暁桜編〈涼香とデート・3〉
――翌朝。
胸に圧迫感を感じて目が覚めたら、またしても裸で潜り込んでる茶トラの
……受験勉強で泊まり込んでた時は下着くらい着けてたけどなあ。
〈赤ん坊はね、自分より緩やかな鼓動を感じると安心するの、だから赤ん坊をあやす時は、まず自分がリラックスしていないとダメなのよ〉
俺の鼓動を子守歌にして寝てる涼香を見て、ママの幼い姫香をあやす時にママが教えてくれた言葉を思い出す。
涼香がこうして過度に甘えてくるのは、何かしら不安を抱えていて安心を欲しているし、その原因は自分にある事は痛い程分かっている。
胸に痛みを感じつつ涼香を見つめてると、さくらと一葉が起動してベッドの上に座りにこやかに手を振ってきた。
そうだ、もう涼香にも一葉が居るじゃないか。
そう期待しつつ猫を愛でるように 安らかな寝顔を見つめ、ゆるくウェーブのかかった髪を指先でそっとかき上げて頬を撫でる。
「ちょっと思い出した事があるから、今日の午前中少し付き合ってくれ」
「……なあに?」
怪訝そうに聞きかしてくるので訳を話す。
「おはよう」
リビングに入り挨拶をする。
「ああ、おはよう裕貴、ご飯はもうできてるわよ」
珍しく自分が一番早くに起きてきたようで、ダイニングにママしか居なかった。
「そう? じゃあ姫香と涼香に声をかけてくるね」
「お前が先に起きてくるなんて珍しいな裕貴」
赤くていびつな物体がなんと人語を発した。
「おお!! びっくりした! パプリカが喋った!」
……と思ったら、顔中を赤く腫れ上がらせたお父だった。
「ああ、なんだかなあ……、居間のソファで目が覚めたらこうなってた。酔ってうたた寝してて散々蚊に刺されたみたいだ。あちこち刺されすぎて、痒いのを通り越して痛いんだよなあ」
どうやらアルコールと一緒に記憶も抜け落ちているようだ。
「――そっそう? ま……まあ、お大事に」
すっとぼけて言う。
「ああ、涼ちゃんはどうした?」
「まだ上でグダグダしてる。――お父、今日、涼香と例の桜の虫取りのバイトをやろうと思うんだけどどう?」
「そうか、そりゃあ助かる」
「よかった。じゃあ飯食ったら始めるね」
「頼む。あとアブラムシもぼちぼち出始めたから薬も撒いてほしいんだ」
「了解、じゃあ食後にね」
そうして二階に戻って二人に声をかけ、朝食を済ませて涼香と庭に出る。
「じゃあ、ケムシ捕りはいつもの様にやるけど、アブラムシはどうすんの?」
「それなんだが、ウチの桜は大体小さいけど、背が高めの小彼岸桜と十月桜、八重青葉桜とかが、新梢にアブラムシが湧いて、芽枯れ病も併発してるんだ。だからそれを脚立に乗って石灰硫黄合材の希釈液を、スプレーで散布して防除して欲しいんだ」
そう言われ、家では少し大きい部類の3メートルを超えた桜を見ると、シワシワになった若葉に、黒く変色した枝先が見えた。
「う~~ん、この枝数と手動のスプレーじゃあ結構大変そうだねえ……」
「あっあたしも手伝うから、だ大丈夫よ裕ちゃん」
ざっと見た所、二~三メートルの高さの枝が四〇~五〇本は侵されている。
「今年は梅雨入りが遅くなっていて、晴れ間が多いから新梢がよく伸びているんだ。まあ、その分バイト代を弾むから勘弁してくれ」
「了解。つか、もっと根本的に“浸透移行性”の、植物自体に薬剤を吸収させるタイプの薬品で防除できるんじゃない?」
「おお! よく知ってるなあ」
お父が驚く。
「うん、まあフローラに協力するって約束したから少しずつ勉強してるんだ」
「そっそうなんだ……」
涼香が応える。
「そうか、なら詳しく理由を説明するけどいいか?」
「うん。お願い。じゃあ、さくらはこの事は記録しておいて」
肩のさくらに話しかける。
「うん。じゃあ要点(ダイジェスト)モードと録音(レコーダー)モード、どっちにする?」
「そうだな、話し言葉のまんまだと復習が大変だから、ダイジェストモードにしよう。フォルダ名は“桜の栽培”にして」
「は~~い」
「じゃあまず、桜の繁殖の特性から説明しよう」
「うん」
„~ ,~ „~„~ ,~
「そもそも桜は他家受粉植物で、自家受粉植物と違って単体では種ができない」
「あれ?、そう言えばうちのはどれもバンバン実をつけるけど、そこらじゅうに植えられているソメイヨシノが実をつけないのはどういう事?」
「ソメイヨシノの場合、多くは青葉桜やコルト台と呼ばれる、“台木専用の桜”に接ぎ木をされて、“栄養繁殖”した、まったく同じDNAの“クローン植物”なんだ」
「それで?」
「他家受粉とは別の個体、つまり異なるDNAでないと受粉しないという意味で、同じDNAのクローン個体同士では受粉できないんだ」
「なるほど、じゃあソメイヨシノも異なるDNAの個体なら受粉できるって事?」
「そういう事だ。実がつかないソメイヨシノは近くに違う個体がないだけで、違う個体があればちゃんと実をつける。他にもサクランボを育てようとするなら、近くに開花時期が同じ受粉用の樹を植えれば実をつける」
「あれ? ……って確か、前にホームセンターで“一本でも実がなる桜”って売っているのを見た様な気がするよ?」
「それは“支那実桜”と言われる中国が原産の品種群の桜で、“唐実桜”とか“暖地桜桃”などと呼ばれる桜だね」
「ふうん、そういう桜もあるんだね」
「まあな、ちなみに支那実桜に小彼岸桜を接ぎ木してできた枝変わりの突然変異が、“啓翁桜”という、切り枝専用の桜なんだ」
「切り枝専用?、桜って過度の剪定を嫌う植物でしょ?」
「ふふふ、まあ剪定についてはまた教えるが、そもそも剪定に耐えられるから優良品種になるんだ。それに家にもその系統の桜があるぞ」
「どれ?」
そう言ってお父が指差した鉢には、一メートルほどの大きさで、逆さまにした箒(ほうき)の様な樹形の桜が植えられていた。
「これは啓翁桜の枝変わりで、大きくならない矮性系統の桜だ。名前は“山形おばこ”って言って、山形の方言で“未婚娘”と言う意味だそうだ」
「これかあ、家でも一~二を争うぐらい花が密に咲くよね」
「そうだな。……おっと、すまん。話が脱線した。つまり、日本の桜は二個体間でしか種ができないと言う事なんだ」
「他家受粉については理解したけど、それと農薬を使えない事とどう関係があるの?」
「と言う事はだ。桜は“必ず親と違うDNA”で生まれ、“親と違う特性になる”って事で、判りやすく例えれば、八重の桜の子は一〇〇%八重にならないし、逆に一重から八重の桜が生まれることもごく普通にある。枝垂れや大木性、矮性、花期、花色、花弁の大きさなどあらゆる特性が、両親のDNAからランダムで子に発現するのが桜なんだ。そしてお父はその特性を利用して実生(みしょう)――つまり種から育てて品種改良をしている」
「ああ、なるほど。じゃあ親と“同じ特性にならない”から“親と同じ薬品が使えない”って事なんだね?」
「そういう事。家の個体に限らず、桜の実生は花が咲いて、樹が成熟して特性が安定するまで、薬品や病気に対する耐性が不明な点が多い。親と同じ系統としての対応は可能だけれども、系統から外れた個体ほど珍しい花や特性になるのもまた事実だ。だからできるだけ個別に対応をしなきゃいけない」
「……それはもうなんていうか“人間”と同じじゃない?」
「はは。そうだな。“どんな花が咲くのか判らない”。それが桜の育種の面白い所だとお父は思っている。……でもまあ、真実は桜の遺伝にもちゃんとルールや法則があるのかもしれない。いや、多分あるんだろうけど、日本には専門の機関や研究者は数えるほどしかいなくてね、系統の判別や整理、DNAの解析もあまり進んでいないのが現状なんだ」
「研究が進んでいない?、国花なのに?」
「そうだ。でも一つ言っておくが、桜は国花じゃないぞ」
「ええっっ?」
「おじさんそれ本当!?」
衝撃の事実に、傍で聞いていた涼香も驚く。
「本当だ。正確に言うなら、桜は国花として“認知”された花ではあるけれど、“正式”ではないという事になる」
「……びっくりだよ、って、じゃあ正式な日本の国花はなんなの?」
「理由は知らないが、“決まっていない”のが実情だ」
「「ええっっ?」」
さらに驚いた。
~′ ~′ ~″~′ ~″
「んじゃあお父は姫香と買い物に出掛けるから後は頼むな。リビングに昼飯代プラス日当は置いといたから取っといてくれ。薬の作り方はこのメモの通りにな。ママはパートが三時くらいに終わるって言ってた」
「ほ~~い、ありがと~~」
お父が姫香とそう言って出かけ、薬を散布する前に、目で見える害虫をいつもの様に捕殺することにした。
ピンセットや手袋を用意しつつ呟く。
「…………そうか。多分さっきお父が言ってた、研究者の不足がフローラの動機の一つでもあるんだな」
「うん、そうね。それにレールが敷かれていない事ってすごく大変だと思う」
聞いていた涼香もフローラの目標に感嘆する。
「よし! じゃあアタシが虫を見つけるから、みんなが捕まえてくれる?」
一葉が率先するように声を張り上げ、話題を切り替える。
「ひっっ、一葉、急にどっどうしたの?」
DOLL(ひとは)から大きな声をかけられ涼香がビクつく。
「どうした一葉?、何でお前が見つける役をやるんだ?」
理由が判らず聞き返す。
「どうもこうも。アタシに立体認識拡張アプリ入れたでしょ?、ついでに今“桜の害虫図鑑”園芸Wikiでダウンロードしたから、それを生かそうと思ったのよ」
一葉は両手を腰に当ててふふんと胸をそらす。
(おおナルホド、って。自分で判断して必要な情報(データ)集めるって、このA・Iなんて判断力だよ!)
「そっ、そうね一葉、害虫は結構見つけにくいからたっ、助かる」
涼香が納得する。
「確かに害虫は擬態(ぎたい)しているのが多いから、目が慣れるまで大変なんだよな。サンキュー、つか、さっきからさくらは静かだけどどうした?」
「ひっっ、……さっさくら、具合が悪いからおうちに入ってていいかな~~……」
さくらがまるで涼香の様にキョドりながら喋る。
「DOLLが具合悪いってなんだよ。まだ買って一ヶ月経ってないだろ?。それに異常があるなら、俺のツインに警告(アラーム)が出るはずじゃないか」
「どどうしたの? さくらちゃん」
涼香が心配するが、一葉がさくらの代わりに答える。
「さくらは毛虫が苦手なんだよ!」
「何ぃぃ?? 」
「ええっっ??」
(毛虫が苦手なA・Iだと?)
「ひぃ~~ん……ひとは~~、バラシちゃいや~~~」
「なんだよ……ああ~~、まあそれならしょうがないか。一葉が見つけるなら、さくらに捕って貰えばラクかな~~って一瞬思ったんけどな」
「ひ~~! ゆーきオソロシイ事言わないでよ~~う。ていうかさくらは害虫駆除人形(ホイホイさん)じゃないんだよ~~?」
「専門話題(メタネタ)はやめなさいっっ!、でもまあそれならしょうがないな、俺らでやるからどっかで待機してていいぞ」
「……うんごめんねゆーき。さくら役立たずで」
「そんな事ない、そもそもこうして一葉が俺達をフォローできるようになったのはさくらのおかげだものな。ありがとう」
「そうよ? さくらちゃん。ありがとね♪」
「!!ゆーき。涼香……」
そうして一葉が見つけてレーザーポインターで的確に指示してくれるおかげで、下から見つけられる範囲の害虫を次々と捕殺することができた。
「すごい順調だな……そうか、人間と違って画像解析で複数同時認識ができるから、こんなに素早く見つけられるんだな」
理由が判り納得する。
「そうね。二秒くらいの動画なら、超画像検索(ハイパーイメージサーチ)かけ終わるまで0.二三秒ね」
さすがにこの数字は人間を落ち込ませるのに十分だった。
「……なんだよその異様なスピードの反則技(チートスキル)。今まで何時間もかけて捕まえてた人間の立場ねえよ」
だが涼香にはそんなプライドは無いようで、素直に感心する。
「すっご~い一葉!、頼もしいー」
一葉が腕を組んで高らかに宣言する。
「そうよ。だから涼香はアタシをしっかりアテにしなさい!」
「はい!!」
(……涼香(マスター)の方が命令されてる)
~′ ~′ ~″~′ ~″
結局、例年の倍以上の一〇〇匹以上を、三分の一の時間で集める事が出来た。
その場で捕殺(プチッと)できない涼香に代わって、集めた虫をプチり終え、枝先の消毒作業に取り掛かる。
「ええと? “石灰硫黄合材八〇倍希釈にて、展着剤を少量添加……スプレーにて塗布(とふ)すべし”。……か。じゃあ俺が脚立に乗って吹くから、涼香は下から終わったスプレーの中身を補充してくれ」
お父のメモ書き説明を読み返して涼香に指示する。
「うん」
そうして二人で庭を転々と脚立で移動しつつ、高所の枝に散布していく。
「しっかしこれクサイな、涼香、風下に立つな? 匂いがつくぞ」
「ふふ、じゃああとで二人ともシャワー浴びよ? 一葉、さくらちゃんに給湯器のスイッチ入れとくように伝えてくれる?」
「わかったわ」
作業が終わりに近づき、最後に少し平坦とは言い難い場所に脚立を立て、カタカタしながらも、二本ほどの枝先にスプレーする。
「あ……液が無くなった。頼む、中身補充してくれ」
涼香に声をかける。
「うん。………………ハイ」
「おう、ありが――うわっ!」
スプレーを受け取った瞬間、ガタついた脚立に驚き、スプレーを持ったまま、手近な太枝に両手を伸ばす。
だが、右手は枝を掴めたが、左手はスプレーを持ったまま枝にぶつけてしまう。
バキッ!!
スプレーが首の所で割れ、折れた容器が中身をぶちまけながら落下する。
「きゃっっ!!」
直下に居た涼香に、頭からもろに薬品が降りかかってしまう。
「涼香っっ!!」
「涼香!、目に入るから開けちゃダメ!、裕貴は涼香にかかった薬品をすぐ洗い流して! 大丈夫、強アルカリ性だけど、触れたぐらいじゃ死なないから」
傍に居て見ていた一葉がすかさず指示を出す。
「判った。待ってろ涼香!」
「うっ、……うん」
目を閉じたままの涼香を一旦残し、玄関のドアを開け放して戻る。
そして、涼香を抱き上げてそのまま浴室へ駆け込み、服を着たままの涼香の頭からシャワーをかける。
「きゃっ! 冷たい!」
「悪い、まだ温かいのが出ない、じきに暖かくなるからそのまま目をつぶっていろ、そしたら服を脱がしてやるからそのまま両手を上げろ」
「うん」
「ダメ! 湯温を上げて血行を良くするのは肌からの吸収を促進するから、洗い終わるまでなるべく水温を下げて」
脱衣所で待機している一葉が、心配そうにしているさくらと並んで指示を出す。
「わかった」
一葉の指示通り、温度を体温より低めの三十三度に設定する。
流しながら、濡れて張り付いた長袖ブラウスを脱がせ、ブラをはずす。
その時、上げさせた両腕の内側とひじに、かすかに残る傷痕を見つけてズキリと心が痛む。
(……目立たなくはなったけどやっぱり残っているな)
そのままシャワーを浴びせながら、次に壁に手をつかせて、靴下、パンツ、スカートを脱がせていく。
「そしたら髪に残った薬品を弱酸性か、中性のボディーソープで中和しながら洗い流して。リンス入りは成分が中和を妨げるから使わないで」
「わかった」
洗剤の成分を確認し、シャワーを止めて洗剤を髪に振りかけ、涼香の髪をワシワシと洗う。
頭を洗い終わってシャワーで流し、クンクンと匂いを嗅いでみる。
「大丈夫かな? ゆっくり目を開けてみて」
「うん。…………………………………………ん、大丈夫みたい」
「よかった。……じゃあ目の周りとかもう少し丁寧に洗うから目をつぶれ」
「うん」
スポンジに洗剤をつけ、呼吸を乱させないよう、スポンジの角を使って鼻や口に気をつけながら慎重に顔を洗う。
こんな事態だというのに、口元に笑みを浮かべながら洗われている涼香に、少し安堵を覚える。
「よし、じゃあ次は体の方な」
固く絞ったタオルで顔をぬぐいながら声をかける。
「は~~い♪」
涼香は嬉しそうに返事を返すが、俺の方はこんなことになった罪悪感でいっぱいで、まったく余裕がなかった。
そうして左手で涼香の肩をつかんで支えながら体をくまなく洗う。
「んひゃ」
時々涼香の敏感な部分に触れるたび、涼香が喘ぐ。
「……コラ、じっとしてろ」
「だって~~……くすぐったいんだもん♪」
やんわりと抗議しつつも、涼香は俺にされるがまま体を委ねる。
「悪かった、でもすぐに済むからなるべくじっとしていてくれ」
「……ふふ、こうして洗ってもらうの久しぶりね」
そう言われた瞬間、自分の顔が強張るのが判った。
「あっ……ああ、そうだな…………久しぶりだ」
洗い終わってシャワーを止め、あちこち硫黄臭が残っていないか匂いを嗅いだり、肌に異常がないかを確認する。
「……ん、大丈夫そうだな、どっか肌に違和感は感じないか?」
涼香にそう聞いたら俺に抱き付いてきた。
「わたしは肌が強い方だから全然大丈夫……それより裕ちゃんの方こそ、服を着たままだし靴も履きっぱなしで、ずぶ濡れじゃない」
そう言われて初めて気付く。
(靴すら脱がなかったなんて、……どんだけ動揺してたんだ?)
「……ほら、もういいみたいならリンスですすいでやる」
かまわずそう言うと、涼香が断ってきた。
「ううん、いいよ。それは自分でできるから裕ちゃんが着替えてくれば?」
「そうか。なら、着替えて表を片してくるから、終わったら部屋に行ってろ」
「うん」
そして脱衣所で全部脱いでタオルを巻いて部屋に戻り、新しく着替えて表を片付けて部屋に戻ると、涼香はまだ風呂から戻っていなかった。
耳をすますとドライヤーの音が聞こえる。
(………………………はあ、)
ため息をついてベッドに腰掛けると、まだわずかに手が震えていた。
テーブルに乗っているさくらと一葉は、何かを察しているのか、さっきから二体とも押し黙っている。
「やっほー……」
声をかけられて振り返ると、タオルを体に巻いた涼香が入ってきた。
「あ、悪い。着替えを持って行ってやればよかったな」
「いいよう、今は誰もいないし、居ても平気だし」
「……そうか」
涼香はそう言うと、押入れを開け、四段の小さいタンスを開く。
そのタンスにはファンシーな動物たちが描かれ、平仮名で“おもいがわ すずか”と書かれたシールが張られていた。
涼香はその中から一枚のパンツを取り出し声を上げる。
「うわあ♪、見て、懐かしい~~。こんなパンツまだ取ってあったのね♪」
それは小学生のころに流行った、子供向け番組の魔法少女キャラがプリントされたパンツだった。
「ふふふ、おばさんて結構可愛いものが好きだったのね」
そうしてはしゃぎながら、タンスの中の可愛い下着を見比べている涼香に近づき、後ろから被るように抱きしめる。
はたと手を止めた涼香が、俺の手に自分の手を重ねてくる。
それを合図に、バスタオルを落とし、背後から涼香のささやかな自慢(バスト)を手で覆う。
“ねえねえ裕ちゃん、わたし最近チューブトップが着られるようになったのよ!”
“ほほう、やっと地殻変動が起きて陸ができたと言う訳か。良かったな”
“も~~う!、な~んか引っかかる言い方!”
“箸でも棒でもなくなったんだ。いいじゃないか。ははは”
“うう~~~~~~~っっ!(ポカポカ)”
そんな事を笑いながら話した事を思い出したら、急に胸の奥が熱くなってきた。
そうして涼香を振り向かせ、少し女性らしくなったその肢体を見つめる。
「「…………」」
しばらく見つめた後、ついと頬に右手を添えて顔を近づけると、触れる寸前に涼香が口を開いた。
「……ねえ裕ちゃん?」
「うん?」
「裕ちゃんなら何をしてもいいわ。わたしが欲しいならあげる。何でもしてあげる。でもね?……………………」
「でも?」
言葉を切り、黙ったので聞き返す。
「心だけはあげられないの…………だって……」
「!!」
それだけ言うと涼香の双眸から涙があふれてきた。
「……っう……パ、パパが………し死んだ時…………の、の約、く……束を覚えててる?」
「ああ、覚えてる……そうだったな」
「そっ…………う…………よ……ひっく」
しばらくこらえる様にむせび泣き、しゃくりをあげるのが収まった頃、人差し指で俺の唇に触れながら涼香が唐突に言う。
「“俺がお前の兄ちゃんになる!。そうしてずっと守ってやる!”って……」
「ああ、確かに言った。でも“兄ちゃん”ってのがイタイな」
もうすこし自分が大人だったのなら、守りたい女の子に言うセリフは“兄”ではなかったと思う。だが、それが当時小学生だった自分には精いっぱいの感情表現だったのだ。
涼香が俺の胸に顔をうずめ、シャツを握りしめる。
「ふっ……くっ…………うええ~~ん。……パパを返してよう…………そしたら……そし…………たら…………うう~~~~」
そう訴え、せきを切った様に再び泣き始める涼香を、ただ抱きしめてやる事しかできなかった。
(……………悪い姫香……やっぱり俺では無理みたいだ)
~′ ~′ ~″~′ ~″
それからベッドに寝かせ、小一時間ほど腕枕をしながら、親を呼ぶ子猫の様に泣き続ける涼香を抱きしめた。
そうして涼香が泣き疲れてウトウトし始めたころ、思わぬことを聞いてきた。
「…………ねえ、どうして裕ちゃんはフローラに初めて会った時に声をかけたの?」
まどろんでいて、ゆっくりとではあるけどスラスラと喋る。だが、声のトーンは低かった。
「何でそんな事を聞く?」
「……だって裕ちゃんは、普通に困っているだけの女の子を、先輩二人を相手にしてまで助けたりしないでしょ?」
「まあな、つか正義の味方じゃないし、目についた女の子を片っ端から助けてたら身が持たない」
「……でしょ? だから、どうしてかなあ……って思ったの」
そう言われて初めて、フローラに声をかけた理由を考えてみる。
「そう言えばそうだな。あの時フローラは泣いてたわけじゃないなあ……う~~ん」
「……じゃあどんな顔してたの?、怒ってた? 困ってた?」
当時を思い起こさせる様に涼香が誘導する。
「いや、……なんていうか“虚ろ”だったような印象だったな、ってか外人独特の表情で日本人とは違うニュアンスだったのかもしれないけどな」
「……それだけで声をかけたの?」
「ああ、何だかその顔を見た瞬間、心がザワついたんだ」
「………………ふふ、やっぱり」
「やっぱり? 何が?」
「なん……でも…………ないわ……よう……」
そう言うと、涼香は瞳を閉じて眠りに落ちる。
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