがさくらの気持ちに向き合わないまま逃げようとしている事よ!!」

 ついに耐え切れなくなり、さくらのその琥珀色の瞳から涙があふれさせた。

「!!。……だが、それでも俺はさくらの気持ちには応えられない」

 護はさくらの涙に心が揺さぶられるが、親の虐待にすら耐え抜いた精神力が、その揺らいだ気持ちを立て直させた。

「どうしてよう……」

 さくらが再び問うが、護は決定的な拒絶を口にする。

「彼女とはもう婚約している」


「――!!」


 その言葉に、ついにさくらの膝が折れ、その場にへたり込む。


「……タクシーを呼ぶ。今日はもう部屋に帰りなさい」

 そうして護が携帯を取ろうとした瞬間、さくらの携帯に着信が入った。

 オルゴールバージョンの“over the rainbow”が、まだ肌寒いこの高層マンションの玄関にこだまする。

 着信に微動だにしないさくらを見て、護は尋常でない雰囲気を感じ、さくらの肩に手を触れた瞬間、さくらがビクンと跳ねる。

 そしてさくらがおもむろに立ち上がると、護を見ずにきびすを返して玄関を飛び出した。

「おい! さくら!」

 さくらは背中に護の叫びすら感じないまま、その場から逃げ出した。


 どこをどう走ったか、さくらはいつの間にか夕闇迫る跨線橋の上にへたり込んでいた。

 そしてようやく定期的に着信を知らせるポケットの携帯に気付き、それを開く。


From:会員№10396

To:さくらちゃんへHappy Birthday!!

昨日は縦断コンサート最終日お疲れさまでした。自分はさすがに全国はついて回れなかったけど、昨日の公演は見に行きました。やっとこっちの大学に受かってから初のコンサートでとても感動しました。これからはもっと頻繁に行けるのですごく楽しみにしてます。昨日はいつもよりハイテンションでいたように見えましたが、リバウンドから今日は余計に疲れが出てたりしてませんか? それではお体に気を付けてください。

 しょーへーより。

(`・ω・´)ゞ ビシッッ!! 


「…………………………(ううう)」

 それを見て、再び涙があふれだした。


 家族とともに東京見物に来ていたと言う青年。当時高校1年生で、初めてのミニコンサートが終った瞬間、自分のCDをお小遣い全額分買い占めてサインの列に並んでくれた、初めての熱心なファン。

 サインの間、さっそくファンクラブに入りたいと言い、横で聞いていたマネージャーに『まだできていないんですよ』、と言われ、『それじゃあできたら絶対入会しますので、ここへ連絡ください』といってメルアドを渡された。

 『ありがとうございます、お兄さんがファンクラブ第一号ですね!』、そう言ったら、『いいえ、一番は他の大事な方に譲っていただいて結構なんで、自分には396番を下さい!!』と言ってくれた。

 ――396(さくら)の会員番号が欲しい。その言葉に思わずその場で涙してしまって色紙を濡らし、書き直すと申し出たが、『これが良い』と断られてしまった。

 芸能人になって、初めて歌を歌う喜びを教えてくれた大切なファン。

 それを当時のマネージャーが、『こうういう謙虚なファンなら大丈夫だろう』という判断と許可の元、ファンクラブ創設を機に個人的なメールもやり取りする間柄になった。

 さすがに恋バナは控えたが、仕事の喜びや苦労は包み隠さず打ち明け、それに対して助言や励ましを幾度となく貰っていた。


(護ちゃんに出会ってなければ、間違いなく昇平さんを好きになっていたわね)


 この3年間、そう予感させるに足る信頼関係を彼と築いてきた。

 その蓄積した信頼から、さくらはついに一線を越えた返信をする。


『昇平さん、さくらを助けて』


 GPS情報とともにその言葉を送信して、跨線橋のフェンスに寄りかかり彼を待つ。


 待つ間にさっきの護との事が再び頭の中を駆け巡る。


 ――さくらに俺はふさわしくない。

 年の差の分、どんどんと大人になっていく護を追いかけるために芸能界に入った。

 そうして歌を、自分を、女を磨きながらこれまで努力してきた。――が、それらはすべて裏目に出てしまった。

 大学進学を諦めて自分に寄り添う道を選んでくれた事で、自分も想われていると勘違いしていた。それは間違いではなかったが、自分の努力が護の自分への神聖視を底上げしただけに過ぎず、徒労だった事を思い知らされ、それと同時に、自分の想いが護にとって障害になってしまう事にも思い至る。


(さくらがいては護ちゃんの結婚の邪魔になる……)


 そして、護の考えが自分を取り囲むファンの一人に過ぎないと知った瞬間、自分の存在価値を見失ってしまっている事に気が付き、震えが止まらなくなる。


(……昇平さん、早く来て)

 ファンではあるが、何より自分を思いやってくれた彼の今までの言葉が、まるで砂漠で見つけた井戸水のように貴重に思えた。


 カンカンカン……。


 背中のフェンスを伝い、鉄製の階段を駆け上がる振動が伝わってきた。


(昇平さん?)


 泣き腫らした顔を上げ、左右を見渡す。

 すると右側の夕闇迫る、茜色の中見知ったシルエットが浮かび上がる。


「さくら!」

「護ちゃん!」

 マネージャーとして、当然知っているべきGPS情報を辿った護が追いかけてきた。


「心配した。さあ、帰ろう」


「いやよ、どこへ? 一人ぼっちの部屋へ?」


「そんな事言うな、さくらは綺麗だ。これからいい男がいくらでも探せる」

 ゆっくりと近づいてくる護が、今は自分を拒絶するすべての因果に見え、思わず後ずさる。


「さくらはそんな風に思われたくて頑張ってきたんじゃないわ!! 護ちゃんに愛されたくてこれまで生きてきたの!!」

 遠くで踏切の遮断機が下りる音が聞こえてきた。

「だから俺はそれはに応えられない。俺にはさくらは眩しすぎる。汚すなんてとてもできない」

 列車の近づく音をお互いに耳にした瞬間、さくらはフェンスに手をかけ、護はすこし腰を落として前屈みになる。


「じゃあさくらが護ちゃんに近づけばいいんだわ!!」


 さくらはそう叫ぶと、一気に2メートルほどのフェンスを登って、近づいてくる電車に向かって橋下に飛び降りた。

 追いかけるように護も猛然とダッシュするが、さくらのジーンズではとっさに掴むことができず、さくらの靴を掴むだけに終ってしまう。


「さくらーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 プァーーーーーーーーーーーーーーーーーン…………………………!!

 キキキキィーーーーーーーーーーーーーーーーィィィィィィィ…………!!


 さくらの左の靴を片手に護が叫び、警笛と列車のつんざくようなブレーキの金切り音が数分間も続いた。



 耳が痺れるような余韻が残る静寂の中、さくらが意識を取り戻す。


(……わた…………し……どう…………なっ……た…………の……?)

 

 飛び降りて、体がぐにゃりと曲がらりながら線路に落ちた瞬間、凄まじい衝撃を首に感じた後の記憶がない。

 

 痺れがとれ、代わりに首と左顔面に凄まじい激痛が来た。体は動かず、右目だけが動くので、あたりを見回すと、信じられない光景があった。

 自分がいる場所は列車の下で、左右には車輪が見えた。上には黒一色で塗られたパイプやらタンクやらエアコンの室外機やらが見えた。

(ああ、電車の下って意外と高いのね……)

 などと感じながら、視線を遠くにやると、線路の外側に青いズボンと護の足がせわしく動き、その中心に自分の右足が転がっていた。

 そして近くに視線を戻して、視界の3分の1を占めていたモノに目を凝らしてみる。

 果たしてそこには、ズタズタになって赤く染まったパーカーと……。


 “自分の背中”が見えた。


 その瞬間、忍び寄る死を実感するが、不思議と恐怖は湧かず、かわりに僅かばかりの後悔が脳裏をよぎった。


(あ~あ……護ちゃん……に近づき…………たかった……けど…………やりすぎちゃった……………みたい……昇平さん……にも会いたかったけど…………………これじゃあ……無理。ね……変なメール送って…………悪いこと…………しちゃった。わね………………今度会ったら……きちんと言わなきゃ………………って、あら??……今度なんて…………あるのかしら?)


 脳への酸素が経たれたか、あるいは失血の為か、次第に視界が暗くフェ-ドアウトしながら、意識も途切れ行く中で不思議と再会を感じつつ、護の叫びが耳にこだました。



 そうして、入れ替わりにこれまでの事を傍観していた、“もう一つの意識”が浮上してくる。


(……ふう、やっと終わったのね、また初めから“思い出す”のかしら?)


 しかし、しばらくたってもリピートは始まらず、かわりにうすら寒くて真暗闇だったこの世界に、どこからか暖かい風が吹いてきていた。

          (…………風??)


                                 『…………くら』


                   (……声?)



                                          『……ってこい』



             「誰?」


 

四方からの声に耳を澄ませつつ、その声の主を意識を向けてみる。


       『さくら!』


                 「わたし?」


 自分を呼んでいると判ったら、今度は突然視界が眩しいくらいの世界にフェードインし、声がはっきり聞き取れた。


        『戻ってこい!! さくら!!』




      「ゆーき!?……って誰?…………あああっ!!」


 さくらは自分でも初めて聞くその名前を、無意識に叫んで問い返した瞬間、濁流にもまれた後に陸に上がったような、急激な上下感覚の回復する感覚に見舞われた。

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