第16話
「ヤマタノオロチみたいですね」
先日の戦闘の映像を分析していたクロガネの背後で、タカマツが呟いた。
「ヤマタノオロチ……か」
クロガネはじっと映像に見入っている。八つの首の死神、あるいはヤマタノオロチは、圧倒的すぎる戦闘能力で少年たちを惨殺していく、完全に勝負になっていない、その能力の差は、大人と子供とかいう喩えなどを通り越して、まるでダンプカーにカエルが轢かれているようなありさまだった。そして、あのゼロシキですら、ほとんど歯が立たずに敗北してしまった。
「これに勝てる可能性って、あるんでしょうか?」
「正直、現時点では無いと言っていいだろう」
それを聞いて顔を強張らせるタカマツは、震えを押さえようとするかのように、唇を固く結んで直立していた。
「……《機械》をさらに改良するか、ゼロシキ以上の虚無を持った少年を探す以外に方法はないということでしょうか」
「それも難しいな。というか、できればとっくにやっている」
「打つ手なし、ですか?」
「残念ながら、それが事実だ。もはや、死神は手に負えない状態になってきている」
そう、もはや死神は、自分の手に負えなくなってきている。こんなことは予想外だった、いや、可能性がないわけではなかった、しかし、まさかこんな暴走状態になるとは思ってもみなかったのだ。一方では望んでいながら、一方では恐れていた事態が、起こってしまった。クロガネは緊張をもてあますかのように舌先で唇を湿らせながら、じっと考え込む。
「タカマツ君」
「はい」
「とりあえず君は、このヤマタノオロチについての分析を行ってくれ。私は、もう少し何か対抗手段がないか考えてみる」
クロガネは立ち上がる、もはや結果は絶望的だった。しかし、それはクロガネの迷いを解決するものでもある。死神を倒すか、人間が滅びるか、そのどちらも望みつつ、どちらも望んでいない、そんな状態を解決するために、クロガネは自分ができることはやりつつも、その結果として起きる事態を受け入れようと、心に決めていたのだ。そして、とうとうその瞬間がやって来ようとしている。このヤマタノオロチのような死神が出現するのは、これ一度きりではないだろう、東京ヘブンズゲイト、そこに隠された中心が、暴走を始めている。それはつまり、万策尽きたという宣告を受けたに等しいのだ。
「ドクター」
研究室を出たところにゼロシキが立っていて、ドアから現れたクロガネを呼び止めた。
「私を待っていたのか?」
クロガネの質問に、ゼロシキがうなずく。つい最近自分がそうしたのと同じことをされているせいで既視感がわき、クロガネは妙な居心地の悪さを感じた。
「もう大丈夫なのか? ずいぶんダメージを受けたようだが」
「とりあえず、起きて歩きまわるくらいは何ともない。ただ、今回はゆっくり休ませてもらおうかと思ってる」
「珍しいな、戦うことばかり考えているような君がゆっくり休みたがるなんて」
「戦うことばかり考えてるからだよ。万全の体勢を整えたいんだ、あいつと再戦するために」
「あいつ? ああ、あの死神か」
「そうだ」
クロガネは、ゼロシキの真っ黒い瞳をのぞき込んでいた、その表面には、ぽつぽつと、沸騰する水に浮かぶ泡のような、死の観念が湧いているような気がした。いくらゼロシキが万全でも、あの死神に勝てる見込みはない、つまり、万全の体勢であってもあのヤマタノオロチとぶつかりたいというのは、死を覚悟しているというに等しい。
「万全なら勝てる、とでも言うつもりか?」
「さあね。でも、戦うしかないんだろ?」
もう一度、クロガネはゼロシキの瞳をのぞき込む。ゼロシキは全く動じた様子はなく、腹をくくったような態度で、いっさい目をそらそうとはしない。
「もう少し待て」
落ち着き払った姿勢を誇示するように、クロガネが言う。
「待つ? 何でだ」
「これから、何か対策がないか考えるところだ。だから、その結論が出るまでは、待ってもらいたい」
「対策なんかあるのか?」
「さあね」
クロガネはため息混じりのような声になる。頭の中には、キドのことが浮かんでいた。キドが開発したという薬、それを本当に試さなければならないのかもしれない。実験、とキドは言う。そう、それは人体実験であり、狂気なのだ。しかし、今考えられる手段は他に何もない。もう、引き返すことはできないのだ、尽くせる限りの手を尽くし、後はその結果を受け入れるだけだ。過程は問わない、たとえそれが、狂気に取り憑かれた人間の取る、残酷極まりない手段であれ。
「それで、どうかしたのか。ここで私を待っていたということは、何か聞きたいことでもあるということだろうか」
クロガネが切りだす、ゼロシキはよどみない声で、そうだ、と答えた。
「なあ、ドクター」
「何だ?」
「聞きたいのは、東京ヘブンズゲイトのことなんだ」
クロガネはわずかに動揺しそうになるが、それを隠すために表情を動かさないようにして、ゼロシキの言葉を聞いていた。
「……東京ヘブンズゲイトがどうかしたのか」
「簡単な質問さ」
「答えられることなら答えるが」
二人は、互いに正面を向いたまま対峙していた、どちらも、そこに訪れた奇妙な緊張感をもてあましながら。
「あそこには、何があるんだ?」
クロガネは口ごもる、ゼロシキに教えてやれるようなことは、何もなかった。自分以外に真実を知る人間はいないし、誰にもそれを教えるつもりはない。
「……分からんね。あそこは昔、金持ちだけが住むゲイテッド・コミュニティだった。今は死神が住む廃墟だ。私も、誰もが知っているようなことしか知らない」
「ドクターも知らないのか?」
ゼロシキは探りを入れるような聞き方をする、クロガネは平静をよそおい、黙ったままうなずく。
「それなら一つ提案があるんだ」
「提案?」
「そう、提案」
「いったいどんな?」
ゼロシキは意味ありげに笑みを浮かべる。
「調査させてくれ」
「……東京ヘブンズゲイトをか?」
「そうさ、ドクターも見ただろ。あの東京ヘブンズゲイトから聞こえてくる歌が、急にあの死神の動きを止めたのを」
「あの歌について、調査をしたいということか」
「必要だと思うけどね。あんなバケモノみたいな死神をどうにかできる可能性は、あの歌ぐらいしかないだろ?」
クロガネはじっと考え込む、ゼロシキの言うことはもっともだが、それはクロガネにとって探られたくない部分だった。
「……前向きに検討する」
そう言って、クロガネは立ち去ろうとする。しかし、何かをごまかそうとしているのを敏感に察知したかのように、ゼロシキがそれを呼び止めた。
「はっきりさせてくれよ、ドクター。そんなごまかしみたいな返事は無しだぜ」
クロガネとゼロシキの目が合う。もはや、逃げ場はないのかもしれない、とクロガネは思っていた。
「……いいだろう。さっそく、調査団を編成しよう。君の体調が万全になり次第、ただちに派遣する」
そう答えたのは、ゼロシキの言葉に観念したからではなかった。とっさに、一つの企みを思いついたのだ、クロガネもまた、知りたいと思うことがあった。これが、自分の望む結果に結びつくのかどうか、それは分からない。ある種の賭けだが、しかし物事を前に進めるためには、どうしても知っておく必要があることだった。
「サンキュー」
得意げな顔でゼロシキが言う、そして、生意気というにはあまりに自然な態度のままクロガネの肩をぽんぽんと叩き、研究所の廊下をつかつかと歩いて去って行った。クロガネはその後姿を見送りながら、ぼんやりとした考え事に沈んでいた。今までしてきたことの全てが、徐々に、終りに近付いているような気がする、自分が抱えてきた、あまりに大きすぎる重荷がようやく消えようとしている。恐怖と安堵に包まれながら、事の行く末を思う、ただ、その結末については、漆黒の霧に覆われたかのように、全く予想もつかないままだった。
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