第27話

 まるで、空が崩れ落ちてくるかのようだった。触手を傘のように開いて、八つの首を反り返らせた死神たちが、スローモーションで地上に降りてくる。まだ生き残っていた少年たちは、晩夏の花火でも見つめているかのような、うっとりとした表情で、理性を麻痺させられたかのようにその光景に魅せられていた。タチバナも、ゼロシキも、みんな、同じ表情でそれを見ていた。無数の触手がそれぞれ意思を持ったかのように蠢き、八つの首もまた独立してあちらこちらを見回して、ある顔は笑い、ある顔は怒り、ぬるぬると滑る首が震えていた。巨大な体を包む白い布は、干からびたミイラを覆うそれのように、重たい存在感を放っている。この上ないほどグロテスクな姿は、しかし死神としては完璧すぎるほどの威力を帯びており、その調和は最高の芸術品と全く同じような、美しいという感覚を、見る者の内に呼び起こすほどのものだった。


 死神たちが、とうとう地上に降り立った。少年たちは、圧倒的な力と美を振りかざした死神を前にして、もはや戦意など忘れてしまっていた、絶望の恍惚と死の陶酔の中で、その首を供物のように捧げるのみだった。ゼロシキの周囲で、降り立った死神たちは、一人残らず少年たちの命を奪い取っていく。すでに何もかも奪われ、最後に残った虚無ですら、人類救済などという大きな名分のために捧げることを求められたあわれな少年たちに、最後の救いをもたらしていく。少年たちは、やっと、自分のために死ねるのだ。血と、首と、残骸と、悲鳴と、絶叫と。荒野の一面に花が咲き乱れるように、幸せな光景が広がっていく。その中に立ちつくしていたタチバナは、《機械》を握りしめたまま、何もせず、ゼロシキを見つめる。ゼロシキもまたそこに立ちつくしていた。ゼロシキはその地獄をネガのように反転した天国の中で、《機械》の黒雲を、猛烈な勢いで繁殖させ始める。地をはう黒雲は、タチバナの足元を越えて、はるかに荒野の隅々を埋め尽くす。天へと昇る黒雲は、東京ヘブンズゲイトの真上で渦をまき、街の空を覆い尽くす。


 ――これで、すべて終わりだ。


 ゼロシキは、唇の間から、吐息のような声を漏らす。うつろな目は、ずっと天を眺めていた。


 ――俺の、全てをお前らにくれてやる。だから、お前らも、お前らの全てを俺にくれ。


 地上の黒雲は、そこにいた無数の死神の、一匹一匹に至るまで、その体を這いずってよじ登り、やがてその八つの首を捕らえる拘束具へと変化する。死神たちはうろたえたようにもがくが、不思議な呪力を持っているかのように、拘束具はその動きを封じてしまう。


 ――俺も、俺のために死ぬんだ。俺だけのために。


 天を覆う黒雲から、不気味な刃が付き出してくる、それは、尋常でない数のギロチンだった。ゼロシキは、ふと気づいたように、タチバナの姿に目を止める。脱力して、何もせず、恐怖や怒りですらない、漂白された感情が、その顔に浮かび上がっている。視線は、ゼロシキに向けられていた。何か見えているのだろうか、いや、たぶん、何も。ゼロシキは、急にタチバナに謝りたいような気分になる。今さら何を考えているのだろう、ゼロシキは笑う、その笑いは、やはり、まるで神仏のように、柔らかく暖かく、この世の全てを包み込むような笑みだった。


 ――さよなら。


 たぶん、その声は聞こえなかった。その瞬間、世界は音を失ったのだ、空を覆うギロチンの刃が、死神たちの八つの首を目がけて襲いかかる。無音のギロチンの雨は、正確無比にその首を斬り落としていった、あれほどいた死神の、地上を埋め尽くしていた死神の首を、一つ残らず斬り落としていった。もはや、人間の理解と知覚の限界を超えたような光景だった、力と、美と、虚無と、生と、死が、極限状態でぶつかり合う。タチバナが悲鳴を上げたような気がした、でも、もう、何も聞こえない。




 濃霧のような砂ぼこりは、重たい空気にほんのわずかずつだけ動かされ、ゆっくり、ゆっくりと消えていく。尋常でないほどの、長い長い時間をかけて。戦場には、幾重にも折り重なる巨大な死神の残骸が、無限に広がっていた。その体は溶けて、腐敗した魚類が海岸一面でどろどろに朽ちているかのようだった。においはない、音もない、ただ目に映るだけの光景は、まるで幻のように、現実のゼロシキを孤立させてしまう。


 ――重い……。


 《機械》はもう動かなかった。体が疲弊し、そして薬で極大化された虚無が、全て吸い取られてしまったかのように、《機械》は全く駆動する様子を見せない。ゼロシキにも、それを動かそうという意志はなかった。ひどく重たい《機械》は、まるで手枷のように、あるいは十字架のように、ゼロシキをその場に磔り付け動きを封じている。《機械》だけでなく自分の体についてさえ、ゼロシキはもうそこから動かそうという意志はなかった。もうどこかへ帰る必要はない、ここで、死を受け入れるだけだ。


 消えていく砂ぼこりの向こうから、ゆっくりと、一匹の死神の姿が浮かび上がってくる。七つの首を斬り落とされ、かろうじて残った首もそれこそ皮一枚でつながっているかのように、だらりと垂れ下がり、こちらへ近づくたびに、ぶらり、ぶらり、と揺れていた。その唯一生き残った死神こそが、ゼロシキに死を与えてくれる存在だった。触手は全て朽ちており、一本だけ残ったそれに、大鎌を構えて、ゼロシキの首を斬り落とそうと、じわじわ距離をつめてくる。


 「早く、来いよ」


 ゼロシキは、その死神に向かって呟く。もはや、その死神も長くはなかった、ほんのわずかな動作で首がもげてしまい、もうすぐ動けなくなる、だから、せめてそうなる前に、ゼロシキを道連れにしようとしているのだ。ゼロシキは静かに目を閉じる、そして、漂う香りのように弱々しい気配をさせて忍び寄ってくる死神を待つことにした。気配は、もうすぐそばまで来ていた、次の瞬間には、互いの首が宙を待っていることだろう。全てが、虚無へと還るだろう――。


 「ゼロシキ!」


 叫び声と同時に、激しい衝突音がした。タチバナの声だった、だからゼロシキは目を開ける。目の前には、大きな死神の胴体がそびえていた。たった今、飛びかかったタチバナに最後の首を斬り落とされ、ゆっくりと、バランスを失い地面に崩れていく。タチバナが、うなだれたゼロシキを見下ろしていた。言葉はない、唇を固く結んで、じっと、ゼロシキの目を見つめている。良かった、とゼロシキは思う。何が良かったのかはさっぱり分からない、ただ、タチバナが生きていたことが、なんとなく嬉しかった。ゼロシキは、もはや自分の感情が漂白されたような状態で、何かを上手く考えることができない、でも、それはきっと、とても素直な感情から出たものだった。タチバナは目に涙をためている、その涙が何なのかも、ゼロシキにはよく分からない。互いに、どうしていいのか分からず、ただ、じっと見つめ合っていた。


 突然、空が暗くなる。二人は我に返り、天を仰いだ。空は、漂う黒い塊に覆われてしまっていた。雲ではない、もちろん、死神だ。八つの首を持った死神が、それでもなお無数に生み出され、地上へ降り立とうとしているのだ。二人は、これから死ぬのだ。あまりにそれがはっきりしすぎていて、もはや絶望という感覚を通り越してしまう。ゼロシキは、呆けたような笑みを浮かべ、死を待つだけだった。でも、タチバナは違った、《機械》の槍を握りしめ、天をにらみ、立ちはだかる。


 「ゼロシキ」


 背を向けたまま、タチバナが言う、その表情と声はとても勇ましいが、手は震えていた。ゼロシキは何も答えない、笑みは消えてしまったが、それでもまだ呆けたような顔のままだった。


 「ゼロシキ」


 もう一度、タチバナが言う。ゼロシキは、何も応えない。


 「生きるの。私たちは死なない。私たちは、生きるの、絶対に」


 ゼロシキは目を見開く、そして、勝ち目などあるはずもないのに戦おうとしているタチバナの背中を見つめた。タチバナは震えていた、それでも、逃げようとはしていなかった。ゼロシキは何も言わない。何もできない、もう《機械》も体も、全く動かすことはできなかった。


 空を滞留する黒い塊が裂けるように均衡を崩した、そして、風に舞う細雪のようにふわふわと漂い、ゆっくりと、死神たちが降りてくる。ゼロシキはタチバナを見る、タチバナは、じっと《機械》を構えたまま、ゼロシキを守ろうとするかのように、そこに立っていた。


 ――逃げろ!


 ゼロシキは叫ぶ、叫んだつもりだった、しかし、もう声すら出てくれない。


 ――逃げろ!


 もう一度叫ぶ、やはり声にはなってくれない。ゼロシキは、湧き上がる感情のうねりを感じていた。恐怖、今まで感じたことのないその感情は、激しい勢いで奔流してくる。その恐怖は、自らの死に対してではなかった、そうではなくて、タチバナの死に対してだった。タチバナに死んで欲しくない、ゼロシキは、声の限りに絶叫したくなるほど、その感情の洪水に襲われる。死神は、無慈悲に、無感情に、塔の周りを旋回しながら、宙を舞い、降りてくる。


 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ!


 まるで幼い子供のように、ゼロシキはこれから起ころうとしていることを拒否しようともがいた。いくらもがいても、指一本動かない、それでも、ゼロシキはあがいた。タチバナの背中を見つめたまま、声にならない声で絶叫し、動かない体を全力で動かそうとする。


 ――逃げろ、逃げてくれよ!


 ゼロシキは、むなしく叫び続けた。ゆっくりと、死神たちが地上に降りてくる、タチバナとゼロシキをぐるりと取り囲み、一瞬で二人を粉々にできるくらいの、圧倒的な破壊力の触手を動かしながら、死を与えようとしていた。タチバナは《機械》を構える、もはや震えは止まっていた。タチバナは、それでも生き残るつもりなのだ。最後の瞬間ですら、その意志を持ち続けるつもりなのだ。ゼロシキは震えた、今度は恐怖ではない、別の感情によって。その別の感情が、恐怖をかき消し、今まで虚無しかなかったゼロシキの奥底から溢れてくる。正体の分からない感情、だが、それは虚無よりもはるかに強かった。


 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!


 死神が、タチバナを切り刻んで殺そうとしていた。タチバナは、それでもひるまず、ぞれでも、ゼロシキをかばうように、《機械》を構えているのだ。


 「嫌だあああああああああああああああああああああああああああ!」


 ゼロシキは絶叫した、あらん限りの声で、自分を押さえつける全ての圧力をはじき飛ばすかのように。それと同時に、甲高い金属音のようなノイズが、戦場を閃光のように突き抜ける。そして、何もかもが音と色彩を失ったかのように凍りつく。その場にいた、タチバナにもゼロシキにも、戦場の様子をモニターで見ているクロガネたちにも、何が起きたのかは分からない、しかし次の瞬間には、まるで魔法のように、死神たちが動きを止めていたのだった。我が目を疑いながらも、時間が止まったのだろうかとゼロシキは考える、だが、タチバナが驚いた表情で、一歩、二歩、そこから後退りをしていた。ゼロシキのうなだれた体の下で、腕からぶら下がった《機械》が、白く光り輝いている。今までずっと虚無を吸い取り黒く光っていたのとは対照的だった。ゼロシキもタチバナも、あっけにとられ動けずにいる、だが、その二人の周囲で、死神たちは凍りついたようになったまま、徐々にその輪郭を失い、その場に崩れ落ちながら、蒸発する液体のように、あるいは煙のように、ふっと消えていってしまう。誰にも、そこで何が起きているのかは分からなかった。


 そして全ての死神が消えてしまった、二人は呆然と、荒野に立ったままでいる。生き残ったのは二人だけだった。他の少年たちはみんな、安らかな表情をした首を、戦場の荒野に置き去りにしたまま、みんな、みんな、死んでしまった。ゼロシキは白く光る《機械》を見つめる。その視界も、徐々にぼやけ始めていた、もはや、心身ともに限界を超えているのだ。やがて、ゼロシキは意識が遠のいていることに気づく。体が、ゆっくりと流されるように、斜めに傾いていった。


 (ゼロシキ!)


 タチバナが自分の名前を叫んでいるのが聞こえた、だが、もはや意識をつなぎとめる気力などない、ゼロシキはそのまま、崖を転がっていくように、その意識の底へと、為す術もなく落ちていってしまった。

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