第39話

 俺は、震える右手を見つめていた。手の甲の皮膚が裂け、流れた血が乾いている。指の先にも血が付いているが、これは俺の血じゃない。初めて人を殴った俺は、恐怖と興奮で体を震わせていた、橋の下でコンクリートの壁を背にして座り込み、呆然としていたのだ。まだ、肩で息をしていた。俺に殴られて、鼻と口から血を流して泣きながら転がっているあいつらを見て、怖くなってしまい、脇目もふらずに走って逃げて来たからだ。覚めやらぬ興奮の中で、徐々に手の感覚が戻ってきて、鋭い痛みが滲み出てくる。俺はうずくまり、痛む右手を左手でかばうように包み込んだ。俺は、ずっと震えていた。体の中から外から俺を突き刺す痛みはとてもひどかったけど、涙を流さないようにじっと耐えていた。俺は孤独で、誰も、助けてくれる人はいない。


 ――だから、俺は強くなりたかった。


 俺は強くならなきゃいけなかった。そうじゃないと、俺は自分を守れないから。俺の味方はいなかった、誰もが俺を嫌い、軽蔑していた。学校の教師や近所にいる大人たちも、子供たちも、どこかにいるはずの父親も、一緒に住んでいる母親も、みんな。俺の周りには、俺を傷つけようとする人間しかいなかった。誰もが、俺の敵だった。


 「おい、捨て犬」


 俺はみんなからそう呼ばれていた。ありったけの侮蔑のこもった声と視線が、いつも俺に向けられていた。だから俺はそう呼ばれるたび、怒りをあらわにしてケンカするのだ。取っ組み合い、つかみ合い、罵り合い。そして、十歳になったある日、俺はとうとう初めて相手を殴ってしまった。みんなの俺に対する嫌悪は、日に日に強くなっていた。子供たちも十歳くらいになると、徐々に、俺が捨て犬と呼ばれる本当の理由に気づき始めるからだ。


 本当の理由とは、母親のことだ。俺の母親は、売春婦だった。それも、風俗店に務めるようなやつじゃない、まともに店に勤められるような人間ではないのだ、だらしなくて、無気力で、冷笑的で、自分勝手な人間なのだ。もちろん初めは風俗店に務めていたらしいが、結局トラブル続きで辞めてしまい、とうとう自分で客を取って生活費を稼ぐようになった。そして、その客の中の一人が、俺の父親だった。あるいは、その客の全員が、俺の父親だった。見境なくヤリまくっていた母親には、当然誰が父親なのかは分からない。だから、つまり、俺はたくさんの男達の精液の海の中から、この世に放り捨てられるように産み落とされたのだ。母親はまるで、野良犬みたいに、どこで妊娠したのか分からない大きな腹を抱えてうろつき、いつのまにか子供を産み捨ててしまった。だから、俺は捨て犬みたいなものだったのだ。


 だからといって、母親は文字通り俺を路上に捨てたわけじゃない。まるで捨て犬でも飼うように、家に置いたまま、俺に食べ物を与え、あとは放置していた。どういうつもりだったのかは分からない。母親は別に俺を愛していたわけじゃないのだ。いつも俺をいまいましそうに見下し、邪魔だ邪魔だ出て行け、と言っていた。寂しい女がペットを飼うようなものだったのかもしれない、あるいは、俺を捨てて面倒なことになるのが嫌で、捨てるに捨てられずにいたのかもしれない。母親は本当に俺が犬だとでもいうように扱った、毎晩、食べ物を与えて俺を追い払い、そして客を家に招き入れ、あとは男達の体重に押しつぶされながら豚みたいにあえぐ。俺にとってそれは日常の光景で、だから、俺はふとんに横になって、母親のあえぎ声と射精する男達のうめき声を聞きながら、眠りについていた。


 周りの子供達がそういうことの意味を理解し始めると、俺はいっそうの憎悪のこもった言葉をあびせられ、ときには石を投げつけられたり、殴りかかられたりすることすらあった。それでも俺は、決して負けたくはなかった。だから、そんなことをされるたび、牙をむき出しにするように、そいつらに反撃していった。俺は、必死だった、必死で強くなろうとしていた。毎日毎日、どうすれば強くなれるのか、どうすればあいつらに負けずにいられるのかを考えていた。ケンカの時にどうやって戦えば勝つことができるのか、それだけが、十歳の俺の考えていることの全てだった。俺はケンカに勝つ術を、その思索と実践の中で学び続けていったのだ。そして、俺は実際にどんどん強くなっていった。どんなやつが来ても、たとえ数人がかりで襲ってきたとしても、俺は決して負けなかった。


 でも、俺がいくら強くなってもそれは解決しなかった。俺が強くなるほど、周囲は俺をますます嫌悪していった。弱い人間は、強い人間を恐れ、そして嫉妬し、排除するからだ。社会の軽蔑を受ける母親の子供だというだけでなく、俺は自分自身の強さのせいで、なおさら周囲から憎まれるようになったのだ。だから弱い連中は、俺を屈服させようとした、いつも集団で俺に襲いかかり、俺が無様に地面に転がる姿を見ようとしていた。だから俺は、もっと強くなった。歯を食いしばって、体を鍛え、戦術を考え、そして実戦の中で、どこまでも自分を強化していった。誰がどんな手段を使おうとも、俺は負けたくはなかった。弱い人間たちが、俺に屈辱を与えようとする姿を、俺は憎んだ。たぶん、連中が俺の強さを憎む以上に、俺は連中の弱さを憎んでいた。俺の強さに対する執念は、日に日にエスカレートしていくばかりだった。それは、ほとんど強迫観念にすらなっていたのだ。俺は、どこまでも強くなるつもりだった。もはや、連中が戦うことをあきらめてしまうくらいに。そのくらい強くなれば、もう、俺は戦わなくてすむようになるはずだから。 


 たまに、俺は日が暮れてしまうまでケンカをすることもあった、そんなときはいつも、帰り道に浮かび上がる東京ヘブンズゲイトの影を見ていた。あそこには、俺がいるこの場所とは全くの別世界があって、ここにいるちっぽけで貧しい人間のことなど意にも介さない、幸せな人たちが住んでいるんだと思っていた。その東京ヘブンズゲイトの上には、月が見えていた、明るく、直線的で、まるで刃物のようにきらめく月に、俺はいつも見入っていた。


 「なんだい、また汚れた顔して」


 だんだんケンカで傷を残して帰ってくることが多くなった俺を見て、母親はそんなことをよく言っていた。母親もまた、俺を疎ましく思う気持ちが強くなっていったみたいだった。母親はいら立っていた、面倒なもめ事を起こしてばかりの俺に、そして、だんだん老いて売春婦としての価値を失っていく自分に。


 「稼ぎが減ってんだよ。お前にもさっさと出ていってもらわないとね」


 母親のその言葉は、最初は冗談交じりに言っていたような感じだったけど、だんだんその言葉には実感がこもるようになってきていた。成長した俺はもはやペットのようではなかったし、捨てるより一緒にいるほうがやっかいな存在になりつつあったのだ。俺も母親の世話になりたくはなかったから、できるだけ早く出ていきたいと思っていた。でも、まだ子供だったし、経済崩壊した日本で、野良犬のような俺が金を稼ぐのは不可能に近い話だった。だから俺はどうしていいか分からず、結局ケンカに明け暮れて、だんだん質素になる食べ物をむさぼるしかなかった。そんな俺を見て、母親はますますいら立ち、俺を邪魔者扱いする言葉を投げつけてきた。そんなとき、俺は腹を立てて、いつも母親をにらみつける。


 「なんだよ、その目は。嫌だねえ、だんだん男の顔をするようになりやがって。そうだ、お前も大人になってきたし、女とヤリたいだろ。金持ってこいよ、母ちゃんがヤラしてやるから」


 母親は、ありったけの侮蔑をこめて、笑いながらそんなことを言う。俺は頭に来て、母親を殴りつけてやろうかと思っていた。でも、俺は結局それをせずに、やつ当たりでゴミ箱を蹴り飛ばし、外へと出て行ってしまう。


 状況はどんどん悪くなっていった。母親の取る客の質はどんどん下がっていき、終いにはほとんどチンピラみたいな連中ばかりになった。俺を見て露骨に嫌な顔をして、母親に何かを怒鳴ることすらあった。そして、俺にケンカを売ってくるやつらも、いよいよ手段を選ばなくなり始めていた。ある日、俺が帰り道を歩いていたとき、待ち伏せていた連中がいきなり棒切れで殴りかかってきた。片腕をやられて、骨をペンチでねじられるようなひどい痛みに耐えながら、俺は必死で応戦した。頭も殴られて意識がもうろうとしながらも、連中から棒切れを奪い取り、逆にそれでボコボコにしてやった。俺は頭から流れる自分の血で顔をまっ赤にしながら、連中の血がついた棒切れを握りしめ、地面に転がってうめいたり泣いたりしている連中を見ていた。俺は、自分がどこまでもおぞましい存在になっていくのを感じていた、それでも、俺は戦い続けるしかなかったんだ。それ以外に、俺が俺自身を救う方法はなかったから。


 それからというもの、俺は常に棒切れを持ち歩くことになった。いつ、殴りかかられても応戦できるように。正直、俺は恐くなっていたんだ。最後には、俺はナイフで刺されるだろう。俺はそう直感していた。だから、棒切れだけじゃなくて、懐にナイフを隠し持つようになった。俺は殺されるかもしれない、でも、せめて、俺を殺したヤツを道連れにできるように、いつでもこのナイフで刺し殺せるように。


 ときどき血まみれで帰ってくるようになった俺を見て、母親はいよいよはっきりと、もう出て行け、と言うようになった。そして、俺もそのつもりだった、まともな親子のつながりなんてものはもともとなかったし、単なる気まぐれでエサを与えられていたようなものだ。生まれた時から捨て犬だった俺にとっては、また同じように外へ放り出されるだけのことでしかない。エスカレートするケンカも歯止めが効かなくなっていた、たぶん、俺はもうすぐ誰かを殺してしまうだろう、そして、たぶん、それは俺が殺されそうになるよりも早く、そうなってしまうだろう。だから、俺はここにはいられなかった、どこか、遠くの町へ行って、そこで捨て犬のように暮らすのだ。物乞いと、盗みと、詐欺と、暴力と。そうやって、俺はこれから生きていかなきゃいけない――。


 そして、それは俺がそう決意した日の夜だった。家での最後の夜、眠りにつこうとしていた俺の耳に、さっきまで豚みたいにあえいでいた母親の、怒鳴り声が聞こえてきたのだ。そして、今度は男の怒鳴り声が続く。男は、どうやら俺が家にいることが気に食わないらしかった。二人だけで楽しみたいのにあのガキはなんだ、金を払ってるんだから何とかして追い出せ、とかそんな感じのことを、しわがれた低い声で怒鳴っていた。そして突然、何か物音がしたかと思うと、母親が俺の寝ている部屋に入ってきて、いきなり俺の頭にゴミ箱を投げつけてきた。完全に油断していた俺はまともにそれをくらってしまい、頭を押さえてうずくまる。


 「お前のせいで客が機嫌そこねたじゃねえか! 出て行けって言っただろ、何でまだそこでずうずうしく寝てんだよ!」


 切れた額から血を流す俺を見下しながら、母親は罵声を浴びせ続けていた。それだけじゃない、投げつけたゴミ箱をまた拾い上げると、それでうずくまる俺を何度も殴りつけて、出て行け! 出て行け! と叫んでいた。苦痛に耐えかねた俺は、母親にやめてくれと懇願し、そしていますぐ出て行くと約束するしかなかった。母親は満足そうに俺をあざ笑い、ゴミ箱を投げ捨てる。そしてひと言だけ、こう吐き捨てたのだ。


 「お前さえ生まれてこなければ!」


 母親は部屋を出て行き、再び客にサービスを始めた。豚みたいなあえぎ声と、ヘドロのような快感にうめく男の声。徐々に痛みから回復した俺は、どうすることもできない怒りに震えていた。


 ――何もかも、消えてしまえ。お前ら全員、死んでしまえ。俺を軽蔑し続けた大人たちも、俺を恐れ憎んだ子供達も、俺を産みやがった母親も、母親の子宮を精液で満たしてきた父親達も、全員、死んでしまえ。


 憎悪に焼かれながら、俺は頭から流れる血に濡れていた手で、ナイフを握りしめる。さらに、ぬるぬるする手からそれが滑らないように、ガムテープでぐるぐる巻きにして固定してしまった。俺はまるで、手の先が武器になってしまったサイボーグのようだった。そして、物音も立てずに、薄い布団の上で転げまわっている二匹の豚がいる部屋に忍び込んだ。暗がりの中で、二つの肉の塊が、ほんのわずかにこぼれてくる月の光で浮かび上がり、うごめいていた。それは性行為というよりも、分裂しようとするアメーバのようだった。肉が、闇の中へ溶け出している。俺は母親に覆いかぶさっている男の背後に、影のようにぬうっと立ちはだかった。一瞬、夢中で行為にふける男の下であえいでいる母親と目が合った。驚愕して見開かれた母親の目、俺はそこに、つばを吐きかける、と同時に、男の首筋に向かって、ほとんど殴りつけるようにナイフを突き刺した。男の悲鳴と同時に、血が噴き出して、母親のだらしない肉のついた胸と腹の上に降り注いだ。俺はそのまま、男が崩れ落ちるまで何度も何度も首と背中を刺し続ける。絶命していく男の下で、母親は声もあげられないくらいほどの恐怖に取りつかれ、半開きにした口から舌を突き出し、体を震わせ、失禁したまま横たわっていた。俺は、何のためらいも感じなかった、すでに動かなくなった男を突き飛ばすと、そのままナイフを母親の下腹部に突き立てたのだ。まるで子宮をえぐりだそうとするかのように、俺は何度も、執拗に母親の下腹部をえぐり続けた。俺はここから生まれたのだ、だから、俺はこれを消滅させてしまわなければならない。


 とっくに二人が死んでいたことにようやく気づいた俺は、ぼうぜんとしたまま家の外へ出た。全身が血にまみれ、手の先ではガムテープでぐるぐる巻きにして固定したままのナイフが光っていた。夜空は暗く、不気味にも星は一つも出ていなかった。ぼっかりと、広大な闇が、ただ茫々としている。だが、どういうわけか、月だけは東京ヘブンズゲイトの上にかかっていた。直線的で、まるで刃物のようにきらめく、そんな月だった。


 俺は叫んだ。混乱して、耐えられなくなり、わけもわからず、幼い子供のように、気が狂ったかのように、意味もなく、叫び続けた。その叫びに応えるものは、何もなかった。俺は、この広い世界の中で、たった一人だった。


 ――俺は、ずっと強くなりたかった。


 でも、俺が強くなりたかったのは、誰かを傷つけるためじゃない。そうじゃなくて、俺はただただ、純粋に、強くなりたかった。誰にも傷つけられずにすむように、そして、誰も傷つけずにすむように。でも、それは全て無駄だった、俺が強くなるほど、俺は取り返しのつかないほどひどい傷を負い、そして他人に取り返しのつかないほどひどい傷を負わせてしまった。俺にはもう、何がなんだか分からなくなっていた。それでも、俺は強くなるしかなかった。それでも、俺はどこまでも強くならなきゃいけなかった。


 ――でも、いったい何のために?

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