第41話
歌が聞こえていた、塔をゆっくり上昇していくエレベーターの中で、ゼロシキは耳を傾ける。クロガネの妹、ハルミの母親が好きだった歌だ。最初の《機械》にハルミの魂を移植したとき、どういうわけかそこに記憶も入り込んでしまったのだという。ハルミの虚無の根源でありながら、同時にそれを浄化する力を持った歌。それは、死神を生み出しつつも、同時にその力を制御する機能を果たしていた。ハルミという人間の魂は、まだ生きているのだろうか? だとすれば、いったい今、何を思うのだろうか? ゼロシキはそんなことを考えながら、鏡張りのエレベーターに映る自分の虚像を見つめている。
エレベーターが開くと、そこには東京ヘブンズゲイトの廃墟が広がっていた。空中に浮かぶかつての楽園は、海中に沈んだ古代遺跡と全く同じように、そこに住んでいた人々の思い出を漂白して、寂しげな衣の中に包んでいる。個性豊かなデザインの大邸宅が建ち並んでいるのに全く人の気配もにおいもないそこは、自閉症の建築家が作った箱庭のようだった。
虹色にきらめく壁の間を進み、ゼロシキは東京ヘブンズゲイトの中心に位置する邸宅へと入っていく。ここで、かつてクロガネとユキが生活していたのだ。豪華な門をくぐると、緑豊かな庭園がひらける。管理されていないので植物が無造作に繁殖しているが、それでもかつての見事なデザインの面影をとどめていた。邸宅の内部へと足を踏み入れる、そこはかつての住人が住んでいたときのまま放置され、今までゼロシキが経験したことのないほどの、窒息しそうなくらい完璧な静寂がはりつめている。二階へ上がる階段の下に、大人の男女のものと思われる白骨死体が二つ、転がっていた。おそらく、それはクロガネの両親のものだろう、とゼロシキは思う。二つとも体の部分だけで、頭蓋骨は、どこにも見当たらなくなっていた。
そしてゼロシキは二階にある一室にたどり着き、そのドアを開け放す。静寂をきしませながら、ドアがゆっくり動いていった。そこは、かつてのクロガネの部屋だった。クロガネが生活していたときのままで、部屋に据えられた机の上には、若いクロガネとユキが並んでいる写真が置かれていた。デジタル機器で満たされた部屋の中、その写真だけは古いアナログな方法でプリントされており、それだけにいっそう、そこにある二人の思いが閉じこめられたままになっているようだった。ゼロシキは、その部屋の中心に置かれた装置の前で足を止める。絡まり合う二重らせんの《機械》が、床から天井まで伸びており、その中心には、宝石のような小さな赤い玉が浮かんでいる。二本のらせんは、それぞれイザナギ、イザナミと呼ばれる装置で、赤い玉は、ハルミの魂を閉じ込めたものだった。イザナギが死神の体を作り出し、そしてイザナミが抽出した虚無を植え付けることで、無数の死神を量産していたのだという。ハルミの魂に閉じ込められた深大な虚無は、イザナギとイザナミを駆動させるエンジンだった。日本の中心に位置する東京ヘブンズゲイトの中心にある邸宅の、さらにその中心にあるこの部屋で、この怪物的な虚無は、ひっそり、今までずっと、駆動し続けてきたのだ。そして、その核に閉じ込められたハルミの魂は、涙を流すかのように、悲しい思い出に封じ込められた歌を、母親の声を、思い出し続けてきたのだ。
ゼロシキは新しい《機械》をかざす。白く輝く《機械》は澄みきった鈴のような音を発し、そして一本の矛へと姿を変えていく。今、そこで、最初の《機械》と最後の《機械》が対峙していた。あるいは、ハルミとゼロシキが対峙していた。自分とは全く対照的な運命の中で生き、そして虚無に飲まれて死んでいったハルミ、だが、ハルミは、最後まで全力でそれに抵抗し続けたのだ。赤い玉がきらめく、そこで、会ったこともないハルミがほほ笑んでいるような気がした。ゼロシキは、ハルミが託してくれた白い《機械》から生まれた矛を構える。なぜかは分からない、でも、ゼロシキには、ふと、ハルミがずっと幼い頃からの友達だったように思えた。部屋の中を、不思議な、柔らかく暖かい空気が満たす。そして、誰かの手が、矛を握りしめるゼロシキの手に添えられたような感触があった。きっと、それはハルミの手だった。だからゼロシキは、そのハルミにほほ笑み返す。
――ありがとう。
ゼロシキとハルミは、同時に、全く違う意味で、互いにその言葉をかけあった。そして、ゼロシキはハルミの魂の封じられた赤い玉に、白い矛を突き立てる。音もなく、赤い玉は粉々に砕け散り、こぼれる砂のように床へと落ちて、そのまま消えていく。イザナギとイザナミにもひびが入り、そして同じように粉々に砕け散り、消えていく。
部屋には、また静寂だけが残った。死神と虚無が消えた世界は、まるで以前と全く同じように、何もない。戦いが終わってしまった今、いったい何をすればいいのかゼロシキには見当もつかない。それでも、ゼロシキは歩き始めた、部屋を出て、邸宅を出て、東京ヘブンズゲイトを進んでいく。どこまでいっても、まるで何もない荒野のようだった。ただ、ゼロシキには、世界がそれまでとは違うように見えていた。何もない、だが、それゆえに、何もかもが可能だった。何も無いところに、ゼロシキはこれから何かを作り上げるのだ。孤独の中から始めよう、だけどそこにはタチバナがいるだろう、そして、たぶん、もっともっと多くの人々が、そこにはいるだろう。何もかも、分からないまま、何かをはじめなければならない、でも、ゼロシキはこれからそれを築きあげようと決意していた、この世界に、ひとつの場所を。
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