第36話
「ハルミに、何をした?」
そう言ったクロガネの唇は、怒りで震えていた。部屋の中で異様な緊張感が漂い、タチバナは圧迫感で息がつまりそうになる。キドは小さく、しかし長く、息を吸い、そして吐いてから、黒い舌をちろちろと出して青紫の唇をなめていた。
「答えろ!」
クロガネの怒号が飛び、さらに力を込めてキドの腕をねじり上げた。キドは顔をしかめたが、それでもまだ爬虫類のような目をして、じっと宙を見つめたままでいる。その沈黙をゆっくりとほどくように、ナルセが咳払いをして、しゃべり始める。
「キド、君は、まだハルミ君が幼かったころ、ときどき話しかけたりしていたね。僕があやしいと思っていたのは、君が奇妙なあめ玉をハルミ君に与えていたことさ。子供にお菓子をあげるような男ではないのに、君はいつも、ハルミ君に会うたびにそのあめ玉を与えていた。まるで小さな水晶玉のように透き通って、精密機械で削り出したかのようにきれいな球体で、そして光に当てるとまるでオパールみたいにきらきらと光っていた。キド、あれはいったい、何だったんだ?」
キドはじっとして、再び黒い舌で青紫の唇をなめていた。クロガネは力を込めた手をゆるめることなく、キドの動きを封じ、そしてナルセの話を、何か小刀ではらわたを徐々にえぐられる痛みに耐えているかのような表情で聞いている。
「……答えないのなら、話を続けよう。キド、君はあのあめ玉の中に、なんらかの薬剤を混ぜ込んでいたんだろ? そして、ハルミ君にそのあめ玉を何度も食べさせることで、徐々にハルミ君の精神を蝕んでいった。もちろん、君はハルミ君を憎んでいたわけじゃなく、単純に君の、科学者としての欲望によって、ハルミ君を君の研究する新薬の実験台にしてしまった」
ナルセはそこで口を閉じる、あとは、キドの答えを待つだけだった。
「何とか言ったらどうなの? 私のお兄ちゃんについても、他の子供達についても、今私が手に入れたデータを見れば、全て分かってしまう話でしょ?」
まだ残っている腕のしびれに苦しみながらも、タチバナがキドに対してデータ保存ボックスを突き付けるように示した。
「……実に興味深い実験だったよ」
キドが歯の隙間から空気を漏らすような音を立てて薄笑いを漏らす。
「興味深い、だと?」
顔を怒りにゆがませたクロガネは、わずかな刺激でも爆発しそうになっていた。
「そうさ。僕の実験は全て、完璧な虚無を作り出すことに捧げられていた。症状を見れば分かることだけど、あの子については自己についての認識能力を無くしてしまうという実験を行っていたんだ。もちろん、成果が出るまでには時間がかかった、そもそも自我が芽生えるまで待たなければ、それを消すことはできなかったからね。つまり幼児のままでは実験対象になり得なかったから、僕はあのあめ玉に混ぜ込んだ薬で、彼の自己認識能力が徐々に崩れていくように仕向けたのさ」
「なぜ、ハルミを? お前の思い通りになるモルモットなど、いくらでも調達できたはずだ」
「僕が手に入れられるモルモットは、一定の成長を遂げた後の人間だったからね。そういう人間の自我を壊しても、あまりきれいには壊れないのさ。《機械》を操る少年たちの虚無が不完全だったようにね。だから、幼い子供の実験対象が必要だった。それが君の息子だったということに全く意味はない、たまたま近くにいただけのことだ」
「その程度のことで、ハルミをあんな目にあわせたのか」
クロガネの怒りに、キドはまた悪意のある笑いを漏らした。
「おいおい、君も人の子だね、やはり自分の息子だけは例外ってことかい? 忘れたわけじゃないだろう、僕らが、いったいどれだけの少年たちをこの戦いに巻き込んでいったのかを。そんな君が、いったいどうして僕を一方的に責めることができるんだ?」
ほんのわずか、クロガネはタチバナを見て、苦しそうな顔で目を背けた。
「……我々が犠牲にした少年たちが私を許さないというのなら、私はその責めを負う。そこにいる少女と、あの少年が私を殺したいと思うのなら、それを受け入れるつもりだ」
「あははははははは! 立派だな、君は、立派立派、ホント立派だ。その本性は、結局自分勝手なクズだけどね、僕と同じ、クズ野郎だ。個人的な悲しみや憎悪を暴走させ、子供みたいに多くの人間を巻き込んで、のうのうと生きてる。僕と全く同じじゃないか。僕らはクズだ、君は僕を軽蔑しているけど、僕も君を軽蔑するよ。僕らは同じ種類の人間だ!」
「その通りだな。私もお前もクズだ。個人的な感情など、それがどれだけ深かろうと、こんな事態を引き起こすにはあまりにちっぽけだ。私はあまりに若すぎた、いや、幼すぎた。私には、まるで他人など見えてはいなかった。まるで、この世界に他人がいることなど知らない赤ん坊のように」
それを聞きながら、キドは嬉しそうに、勝ち誇ったように笑っている。淡々と話すクロガネの顔には、それでもなお怒りが消えずにたぎったままでいた。
「ひひひひひひ! 立派だな、自分の罪を素直に認めるって、立派だな!」
「私は愚かだった、そして今も、どうしようもなく愚かだ。だが、それでも、私はお前だけは許すことができない。あの子は、ハルミは、お前に自己を奪い取られ、まるで裸で荒野に投げ捨てられたようになってしまった。その孤独と希薄さの中へ消えて行くことが、いったいどれだけ恐ろしかったか、いったいどれだけ苦しかったか」
「意外と楽しかったかもね!」
「貴様!」
怒りにまかせてクロガネがキドの腕をねじり上げ、骨がきしむ音が響く、しかし同時に、クロガネの太ももの辺りで火花が飛び散った。うめき声を上げてクロガネが崩れ落ちる、キドは笑い声を発して、それを見ていた、キドの白衣のポケットに穴が空き、そこから黒い物体がのぞいていた。
「手段はいろいろ張り巡らせておくものさ。こんなふうに、ポケットに武器を隠し持っておくなんて、初歩の初歩だろ」
キドがポケットから手を抜き取ってそれを構える。どうやら、射程距離の長いスタンガンのようなものらしかった。クロガネは、太ももの肉をえぐり取られるような強烈な痛みとしびれに脂汗を垂らしながら、キドをにらんでいた。
「にらむなよ。ムカつく野郎だな!」
キドは吐き捨て、そのクロガネの目に向かってスタンガンを叩きつける。直接両目に衝撃を受けたクロガネは、ほとんど叫ぶように苦しみの声を上げて床を転げ回った。
「やめろ!」
そのキドにナルセが飛びかかり、二人はもみ合いながら床を転がった。華奢で小柄なキドを体格で上回るナルセがマウントポジションを取る。そしてそのまま相手を押さえつけようとしたナルセだったが、キドは一瞬のスキをついて腕を抜き取り、そしてナルセの胸にスタンガンを突き立てる。ナルセは悲鳴を上げて胸を押さえ、体をぐらつかせると、まるで失神したかのようにそのまま後ろへとのけぞって崩れ落ちた。
「あはは、は! お前ら全員バカだなああああああ。僕が弱いと思ってなめてただろう。弱い人間は、弱いなりに手段を講じているものさ。せいぜい反省することだな、もももももももっとも、反省を活かす機会はないけどね。これから君たちは、僕のオクスリをぶっこまれて、ミノムシのみんなと仲良く入院するのだああああああああああああ!」
キドの高笑いが部屋に響く、力を失って無様に転げているクロガネとナルセを見下ろしながら、ありったけの侮辱を浴びせていた。
「――バカなのは、あなたの方だけどね」
「へ?」
突然タチバナの声が聞こえ、キドがそちらを見た瞬間、猛烈なスピードでぶつかってくる黒い物体に弾き飛ばされ、そのままクロガネが寝転がっているすぐ横の壁に叩きつけられた。すでに立ち上がっていたタチバナは、麻痺した腕の先で《機械》をだらんとぶら下げていたが、もう一方の手で、もう一つの《機械》を操り、キドの体を拘束していた。
「私も、二重に手段を講じてたってわけ。《機械》を二つ用意するくらい、そんなに難しいことじゃない」
キドはもがいているが、全身を押さえられているため、動くことなどできない。
「あなたには、しかるべき裁きを受けてもらう」
「さささ、裁判でも行うのかい? 僕は最大限自分を守らせてもらうけどね! これは非常事態だったんだ、そして僕は精神障害を装うだろう、僕はプロだから演技はジョーズだよおお? 僕は無罪になるのさ、僕は精神障害で、僕には責任能力がないってことでねええええええええええ!」
「その必要はない」
クロガネが立ち上がり、いきなりキドの上に覆いかぶさった。タチバナから見るとキドの姿はその陰に隠れて、クロガネが何をしているのかは見えない。だが、か細く長い悲鳴が聞こえ、その白衣がじわじわと赤く染まってくる。
「ちょっと、何を――」
タチバナが言う前に、クロガネはくるりと振り返った。まだ両目に生々しい傷跡が残り、おぞましくも悲しい気配をさせて、そこにたたずんでいる。その足元では、キドが、目を見開き驚きの表情でクロガネを見上げながらも、体を横たえ、ナイフの刺さった首からゆっくり血を流しながら、言葉もなくゆっくりと死を迎えようとしていた。
「クロガネ」
放心状態のクロガネに、まだ痛む胸を押さえながらナルセが声をかける。クロガネは、キドの死を見届けることに集中しているかのように動かない。
「僕らには、まだやることがある。ハルミ君が残してくれたものを、僕らは忘れるわけにはいかないだろう? 行こう、クロガネ。そいつは、もう、関わる価値すらない男だ」
クロガネは、目を閉じ、かすかにうなずいただけだった。ナルセはそのクロガネの肩を抱いて、スタンガンにやられた脚をかばうように歩かせながら、部屋の外へと進んでいく。入り口まで来たとき、ふと思い出したようにナルセはタチバナのほうを振り返った。
「心配いらない。君はもう自由だ。僕らは君が警察機構のスパイだったことなど誰にも言いやしない。どこへなりと行けばいい。もうこれ以上、この戦いに付き合う必要はないよ」
その言葉に、タチバナは首を横に振った。
「私にも、途中で降りられない理由があるの。ゼロシキを、このまま放っておくわけにはいかない。だから、私も一緒に行く」
二人の目が合い、ナルセはゆっくりうなずいて、そして手招きをする。
「分かった。付いて来るといい、あの少年がいる場所まで案内しよう」
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