第35話

 ――お母さん?


 幼いキドは、部屋の隅にうずくまっている母親を見つめていた。落ち窪んだ目の周りは墨を塗りたくったようにくすんで、視線は床の一点に釘付けになっている。かすかに首をゆらしながら、口に泡をためて、聞いたこともない奇妙な言葉をぶつぶつと呟いていた。


 ――お母さん?


 もう一度、幼いキドは呼びかける。だが、母親は何も答えない、幼いキドの顔すら、見てはくれない。


 ――こっちへ来なさい。


 父親が、幼いキドの手をつかみ、引き寄せた。痩せぎすで神経質そうな顔をした幼いキドは、それに何も抵抗せず体をふらつかせ、しかし視線はまだ、母親のほうへと向いたままだった。


 ――お母さん、どうしたの?


 幼いキドは父親を見上げてたずねる。分厚いレンズの眼鏡に光が反射しているせいで、どんな表情をしているのかは分からない、ただ、父親はいまいましそうにため息をついていた。


 ――お母さんは、いっしょに行かないの?


 父親に連れられて部屋を出ていくとき、幼いキドはそう質問した。父親は、もう一度ため息をつく。


 ――お母さんは、ここでしばらく休むんだ。


 ――どうして?


 ――お母さんは、もうお前の知ってるお母さんじゃない。


 幼いキドは、その意味が分からず首をかしげる。


 ――お母さんは、お母さんだよ。そうでしょ?


 父親は首を横に振る。


 ――お母さんは、カラッポになってしまったんだ。だから、もうお母さんじゃない。


 ――カラッポ?


 ――そう、カラッポなんだ。


 ――カラッポって何?


 父親は何も答えない。幼いキドはほとんど引きずられるように、部屋の外へ出て床を歩かされていた。


 ――カラッポって、何?


 幼いキドは、ひとり言のようにその質問を繰り返す。だが、その質問に答えてくれる人間など、誰もいない。

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