第5話

 地下へ、クロガネはエレベーターで降りていく。つるんとした球体のエレベーター内部の壁は、うっすらと暖かいオレンジ色をしていたが、それは嘘くさいデザインで、その施設が抱えている底なし沼のような陰鬱さは消すことができない。地下六十六階、そこでエレベーターが停止する。開いたドアの向こうには、同じオレンジ色の壁が波打って、ずっと奥まで続いていた。壁のくぼみの、一つ一つに、覗き窓が口を開けている、中では拘束具を付けられた人間たちが天井からミノムシのようにぶら下がり、恍惚とした顔で、白目を向き、舌を出して快感に震えている。腕につながれたカテーテルの点滴によって栄養を吸収し、肛門と尿道につながれたカテーテルから排泄物を垂れ流して、ただ、何もせず、ぶらぶらと天井から吊り下げられ、脳みそを満たす快感をむさぼって生かされた人間たち。クロガネは、何度見てもその光景に嫌悪感を覚え、胸にむかつきを感じるのだった。精神病院――それがこの施設に付けられた名前だ。昔は、精神病者への治療といえばいかに苦痛を伴う社会を受け入れさせ、その中で生きて行くようにさせるかという処置のことだったが、今はそうではない。ここにいる精神病患者たちは、頭の中に膨らむ非現実的な妄想や考えをひたすら満足させるイメージを脳内に注入され、ただ、快感にびくびくと震える虫のように生かされている。それこそが、現代的な治療なのだ。暴走する精神をてなづけるには、求める快感を与えてやればいい。それで、精神病患者たちは社会に無害な存在に去勢される。ここにいる患者の全てが、病院を脱走しようという考えを抱かない、骨抜きにされ、死体になるまで、虫のように生きているだけなのだ。


 ――いっそ、殺してやったほうがいい。


 誰もいない通路を歩きながら、クロガネは吐き捨てる。これは人間にたいする最大限の冒涜の一つだろう、ある種の、死刑を越える屈辱に違いなかった。このような醜態を晒してまで、なおも尊重される生命とは、実際には糞尿以下の価値しか与えられていないのではないか。文明が高度化するほどに、倫理は矛盾を極め、果ては腐敗して、倫理そのものとは正反対の規範へと反転するようにすら思えた。


 突き当たり、厳重に閉ざされたドアの前で念入りな生体認証を受け、クロガネはその中へと招かれた。湿っぽい空気が流れ出し、分泌物と薬品を混ぜたような独特の体臭がクロガネの胸をいっそうむかつかせる。


 「クヒヒ! 久しぶりだね」


 喉の奥に何かつまったような笑い声を漏らしながら、薄汚れた白衣を着たキドがクロガネを出迎える。ぎょろぎょろとした目は常に焦点が定まらず、休みなく何かをいじくるように動いている手や、蛇のように素早く出し入れされている舌など、どこを見ても挙動不審で、いったいこの男が正気なのかすでに病んでいるのか見分けがつかない。キドは、現代精神医療の権威だった。この「治療法」を推進し、巨大な精神病院を設立させ、そしてその院長のポストに収まった男だ。そして、クロガネの昔からの知人でもある。


 「邪魔して悪いな。用事を済ませたらすぐ帰るよ」


 「ヒ、ヒ。遠慮するなよ。ここはめったに客が来ないから寂しいんだ」


 そりゃお前に人望が全くないからだ、という言葉を飲み込んで、クロガネは勧められたイスに不愉快そうに腰掛ける。キドを目の前にすると、とにかく嫌な気分になる。用事を済ませたらさっさと帰りたかった。


 「イヒヒ。今日は、ど、どうしたんだい?」


 どもりながら、キドが顔をクロガネのほうへ向けてくる、もっとも、視線はあさっての方向を見つめていたが。


 「あの少年のことだ」


 「ど、どのおぼっちゃんのことかな、僕が差し出したの、カ、カ、カワイイコ、いっぱいいるからなあ」


 「とぼけなくていい。あの少年のことを聞きたい」


 「アハ、ハ。せっかちだなあ」


 「あの少年、ゼロシキだよ。あいつは、今までお前がこの精神病院から兵士として送り込んできたどんな少年よりも優れている。優れているというだけじゃない、ケタ違いなんだ」


 「フヒ! そりゃそうだろうよ」


 「いったい、何をした?」


 「な、何も、だよ」


 「何も?」


 「そうさ、あの少年は、ここに精神を病んだ子供として連れてこられたときから、既にケタ違いだったのさ。ケタケタ。幸福な家族の愛というものにウンコ以下の反応も示さない、というより、それが何なのかそもそも理解してないというくらいにね」


 「馬鹿な。いったいどんな記憶を植えつけた? まさか、他と同じ様に洗脳だけして終りというのではないだろう」


 洗脳――この精神病院に送り込まれた少年たちのうち、人並み外れた虚無を持つとキドが認めた少年たちは、兵士になるべく洗脳をほどこされる。たいていは、虚無を冷凍保存するために家族を殺されたということ以外の記憶を消去され、戦うということ以外の目的を持たないように、あらゆる感情や思考を矯正されるのだ。ときには、洗脳をより効果的にするため、キドが必要と考えた記憶を植え付けることもあった。


 「フ、フ、フヒ、普通のやつだよ。大多数の少年たちの実体験によく似せた、死神に家族を、チョキチョキ切り刻まれましたっていうやつさ」


 「もとはどういう記憶を持っていたんだ?」


 「さ、さ、さあねえ。既に記憶はないようだったよ。おかげで、普通は多かれ少なかれ残ってしまう思い出も、あの少年には全くない。もしかしたら、意図的に消したのかも知れないけどね!」


 「そんなことが可能なのか?」


 「もしかしたらって話しさ。ヘヘ、ヘ。とにかく、あの少年は不気味さ。いろんなことが、ほ、他の少年たちと違ってるんだなあ」


 「例えば?」


 「例えばって言われるとなああ。そうだね、とにかく、自分に対しても他人に対しても、人間というものに対する愛着が全く感じられない。そんで、感情に対する抑制力が異常に強い。ま、まるで、まんまるまるで、サイボーグみたいなやつなんだなああ。」


 「それが《機械》の操作について天才的な能力をもたらしているというのは、私もよく分かっている話だが」


 「ヒヒイ、失敬。で、でもね。その感情に対する抑制力の強さってのは、実は感情のエネルギーが人並み外れていることの証でもあるのさ」


 「つまり、どういうことだ?」


 「さあねえ、どういう影響があるかは、僕にもとんとんとんと分かりっこない。い、いずれにせよ、あの虚無は、きっと生まれ持ったものだよ」


 「過去の記憶を呼び覚まして解析することで、その原因を探ることはできるはずだが」


 「や、やろうかなって思ったけど、無理だったね。僕は今日の精神医学ではすっかり廃れた催眠も一応できるんだけど、有益な情報は何も出てこなかった。それに、催眠といってもしょせん本人の証言だからね。必ずしも真実を語っているとは限らない。記憶ってのは、再現するより消したり植え付けたりするほうが簡単なのさ」


 「それで、いまはニセの記憶でフタをして扱いやすくしている状態か」


 「そ、そ、そうなのさ。ウヒ! でも、空っぽのバケツにわざわざフタをしてるようなもんだけどね。フヒ! だって、そもそも、もそもそ、あのコの中には何にもありゃしないんだから」


 ずっと、会話をしながら、クロガネはキドの挙動を観察していた。どうにも正体のつかめない男だが、何とか、糸口をつかみたかった――いったい、どこまで真実を語っているのか――その糸口を。《機械》は無限の可能性を秘めている。ただ、その可能性を最高レベルまで発揮させるだけの虚無を抱えた人間を探し出すのは難しい。例えば、虚無を持つ人間とは、単に絶望しているだけの人間とは違う。そういう人間のほとんどは、他人への憎悪を抱くからだ、そういう連中は憎悪によって満たされている。本当に空虚な人間とは、憎悪や愛といったものに救いを見出さない。彼らは超然としている、全てが、彼らにとっては無意味であり無価値なのだ。完全な虚無を持つ人間とは、まるでサイボーグのような人間でなければならない。だが、これほどまで科学の発達した時代にあって、なおも人間の心理メカニズムは謎であり続けた。特に、虚無は通常では研究対象にすらなり得ないような現象だった。それは、抑鬱や懐疑とも違う何かなのだ。最強の戦士を創りだすこと、それによって、《機械》の最高の可能性を解放すること、それはクロガネにとっての念願だった。そのためには、虚無についての数少ない研究者であるキドの協力が必要なのだが、肝心のキドは、いったい何を考えているのか分からないクセ者で、必ずしも虚無についての研究知識の全貌を明かしてはいないのではないかという疑いを持たされる。キドはつかみどころがない、ヘタに探りを入れても、この調子ではぐらかしてしまう。せめてクロガネにできるのは、こうやっていら立ちに耐えながら多少の会話を試みることくらいだ。


 「また、何か分かったら聴かせてもらうとしようか」


 あきらめたように、クロガネがイスから立ち上がる。


 「あ、あれれ、もう帰っちゃうの?」


 「悪いな。所長なんかになってしまったせいで、いろいろやることがある」


 「お、お互いタイヘンなんだな。ぼくもインチョウだしね」


 ふんと鼻で笑って返しながら、クロガネはキドに背を向ける。


 「あ、ああ、そ、そうだ」


 キドが意味ありげに言葉を発する、が、クロガネはそれを無視して部屋を出ようとしていた。


 「ナ、ナナ、ナルセくん、元気かなああああ?」




 びくっ、とクロガネの肩が震えた。ああそうだ、こいつは、《機械》誕生の顛末を知る、数少ない人間の一人なのだ。クロガネはその事実がもたらす苦々しい思いに顔を歪め、それでもキドの言葉を無視して部屋を出て行った。ひゅるひゅる、背後でキドの笑い声が聞こえた、薄い唇の端から空気が漏れているような、気味の悪い笑いだ。「ナルセ」、片時も、その名前を忘れたことはない。忘れられるはずもない、自分の今の人生を決定づけた人間の名前だ。もう一度、その名前を頭の中で反復する。ナルセ――かつてこの研究所に在籍していた、不世出の天才科学者、呪われた兵器、《機械》の真の創造主――。

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