暁桜編〈フェードアウト・前編〉


 タッタッタッタッ……。


 離島の分校のような、普通の学校と言うよりは少し小さい建物の中、それと比べて少し狭い廊下を、中学生や高校生くらいの男女に、まるで子猫が通り過ぎるのを見つめるように、にこやかに声をかけられながら少女が軽やかに走っている。


「さくらちゃん! あぶないから走っちゃダメよ!」

「どうしたさくら? 夕飯はまだ先だぞ」

「は~~い、ごめんなさ~~い」


 そうして、さくらと呼ばれた少女は、食堂の隣にある遊戯室の、さらにその隣にある図書室へ向かっていた。

「はぁ、はぁ、……ここかな?」

 ガラッ!

 扉を開け、息を弾ませ中に入ってあたりを見回す。

 12畳ほどの室内には壁際と中央に二列に並べられた本棚が据えられ、その室内の真ん中に会議用の長テーブルが2脚あり、そのテーブルの周りには折りたたみイスが12脚置かれていた。

 その一番奥、日没間際の光が差し込む窓に近い席には、少々大人びた雰囲気の、年の頃は4~5年生くらいの小学生が頬を夕暮れの茜色に染めて本を読んでいる。


 少女はその少年に近づくと、うれしそうに飛び上って少年の背中に抱き付いた。

「護ちゃ~~ん!」

「おお? どうしたさくら?」

「あのねえ、ちょっと聞きたい事があるの~~」

「んん、何だい?」

 護と呼ばれた少年は、口元をほころばせながら、それでも本から視線を外さずに答える。

「護ちゃんが一番初めにママからさくらを預かってくれたって本当?」

「なっ!! どっ、どうしてそれを?」

 バササッ。

 少年が動揺して本を取り落とすと、少女を振り返る

「うんとねえ、えんちょーせんせーが話していたのが聞こえたの~~」

「ちっ! あのばあさんもうろくしやがって……」

 それを聞いた少年が凛々しい顔を不釣り合いに顔を歪め、本を拾いながらあからさまな舌打ちをする。

「もーろく? ってな~~に?」

「いいや、何でもない。……おいでさくら」

「うん♪」

 少年はそう言うと、この春5歳になったばかりの、自分の胸までしかない少女を膝に乗せて抱きしめた。


「……そうだな、なにから話そうか」

 白い肌で明らかにロシア系の顔立ちと琥珀色の瞳、それでいて漆黒で太くて艶やかなこの少女の髪を、愛おしそうに手で撫でながら話し始める。

「5年前か。颯太達とケンカしてケガをさせてな、それで怒られるのが怖くて、近くの公園でブラブラしてたんだ」

「うん」

「そうしたら、さくらのママ……だと思うけど、赤ん坊を抱いた銀色の髪の凄く綺麗な外国人が、此花園このはなえんを指さして何か言うんだ」

「ええ? ママは銀色の髪だったの?」

 少女の可愛らしい理不尽な横やりに少年がクスリと笑う。

「ふふ。ああ、子供の俺から見ても凄く美人だったぞ」

「……そっか~~、でもさくらの髪はまっ黒だね~~、なんでかなあ?」

 初めて聞く母親の容姿に、自分との接点を早くも失い落ち込んだように呟く。

 父親が日本人で、おそらくはそのせいで此花園――養護施設ようごしせつに居るであろう事は何となく察しがついていたが、少年は口に出さずにその髪を撫でながら慰める。

「それは分からないけど、俺はさくらのこの髪が大好きだぞ」

 すると少女がとろけた顔になって少年の胸に顔をうずめる。

「えへへ~~、護ちゃんが好きならさくらもこの髪が好き~~♪」

 その返事に笑いながら話を続ける。

「それで、どうやら『此花園の子供か?』 って聞いているみたいで、『そうです』って答えたら、今度は神社を指さして手招きするからそのまま神社までついて行ったんだ」

「神社? 近くの浅間神社の事?」

「ああ、どうやらお参りをしたいから、その間赤ん坊を――『お前を見て欲しい』ってな事を言ってたんだと思う」

「ふうん、それで?」

「まあ、赤ん坊をあやすのは慣れていたし、『いいですよ』って答えて、赤ん坊を預かってあそこの桜の下のベンチで帰ってくるのを待ってたんだけど……」

「けど?」

「結局帰ってこなくて、困っ……いや、そのままお前を――さくらを連れて此花園に戻ってきたんだ」

 ばれてしまった以上、隠し立てするのは良くないと考えたが、いざ話してみると、傷つけたのではないかと心配になり、少女の顔を覗き込む。

「そっか~~! それで護ちゃんとさくらが“うんめーの出会い”を果たしたんだね?」

「はあ??」

 しかし、心配する少年をよそに、少女がませた言葉でにこやかに答えた。

「それで? “さくら”って名前はママがつけてくれたんだよね?」

 実母に捨てられた事を、少女は気にした様子もなく流してさらに聞いてくる。

「あっ、ああ、産着に入ってた浅間神社のお守りに、慣れない平仮名で“さくら”とだけ書かれた紙が入ってたんだ」

「ええ!? お守り? そんなのあったの?」

「ある。だけどそれはさくらがもう少し大人になってから渡すって園長先生が言っていた」

「ええ~~? 大人かあ、どうやったら“大人”になれるのかなあ……」

「それは……、そうだな、さくらがそのお母さんと同じように、“ママ”って呼ばれるようになったら渡してもらえるんじゃないかな?」

 「そっか~~!うん。さくら“頑張って”ママになる!」

 少年は人が聞いたら誤解しそうな少女の言い方に苦笑いしつつ、傷つかぬよう慎重に言葉を選んで聞いてみる。

「……さくらはママが“居なくなって”悲しくなかったのか?」

「ううん。みんなだってパパやママがそばに居ないけど、そばに居ると”いくない”ともだちもいっぱいいるから、全然悲しくないよ? それに居ても護ちゃんのママみたいにイジワルするママもいるでしょ?」

「――っ!!」

 少年が驚いて少女を見返す。そうして少女は両手をいっぱい広げて少年に抱き付くと、背中をさすってこう言ってきた。


「護ちゃんのママは、護ちゃんにいっぱいひどい事をしたってお姉ちゃん達に聞いたよ? この“もよう”がそうなんだって教えてもらった事があるの」

「くっ……」


「あっ! そうだ! さくらが護ちゃんのママになったらいいんじゃない?」

「さくら!!」


 見知らぬ美しい女性から託された赤ん坊。その託された小さな命が今、滑稽なほど手を伸ばして守るように少年を包む。

 そして少年の心もまた、少女の無垢な魂に写しだされ、慈愛と言う名の心地のいい鏡の中に囚われてしまう。

「……じゃあ、俺はさくらのパパになってやる」

 少年が何かを堪(こら)えながら少女を抱き返し、その耳元に優しく囁く。



(ああ、この頃に戻れたら……)

 あたかも平衡世界から傍観しているように、この場に存在するもう一つの意識がぼんやりと考える。


 „~  ,~ „~„~  ,~



「もうやだあ!!」

 軽く10人は同時に入れるであろう浴場に、小さな男の子の声が響く。

 5つあるシャワーの前の流し場のうちの3つに、中高生の男子がそれぞれ座り、幼児から小学校低学年くらいの男児の頭をそれぞれ洗っていた。

「こら九頭流(くずる)! じっとしてろ! 洗えないだろ」

「だってー、護兄ちゃん乱暴なんだもん」

 そのうちの一組、護少年が悪戦苦闘しながら九頭流少年の頭を洗っていた。

「まだ3人も洗わなきゃいけないんだから、ちゃんと言う事聞けよ!」

「うええん、ママが良いよう」

 ガラガラッ。

 曇りガラスの引き戸が開き、黒い髪を腰まで伸ばし、今は12歳となったさくらと呼ばれた少女が、そのややふくらみの少ない真っ白い裸身を隠しもせずに入ってきた。

「クーちゃん呼んだ~~?」

「ママ!!」

 その声を聞いた途端、護少年に洗われていた少年が逃げ出し、少女の元へ駆けて行ってしまう。

「あっこらっ! って、さくら、なんで入ってきた!!」

「え~~? なんか護ちゃんがクーちゃんに手を焼いてるみたいだったからお手伝い~~」

「ママー、ママが洗ってよう」

 頭を泡だらけにした九頭流少年が、少女に抱き付いてねだる。

「はいはい。分かったから座って。ね?」

「はあい♪」

「はあ、それはしょうがないとして、さくらはもう来年中学生なんだから俺らと一緒のフロに入るのは遠慮しろ」

「ええ~~? なんでよう、ぷ~~~!」

「ははは。まあいいじゃないか護、我らが此花園のアイドルはもうじき手の届かない世界に行っちまうんだ。今のうちに天使の姿を焼き付けておこうぜ!」

「そうだけど、でもさくら、せめてタオルくらいは巻いてこい。じゃなきゃ今度のテスト勉強の面倒見てやらないぞ」

「ええ~~? 護兄ちゃんオーボ-!!」

 九頭流少年がぼやく。

「それは困る~~……はあい、分かりました、じゃあクーちゃん、ちょっと待っててね?」

 そう言って、抱き付いていた九頭流をひきはがすと、きびすを返して脱衣所に向かう。

「さくらが体を隠して、なんで九頭流がぶー垂れるんだ?」

 護が次の子供を呼んで頭を洗い始め、九頭流に聞く。

「……別にいいじゃん」

 九頭流がふてくされてそう言いながら、護の隣の開いた流し場の前に座ってさくらを待つ。

「ふふ~~、クーちゃんはママのおっぱいに触りたいんだよねえ」

「あーもう!! ママってば!!」

 戻ってきたさくらがあっさりばらしてしまい、九頭流少年が声を上げる。

「……たくもう。さくらがそうやって甘やかすから、九頭流は2年生になっても自分の頭も洗えなくなっているんだぞ」

「へへん。……んべーだ」

 それでもさくらが頭を洗い始めると機嫌が直り、横を向いて九頭流が護に舌を出す。

「コラ! ……でも別にいいじゃない? さくらも中学に上がったら東京に行っちゃうし」

「はあ……、でも本当に歌手になるのか?」

「うん。なんか喜楽苑のおじいちゃん――じゃない、大島さんも大丈夫って言ってくれてるし、ビーナスプロダクションの社長さんの方にもよろしく伝えてあるって言ってくれてるし」

「……まあ、引退したプロダクションの元会長の推薦なら、ヘタなスカウトより全然安心だけど、それでもさくらはまだ小学生だろ? 心配なんだよ」

「うん。ありがとう護ちゃん。でもさくらって、今まで園の中や老人ホームとかの交流会でしか歌ったことなかったじゃない? それでこの間指導員さんに『ちゃんと聞いてみたいから送れ』って言われて録音したデモテープ送ったら、『これは早いうちにちゃんとレッスンしたら、もっと上手くなる』って言われたの」

「そうだよ、さびしーけどママの歌が上手くなるならオレはダイサンセーだぞ!!」

「ふう、じゃあ、九頭流は今度からはちゃんと一人で頭を洗えよ?」

 護が諦めたように息を吐き、九頭流に言い聞かせる。

「うん……。オレ頑張るよ、護兄ちゃん」

「ふふ、クーちゃんはいい子ね。じゃあ、ちゃんと洗えた日はママと一緒にネンネしよっか♪」

「ホント!? じゃあ、今から自分で洗う」

「現金な奴」

 護が呟き、手の空いたさくらが他のもっと小さな子供の頭を洗い始める。

「それでさくら。デビューする日取りは決まったのか?」

 護の隣、年少者の頭を洗っていたもう一人の高校生が聞いてくる。

「うん。来年の4月2日に、どっかのショッピングモールで、サイン会兼ミニコンサートやるんだって」

「そうか」

「……あのね? 護ちゃん」

「なんだ?」

「芸能人になったら、さくらももっと女っぽくなれるかなあ……」

「さあてな、でも慌てなくてもさくらは母親に似てきているし、いずれ美人になると思うぞ」

「うう~~、“いずれ”じゃイヤなんだけどなあ……」

「なんでさ」

「だって護ちゃんが大学生になったら、東京へ行っちゃうんでしょ?」

「うん? まあ推薦も決まって奨学金も申請が通ったからな」

「そしたらさくらみたいな子供じゃ……」

 さくらは自分の体に視線を落とし、声を詰まらせた。

「大学へは遊びに行くんじゃない。学生のうちに遊ぼうなんて此花園しせつの人間には分不相応だと思うぞ?」

 人の顔色を見る事に慣れ、その意図を察するのが判るよう育ってしまった護が、さくらを安心させるようにやんわりと言う。

「それでも……ううん何でもない。それじゃあさくらも歌が上手くなるように頑張るね」

 不安そうな影を落としたまま、さくらもまた護に心配かけまいと強がりを見せた。

「ああ、応援するよ」



(どうしてこの時に告白しなかったんだろう……)

 カタチのない後悔がこの意識を永遠に蝕み続けていた。

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