暁桜編〈過去〉
「え?、見てのとおり涼香のタンスだけど……」
平然と答える俺を見て、フローラは困ったように眉を寄せるが、ふう、と息をつくと改めて聞き返してきた。
「……それは判るが、“どうして裕貴の部屋にあるのか?”と聞いているんだ」
「あ~~、それは……」
と、言いかけ、姫香を見る。
「いいんじゃない? フローラなら」
姫香が言い切る。
「そうだな。――じゃあ簡単に話すけど、もっと詳しい話は涼香がいる時にね」
「ああ。聞かせてくれ」
「んじゃ、あたしお茶入れ直してくるね」
そう言うと姫香がティーセットをトレーに乗せて部屋を出ていく。
そうして少し長い話をするために、改めてテーブルに向かい合わせで座り直した。
「………えっと、まず涼香なんだけど、小さい頃はずっと母親から虐待されていたんだ」
「虐待!!」
フローラは嫌悪を隠さず声を上げる。
「――つっても、肉体的に暴力を振るわれた……事はたまにあるけど、ひどかったのは育児放棄(ネグレクト)の方だったね」
「ネグレクトか。具体的には?」
「うん。涼香とは小さい頃は借家暮らしで家が隣り同士でさ、ウチの親も含めて俺もよく面倒を見てた。ババア……いや、涼香の母親は夜の商売の人でさ、夕方出勤して、酔って午前様で帰って来ては出勤までダラダラと寝ていて、時々涼香に暴言を吐いて当たり散らして、ろくに涼香の食事や着るものも面倒見ない人だったんだ」
「ひどいな」
「それで涼香はあの通りの性格になっちゃって、普段は家に引きこもっていたから、俺が勝手に涼香の家に上がりこんで連れ出してきて、家で一緒にご飯を食べたりしていた」
「勝手にか?」
「うん、子供だから警察沙汰にもならないし、その方が自由にできたんだ。それにお父達も涼香の母親に色々言われたけど、しゃあしゃあと『子供のすることだから』とか、『よく言って聞かせます』とか言い濁して俺の自由にやらせてくれたし、なにより警察沙汰になるのは母親の方も都合が悪かったから全然問題なかった」
「確かにそうだ」
「でも小学校5年生の時、母親にひどく責められた事があって、涼香もさすがに怖くなったのか、俺のとこに逃げ出してきて来たんだ。俺もそれ見て、隣同士の家にいたら涼香が危ないと思って、近所の山にある炭焼き小屋に二人で家出したんだ」
「山にか?」
「うん。でもさすがに小学生の発作的な家出じゃあ、食べ物とか装備とか全然足らなくてさ、二日目に危機に陥って、山の中二人で山菜探したりして彷徨っていたんだ。そして沢に水を汲みに降りようとした時、涼香が足を滑らせて傾斜を落ちて、そして……」
当時を思い出し、手を握りしめて下を向いてしまう。
「……………そして?」
フローラは言いよどむ俺を少し待った後、握りしめた手を優しく包んでやんわりと聞き返してきた。
深いため息をついて言葉を絞り出す。
「……涼香は“両腕”を骨折した」
「両……腕だと?」
「ああ、俺にしてみたらケガをするような急な斜面じゃなかったんだけど、涼香はそもそも満足に食事も貰えていなかったから骨も丈夫じゃなかったんだよね」
「なるほど」
「で、ふもとまで降りて救急車呼んで、病院に行ってすったもんだして、涼香は病院、俺は家に帰
って、お父とママに泣かれて怒られて叩かれて…………――褒められた」
「褒められた?」
「それは……
「それは、『涼ちゃんを救おうとしたのは男として立派だ!』ってママたちに言われてね♪ ハイお茶」
言いかけた所を、お茶を持ってきた姫香が嬉しそうに代わりに答えた。
「なるほど、だからあの時も……」
「あの時?」
「ああいや、何でもない。続きを聞かせてくれ」
「それで……まあ当然涼香は入院したんだけど、元々バランスの良い食事なんてしてなかったから治りが遅くてね。それまでも家の事情で結構休んでたし、結局『歩くのに支障はないから』って、学校の授業が遅れるのを心配した先生が退院を勧めてきたんだけど、両腕骨折でしょ?、学校とか、家でとか普段の介護が必要があるんだけど、、ウチはママが兼業主婦で、ババ……いや涼香の母親が母子家庭だからどうするかって問題があった。……けど、涼香が『裕ちゃんなら世話になってもいい』って言うから、治るまで一緒に住んでいたんだ」
「…………そうだったのか。タンスはそれじゃあその当時のか。大変だったんだな」
「まあ、それなりに……」
「ん? 介護? じゃあ着替えはもちろん、フロやその…………トっ、トイレも裕貴がほ、補助したのか?」
「そうだよ」
一瞬、言い訳じみた考えがよぎるが、フローラに対しては真摯でありたかったので偽りなく真剣に答える。
「裕兄!!」
横で聞いていた姫香が驚く。
「――っそ、そうか。……これでお前たちの関係に合点がいった」
「最初から話してあげられたらよかったけど、気が小さくてね。気をもませたみたいでごめんね」
「そんな事……まあ、うかつにペラペラ喋ることができない内容だから当然だ、だがもう一つだけ聞きたい」
「なんだい?」
「涼香を好きか?」
「ちょっ、フローラ!!」
姫香がうろたえ、何か言いかけるがるが手を上げて止める。
「好きか? 嫌いか? と聞かれたら“好き”だって言うよ?」
これまでの付き合いを知っているフローラが、そんな単純な意味で聞いたのではないと思って逆に聞き返す。
「すまない、質問が悪かった。“涼香を愛してるか?”だ」
「……そう、なら、答えは“愛してる”だね」
即答で答える。
(やっぱり聞きたい事はそれだったか)
テーブルのさくらは驚き、姫香は口を両手で覆うとみるみる涙目になる。
「……そうか」
フローラはそれだけ言うと、俯いてしまう。
「「「「…………………………………」」」」
みんなでしばし押し黙ってしまうが、俺が思い出したことを語る。
「ふっ……、実はこの間涼香にはフラれちゃったんだよね」
もう隠す事でもないので、肩をすくめて笑いながら打ち明ける。
「知っている。ていうか、涼香のさっきのメールで聞いていた」
「え!? 涼姉が?」
姫香が微かに濡れた目元をぬぐいながら聞き返す。
「そうだったんだ……」
(それにしてはやけに動揺してたみたいだけど……)
そんな疑問が浮かぶが、今聞くほどの事でもないと思って口をつぐむ。
「だから裕貴の気持ちも直接聞いておきたかった。――それで、涼香はさらにメールで“裕ちゃんの方は元々家族愛に近いから、裕ちゃんはこれからも大して変わらないよ”とも言っていた」
「え!? マジ? 涼姉が?」
姫香がフローラに聞き返す。
「ああ、確かだ」
「くっ、あのバカ……はぁ、その読まれっぷりが俺の底が浅いみたいで一番傷つくなあ」
「ふわあ~、さすが涼姉、裕兄をよく判ってるねえ」
「姫香、お前もかよ」
「ふっ、まったくお前らは。…………だが裕貴」
そう言いかけて向き直って姿勢を正す。
「なんだい?」
「嫌な事を思い出させたうえ、不躾な質問にもきちんと答えてくれてありがとう。これからもいい友達でいてくれるか?」
そう言うとフローラは頭を下げ、再び上げた顔はなぜか少し悲しそうな顔をしていた。
(ああ、フローラ。君はまったく!)
――深く追及してきた真意は判らない。聞くつもりもないが、安易に謝って質問そのものを後悔するような事もせず、話した相手に気まずい思いをさせない真摯な態度が、はるか異国から来た彼女を魅力的な存在にしていた。そしてその思いやりはどこか誰かに似ており、自分の心の深い部分を疼かせていた。
(……俺が次に好きになるのは多分。いや、止めておこう。それにフローラには大きな目標がある)
「もちろん、これからも“友達”だよ」
真剣に、真摯にフローラを見て言う。
そうして姫香が部屋に戻り、フローラは押入れの鏡の前に立ち、髪を検分して当初の行動に戻る。
「……ん、しっかりまとまっているな。裕貴はなかなか女の髪の扱いに慣れている」
「その言いかた、ビミョーに引っかかるなあ」
体にぴったりフィットしたVネックのスリムニットで、鏡の前で体をくねらせるフローラに困惑し、目のやり場を求めて視線が部屋中を彷徨う。
(服を着ている時のほうがセクシーに見えるってすごいよな……)
「ふふ、なぜだ? 褒めているんだぞ?」
フローラが髪を鏡の前で検分しつつ、上機嫌で感想を言う。
「だってそれじゃ、俺がどんだけ遊んで……ってフローラ!?」
視線を逸らして後ろを向いてそう言いかけた瞬間、フローラが俺の首に腕ををまわして抱き付いてきた。
「…………………………………………………………」
フローラは答えず黙っている。
俺との身長差の分、軽く上から覆いかぶさるようにしていて、肩甲骨のあたりにフローラ自身の誇りと呼べる主張が存在をアピールしていた。
涼香に対しては無意識に押さえつけている感情が、フローラに対してはなぜかセーブできず、意に反して心臓が早鐘を打つ。
「「……………………………………………………………………………………………」」
何も言えずただお互いの存在を静かに感じていて、少し冷静になって落ち着いた頃、フローラの鼓動を背中越しに聞くと、彼女もまた激しく鼓動を響かせている事に気付く。
耳元にフローラの熱い吐息を感じると、自分の鼓動がだんだん下の方へ降りていく感覚に陥った。
マズイと思い、何かかける言葉を探っていたら、フローラが口を開いた。
「……裕貴はすごい、それだけ涼香を想っていて、どうして自分を押さえていられるんだ?」
これが下品な質問でない事は明白だった。そしてまともな方向で頭を動かして答えを探る。
だが、いくら考えてもフローラを納得させられそうな答えが見つからず、ふと思い至る。
「それは俺自身よく判らない。……多分俺の中で涼香は、未(いま)だに部屋の隅でおびえているイメージが残っているんだと思う」
「そうか、裕貴は強い。だからわたしは…………」
そう言うと、耳の後ろへキスをしてくれた。
耳を押さえ、自分でも判るくらい顔を赤くして抗議する。
「くっ、フローラ!。そういうスキンシップは日本人の田舎者にはシゲキが強いんですけど!」
体を離すと、密着して汗ばんでいた背中に空気が触れてひんやりとした。
「ふふ、ならこれからはいっぱいしてやろう。今まで頑張ってきたご褒美にな」
振り返るとフローラは少し涙目で、それでも満面に笑みを浮かべて俺を見つめていた。
„~ ,~ „~„~ ,~
その後、さくらの作成した3D画像を、テーブルに置いた25インチの空間投影機(エアビューワー)に写して、明日の散策ルートを確認した。
「……って感じで針葉樹林を避けて、広葉樹林を縦走するルートで歩こうと思うんだけど」
3Dマップに赤い光線を出し、先日検討したルートの説明をする。
「ああ、桜さえ見られればどんなルートでもかまわない。全部裕貴に任せる」
さくらの作成した画像は高精度だったが、生憎と樹種まで判らず、せいぜい針葉樹か広葉樹くらいしか判別できなかった。
(……ま、衛星画像で葉っぱまで判るのなんて、軍事用でもあるかどうかだろうけどな)
「うん。ただ、俺も初めて入る山だし、見ての通りあちこちにセメントの採掘場があって崖が多いから、地盤によっては近寄れなくてルートを変更するかもしれないよ?」
そう言う通り、画像にはいくつもの採掘場を示す、少し黄色味を帯びたむき出しの山肌がいくつも映し出されていた。
「どういうことだ? 徒歩でそんなに迂回が必要なほど近寄れない場所があるなら、地盤も専門サイトで公開されているんじゃないのか?」
「うん、そうなんだけど、さくらが言うには採掘権の関係で、閲覧に制限がかかっているらしいんだ」
そうしてフローラがさくらを見ると、さくらがすまなそうに言う。
「……うん。そういう事だからごめんねえフローラ」
「なるほどな。了解した」
「じゃあこんな感じで明日は調査しよう」
「しかし、よくまあDOLLのガイドなしでこんな山の中を歩き回れるな。オレなんか平地しか歩いた経験がないから、上下に移動したらあっという間に方向感覚を失うぞ?」
「そう? 俺にとっては山歩きは難しくないけど……」
「それがおかしい。町中と違って高い木々に囲まれて見通しが悪いのに、どうして現在位置を把握できるんだ?」
「そう言う事か。うん、そうだねえ……言葉にするのは難しいけど、あえて言うなら脳内マッピングだね」
「脳内マッピング?」
「そう、スタート位置の地形を大まかな地図で覚えていて、進んだ歩数とか、曲がった方向、立ち位置の確認や樹相とか、斜面の状態とか、そんなのを折れ線グラフを描くように、脳内にインプットしてスタート位置に戻るって感じかな?」
「ゆーき、それって測量技術に近くない?」
さくらがフォローする。
「――って良く知らないんだけど、そうなのかな?」
「ふうん、だがそれは一朝一夕では体得できないだろ? 何にしてもDOLLだって電波の届く範囲でしか行動できないし、万一の時にもそういう技術があるなら、安心して裕貴についていける」
フローラが嬉しそうに語り、少し照れる。
「でもまあ、実際人が一日で山の中を歩き回れる距離なんて何キロもないし、ましてや調査しながらならなおさらだよ?」
「そういうものか。じゃあ次からは山の歩き方もついでに教えてくれ」
「うん。いいよ」
„~ ,~ „~„~ ,~
その後、フローラが先に風呂を済ませて夕食にし、食後に俺が風呂からあがると、リビングでみんながくつろいでいた。
お父はまたしても酔いつぶれて部屋に戻っており、ママと姫香、フローラがガールズト-クをしていた。
テンションの高いママの声が聞こえていたのでママを見たら、珍しくワインなどを開けてほろ酔いになって、陽気に昔話をしているようだった。
「…………じゃあ、おばさまが帰ってきたら姫香が泣きわめいていた?」
フローラがママに聞き返す。
「そうなのよ、どうもウンチをしたみたいで、二人がそのおむつを替えようとしてたようなの」
(なんの話だ?)
タオルで頭を拭きつつ、ママの話に聞き入る。
「それは小さいのに果敢だったんですね」
「でしょう? でも、まだまだ二人とも4歳になったばかりで要領も悪くてね、涼香ちゃんはティッシュを持って泣きながらオロオロしてるし、裕貴は暴れる姫香に手を汚しながら悪戦苦闘していて涙ぐんでこう言っていたの」
「何て言ったんです?」 フローラが聞く。
(この話はまさか!!)
嫌な感じがして姫香を見ると、能面の様に表情を凍てつかせ、じっとママの話を聞き入り、反対にテーブルのさくらは目を輝かせて(多分)マグカップに手をついて、前のめりに話を聞いていた。
「それがね?、『ごめんよ~ひめか~~、もうちょっとで終わるからおとないくしてよ~~』って自分も泣いてエグエグになりながら頑張ってたの」
(やっぱり~~~~~~~~!!)
「……それは、子供はなかなかできませんね」
なぜかフローラも嬉しそうだ。
「そう!! それで私はこう思ったの!『ああ、この二人は本当に良い子たちだわ』ってね」
「まったく。私もそう思います」
「でね? 裕貴は責任を感じたみたいで、それから自分がいる時は必ず姫香のオムツを替えてくれたの」
「……へえぇ、あたしが赤ん坊の頃そんな事があったんだ」
姫香が声のトーンを平坦にしたまま、ギラついた目を俺に向け、口だけを動かして言う。
「何言ってるの? あんたおぼえてないかもしれないけど、トイレトレーニングまで裕貴がやったのよ?」
「トイレトレーニング?」フローラが聞く。
「トイレトレーニングはね、小さい子がオムツ離れの為の練習で、トイレに行きたくなったら大人が、――この場合は裕貴がだけど、トイレに行って手伝ってあげるの」
「ほう、4~5歳の裕貴がそれを?」
「そう、姫香なんかあたしよりも裕貴に手伝って欲しがって、トイレが近くなると裕貴の手を取って、『ゆうちゃ。チッチ。ひめチッチいく!』って裕貴にねだるのよ。ホーホホホ……」
憎らしいくらい朗らかに笑うママ。
「チッチですか。……ふふふ」
フローラも笑いながら俺を見て、からかうように復唱する。
「……そのせいかしらね。姫香や涼ちゃんがブラコンで裕貴がシスコンになったのは」
一瞬シラフになったママがポツリと言い、フローラの眉がわずかに跳ねた。
「チッチねえ、……チッチ、チッチ……………うふふ…………」
姫香が呟き、下を向いてなにやらブツブツ言い始める。
その後、先日の疑問を風呂場で書き連ねたメモをフローラに渡し、暗鬱(あんうつ)な気分でさくらと部屋に戻ると、姫香からメールが届いた。
「うんとねえ、『あたしのオムツを替えた数だけ死ね!!』だって」
床に手を付き、思わず床を滴で濡らす。
「おっ……おふっ…………姫香、、……兄ちゃんは、……くくく、」
(ナミダが止まりませんよう……)
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