第40話

 そして、ゼロシキは目を覚ます。


 ひどく体が重くて、ずっと寝ていたせいでこわばった筋肉が上手く動かせない。喉が渇いて、眼の奥をかすかな痛みが光の瞬きのように刺激した。どうにかして体を起こしたゼロシキは、そこでやっと、誰かが自分の手を握っていることに気づいた。顔を上げると、無言のまま、目に涙をためてこちらを見つめているタチバナがそこにいる。状況が飲み込めず、自分がなぜここで寝ているのかも分からない。ゼロシキは突然、ほおに違和感を覚える、知らず知らずのうちに、タチバナだけではなく自分も涙を流していることに気づいた。寝ている間によみがえった悲惨な記憶はあまりに鮮明で、鋭い痛みとなって、胸の奥をめちゃくちゃに切り裂いてしまう。ゼロシキは混乱したまま、わけもわからず、声も出さず、ただ、タチバナの顔を見つめたまま、止まらない涙を流していた。タチバナは、その涙のわけを聞こうとはしない、ただ、同じように涙を流して、そしてゼロシキを抱きしめる。


 「……タチバナ?」


 ゼロシキが聞いても、タチバナは無言のままじっとしていた。


 「急にごめんね」


 しばらくすると、タチバナはそう言って、ゼロシキを抱きしめていた腕をほどく。だが、ゼロシキは思わず、タチバナの背中に腕をまわし、その体が離れないように、そっと抱きしめ返した。


 「……ごめん、もう少しだけ、こうしておいてくれ」


 ゼロシキは、まだ泣いていた、理由のない涙をどうしても止めることができない。そのゼロシキを、タチバナはもう一度抱きしめる。そうしていると、ゼロシキは自分の痛みがゆっくりと和らいでいくが分かった。決して消えることはない、それでも、少しずつ、タチバナのおかげで、その痛みは遠のいていく。とても心地良かった、ゼロシキは、その感覚が何なのか、全く分からない、それは、ゼロシキが今まで一度も感じたことのないものだった。


 ――おかえり。


 耳元で、タチバナがささやくようにそう言った。一瞬、ゼロシキにはその言葉の意味が理解できない。よく知っている言葉のはずなのに、戸惑いすら覚えるほど、自分にとってその言葉は不自然な響きをしていた。でも、だんだんと、暖かいものが染み込んでくるように、その言葉は耳に馴染んでくる。


 「初めてだ」


 そして急に、ゼロシキは呟いた。


 「ん?」


 タチバナが聞き返す。


 「初めてなんだ、その言葉を言われたのが」


 ゼロシキは、その言葉の響きを反芻しようとするかのように目を閉じた。


 ――おかえり。


 タチバナが、もう一度ささやく。そして二人は、その言葉の意味を確認するかのように、もう少しだけ強く、互いを抱きしめる。部屋はどこまでも静かで、まるで時間が止まってしまったかのようだった。もうそれ以上、二人は何かを言おうとはしない。


 いつのまにか、ゼロシキの涙は止まっていた。

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