第15話
――おかえり、父さん。
ハルミのことを思い出すとき、回想はいつもその言葉から始まる。どうしても、不随意に、その記憶は繰り返して頭に上ってきてしまう。
「ねえ」
「どうした?」
書斎にいたクロガネに、珍しくハルミが話しかけてきたことがあった。自分が自分でいられる感覚を失いつつあり、すっかりやつれた姿の息子はあまりに痛々しく、思わず目をそむけたくなる。
「母さん、ってどんな人だったの」
クロガネは言葉につまる。幼い頃のハルミは、何度も母親のことについてクロガネに尋ねてきたものだったが、徐々に成長して、母親がすでにこの世にいない人間なのだと悟り始めると、もはやそれについて口にしようとはしなくなっていた。そんなハルミが、急に母親のことを質問してきたので、クロガネは戸惑ってしまう。何もかも、正直に言うわけにはいかなかった、だが、母親のことを全く話さないというわけにもいかない。とはいえ、いったいどこまで話すべきなのかも決めかねる。じっと、澄んだ目で、ハルミはクロガネを見つめている。ハルミは、嘘偽りのない答えを求めていた。無邪気な子供の質問ではなく、少年が、大人になるために通らなければならない道を行こうとするための質問だった。
「急にどうした?」
「別に。ただ単に、知りたいんだ」
ごまかしは効きそうにない。クロガネは察して、いったん目を閉じて深呼吸をしてから、再び口を開く。
「素晴らしい人だった。美人で、聡明で、愛情深くて。お前がもの心つくまえにこの世を去らなければならないことを、ひどく悲しんでいたよ」
ハルミは唇をかみしめ、じっと、クロガネの言葉を聞いている。その様子を見ながら、クロガネは、できれば嘘はつくまい、と思う。言える範囲のことだけを、正直に伝えるのだ、と思う。
「どこで、母さんとは出会ったの?」
「東京ヘブンズゲイトの中だ」
「父さんと母さんは、あそこに住んでたってことなんだね」
「そうだ。私も母さんも、あそこで生まれ、そして育ったんだ」
「幼なじみ、みたいなことなのかな」
「そうだな。そういう感じだ」
クロガネは一瞬、口ごもりそうになる。幼なじみ、確かにそれはそうなのだが、ただ、それは、二人の関係を表現するには適当な言葉でない。
「母さんは、どうして死んだの? 病気?」
「まあ……そんなところだ」
クロガネはだんだん苦しくなってくる、できるだけ正直でいようと決めたばかりなのに、結局、嘘をつかざるをえなかった。
「母さん、苦しかったのかな」
「いや、安らかな死だったよ。それほど苦しまずにすむような病気だった。それはせめてもの救いだ」
「母さんが死んでしまうとき、何か言ってたの? 遺言みたいな」
「……お前のことばかり喋ってたよ。自分が死んでしまうことよりも、そっちのほうをを気にしてた」
全部、嘘だった。ハルミの母親は病気で死んだのではない、しかもその死はあまりに突然のことだった。だから、その死に目には会えなかったのだ。クロガネがヨーローッパに留学している最中のことであり、しかも、それを知らせてくれる人間もなかった。連絡がつかなくなったことを不審に思ったクロガネは急いで帰国し、そこで初めて事実を知ったのだ。世界の全てを打ち砕かれたかのような絶望に沈みながら、おそましいほどの虚無に取り憑かれたクロガネは、その瞬間、自分ではどうすることもできない狂気の種が植えつけられたように感じていた。しかし、一方で、まだ一歳にもならない残された息子の手を握ることで、どうにか正気を保ったクロガネは、拷問道具のように全身を切り刻む虚無の苦痛に耐えながらも、生き長らえることを選んだのだった。
「母さんは、何歳だったの?」
「まだ、二十歳だった」
「そっか、たった二十歳で……」
「お互い、若すぎた」
「父さんも、大変だったんだね」
「それでも、親が裕福だったからな。充分すぎるくらいの資産のおかげで、自分の研究を続けながらもお前を育てることはそんなに難しくなかった」
「東京ヘブンズゲイトに住んでたんだもんね。どうして、あそこを出ることにしたの?」
「単純に、気分の問題だ。あそこに住み続けると、贅沢さに飼いならされるからな」
それも嘘だった、実際に東京ヘブンズゲイトの贅沢さにはうんざりしていたのだが、必要よりも早く、クロガネはそこから出て行くことを選んだ。最大の理由は、憎しみだった。クロガネは、人生で今までに感じたことのない憎悪に身を焼かれながら、東京ヘブンズゲイトを後にしたのだ。もう二度と戻ることはない、そして、あそこに住んでいる人間をもう二度と見ずにすむように、何もかも、消し去ってしまうこと、その決意を胸に抱きながら。
「……ねえ、父さん」
「何だ」
「もう一つだけ、聞いてもいいかな」
クロガネは黙ってうなずく。
「母さんは、幸せだったのかな」
「……」
クロガネは何も答えない。誰よりも、彼女の幸せを願っていた、だが、結果的に、自分は彼女を不幸にしてしまったのかもしれない。クロガネはそう思い、何も、答えることができない。
「きっと、幸せだったよね。父さんは、母さんのこと、すごく大切にしてたんでしょ?」
クロガネは何も答えることができない、だから、ただ、黙ってうなずく。
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