第3話

 「クロガネ所長」


 研究員のタカマツが、片手に資料のデータが入った電子ノートを持ってクロガネの部屋に入ってきた。


 「どうした?」


 「《機械》研究にかかる追加予算の要望の件です。文科省と防衛省が共同で作成した予算案が、ようやく国会で議決されました」


 そう言いながら、タカマツはその審議に関する資料をノートに表示してみせる。クロガネはちらりとそれを見て、興味なさそうに首を振った。


 「やれやれ、国家のみならず人類の存亡すらかかっているというのに、この期に及んで決まりきった手続きを通してしか物事を進められないのか。官僚も議員も、どうかしている。もはや科学技術に主導権を渡すことでしか我々は生き残れない。それは明白だろう。いったいつまで権力にしゃぶりついているんだ、それを手放したくないからといって、自分の虚栄心のために人類を巻き添えにするつもりか?」


 「連中はシステムに従わなければ仕事ができませんからね。それに、日本が貧乏国家に転落してもなお、既得権益の残りカスにしがみついているウジ虫がいて、そいつらが優先順位を無視して自分たちの要望を押し通し、国家予算にたかりをかけていますし」


 「まあいい」クロガネはあきれたように鼻で笑う。「いずれにせよ、追加予算は降りることになったんだ。官僚は九割が腐っているが、少しくらいはまともなヤツもいるというわけだ」


 「私の大学の同級生が文科省にいますが、腐敗した組織の中でどうにかまともな意思決定を実現しようと、だいぶ手を焼いているようですね」


 タカマツはクロガネの冷笑に同意を示しながら、ノートをふところにしまい込む。


 「しかし日本人というのはたいした連中だ。これだけ社会が腐敗しても、自力で物事をなんとかしようという気にならず、ただただおとなしく我慢して、誰かが助けてくれるのを待っているだけなんだからな」


 「陰ではさんざん悪態をついていますがね」


 タカマツの皮肉を聞いたクロガネが笑いをもらす。


 「よくもまあこんな国民が二十世紀に繁栄することができたと思わないか?」


 「確かにそのとおりです。あれは、神のいたずらそのものでしょう」


 「おや、神なんていう言葉を君が使うとはね」


 「単に馬鹿げた奇跡といったほうが良かったですね。最近、古い小説を読んだことがあって、ついついそんな言い回しをしてしまいました。もはや、神はカルト宗教の中にしか存在していないのに」


 「しかし過去の繁栄も捨てたものではない、その頃に蓄えていた知識や技術が細々と生き延びて、とうとう《機械》の開発を成功させることになったのだから」


 「確かに、快挙でした。もう数十年、日本の科学者が世界の最先端に立つことはありませんでしたからね」


 少し、タカマツの声に熱が入る。タカマツは《機械》の発明者とされているクロガネに心酔していた、いや、タカマツだけでなく、あらゆる科学者がクロガネを羨望していた。突如として現れ、人類をジェノサイドし始めた無数の死神に対抗すべく、アメリカ、ドイツ、インドなど各国が新種の兵器開発を競っていた。誰もがそれらの国が何か究極の兵器を開発してくれるものと期待していたのだが、しかし突如として、眼中にもなかった日本の研究者であるクロガネが《機械》を発明してみせたのだ。クロガネは瞬く間に世界の英雄となり、過去の栄光にしがみついていると揶揄され続けてきた日本の科学者たちの希望の星となった。


 「いや、別に私は大したことはしていない」


 「謙遜しないでください。あれはまさしく、世紀の発明でしょう。人類史上類をみない、革新的技術です。《機械》を不気味だと言う連中もいますが、結局は嫉妬しているだけですよ」


 「謙遜じゃない。言葉通りなんだ、私は、大したことはしていない」


 語気を強める、そしてクロガネは何かを思い出しているかのように目を閉じて、じっと動かなくなった。


 「どういうことでしょう?」


 不安そうに様子を伺うタカマツに気づいて、クロガネは姿勢をただしてそちらを向いてみせる。


 「いや、すまない。しかし、《機械》の発明は、巷では私一人の功績のように語られているが、実際はそうではない。完全な競争主義を採用するこの研究所は頻繁に人が入れ替わるせいで、今や当時を知る者は誰もいなくなってしまった。だから、あの《機械》がどんな風に発明されたのか、私以外の人間は知らない」


 「でも、所長の功績が大部分だったのではないですか? だからこそ、今や所長は出世されているのでは?」


 「さあね……。自分から言い出しておいてすまないが、この話はこれで終わりにさせてくれ」


 タカマツは不満気で、まだ知りたそうな顔をしてみせていたが、クロガネはあえて鈍感なふりをしてそれを無視すると、ご苦労だったと言って退出を命じる。タカマツは軽く一礼して部屋を出て行った。一人になったクロガネはおもむろに机の引き出しを開けて、デジタルフレームを取り出すと、生体認証でロックを外す。フレームに映しだされたのは古い写真だった。若いクロガネと、その隣で肩を組んでいるもう一人の若い男、そしてその二人の間には、幼い男の子が笑顔を見せている。


 「……ハルミ。私はあの時からいっさい後ろを振り返らず、とうとうこんな所まで来てしまった。お前は私をどう思うだろう? 尊敬の念を抱いてくれているだろうか? あるいは、無責任だとあきれて軽蔑しているだろうか?」


 クロガネはため息をついて、デジタルフレームを引き出しにしまう、その写真が消える瞬間、若いクロガネと肩を組んでいる男と目が合ったような気がした。いつも、その男に見つめられているような気がする。少なくとも、この研究所にいる間は、昼も、夜も、寝ている間も、起きている間も。だが――クロガネは呟く――だがしかし、もう遅い。もう、取り返しがつかないのだ。

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