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「成程、ここが南街区大通り中、か……一刻もかかるとは、中々に遠いな」


「ごめんね、お腹空いたまんま……疲れたでしょう?」


「いや、まだまだ大丈夫だぞ、例の皇帝陛下と私は違うからな」


 余裕のある笑みを殆ど崩さず、且つ表情の動きが少ないイークは、ラナにとって異質な存在だった。「竜の角」にも変わった客や従業員はいるが、彼らとはまた違う。シルディアナの普通の市民は総じて、ちょっとした話であっても、大口を開けて笑い、涙を流して悲しみ、拳を振り上げて怒る。この青年に比べたら遥かに表情豊かなのだ。


 乗り合い竜車の座席に腰掛けて肩が触れ合う隣同士、揺られて一刻。一般人でない何かを周囲に振り撒いているイークは、存在しているだけで自分が目立つことを自覚しているのだろう、騒がしい竜車の中でも出来る限り抑えた声で話し、少し笑ったり怪訝な表情をしたりするのみだったが、善き話し相手だった。彼はこれから行く場所に多大な期待を寄せていたのだろう、ひたすら料理人に関する話題を振り、ラナはそれに対して「竜の角」の料理長や女主人、看板娘のサイア、その他の従業員、酒や料理などの答えを、同じように囁き声で返した。小声であったから、当然のように互いの顔の距離は近くなった。それにも拘らず、全く照れた様子のないイークがその緑の目でじっと見つめてくるので、ラナは呑まれないように必死だった。かといって目線を外せば同乗している者の不躾な視線とかち合うので、別のところを見るなどという余地は一切なかった。「南街区大通り中」の停留場所で竜車から降りて二人分の料金を竜の頸に掛かっている袋へ投入した後、他の乗客の視線から解放されてほっとしたのは秘密である。


「さて、この近辺か?」


「うん、すぐそこに「竜の角」って、看板が出ているでしょう」


「成程、酒場の料理人か……確かに、酒によく合う味付けだったな、しかし今の刻から営業しているのか?」


 停留場所から乗り合い竜車が出発するのがラナの視界の端に映った。石畳で舗装された段差の少ない道は円を描き、その中には尾を高く上げた竜の像を基とする日時計が設置されている。陽の光を受けて影となった竜の尾が石板に彫られた共通文字を指しているのを見れば、現在は昼六の刻を少し過ぎたところである。正午から一刻と少しが経過していた。


 ほんの少しだけ連れ立って歩く、ただそれだけのことが、何だか奇跡的な出来事のようだ。そう考えながらラナが「竜の角」の扉を横に引いて開けると、機械鳥が囀る凛鳴放送の古典的で優雅な弦楽と、サイアの元気な声が出迎えた。


「いらっしゃいませ――あれ、ラナ? お帰り、早かったね」


「戻ったよ、サイア……お客さんをお連れしたけど」


「ええ、休みなのに、何をやっているの」


 夕暮れ時にはまだ早く、出入り口の扉を全て引いて開放していない「竜の角」は狭く見える。それでも、客は何人かいた……いずれも男性で雑な服を着ており、うだつのあがらない中年労働者だろう。そこに見目麗しきイークの登場だ、給仕をしていたサイアがラナの後ろにいる彼を発見して、驚いた表情を見せた。


「休みだよ、たまたま出会っただけ」


「ねえ、もしかしてお貴族様? やるわね、ラナ……お名前を窺っても?」


 看板娘に詰め寄られたイークは、戸惑った表情などは一切見せず、両手で三角形を作って胸の辺りで掲げた。貴族が謝罪する時の挨拶だ。


「すまぬ、忍びで参ったのだ」


「それは失礼致しました……どうぞ、こちらへお掛け下さいませ」


 明るくあっさりとサイアは謝罪を返し、他の客からはあまり見えない席の椅子を選んで引く。それを見ながら、ラナは戸惑いと優越感を同時に抱いた。イークが名乗らなかったのは由来の説明を省く為だろうが、自身は彼の名を知っている、何故だろう、面倒だったのだろうか?


「そうだ、ラナ」


 呼ばれて、ラナは顔を上げる。同時に、この場で彼の名を口にしない方がいいような気がした。


「何?」


「そなた、私がうっかり邪魔をしたから、食事の途中であっただろう……同席せよ」


 凛鳴放送の音楽が、それまでの弦楽から、幾日か前にシルディアナで人気の歌手が新しく発表した独唱に変わる。透明な女の声がのびやかに一途な愛を歌い上げる中、ラナはただ真顔で相手を見つめ返すことしか出来なかった。サイアが目を見開いて此方を注視している。


 何とか絞り出せたのはたった一言だけだった。


「……いいの?」


 すると、殆ど動かないイークの微笑みがふっと崩れ、口角と眉間に柔らかな微苦笑が浮かぶ。


「私が提案したのだ、良いも何もないではないか、早う」


 それから、奇妙な食事の席が始まった。


 白い保温箱に残っていたまだ温かい料理をナイフとフォークで突くラナの前で、サイアに品書きを持って来させたイークは、店の看板料理や酒を片っ端から頼んでいく。選ばれたのがサイアではなく自分であったことへの優越感と、保温箱の中のものを食べているという状況への侘しさと、目の前の貴族の青年への憧れと戸惑いが綯交ぜになって、彼女の心を妙にかき乱した。


 そして運ばれてきた草食竜の肩肉のワイン煮込みは、ラナの保温箱に入っていたものと同じである。たった一切れで食材を全て言い当て、尚且つ気に入ったのだろう。優雅な所作でナイフとフォークを扱う様は電子画を撮って残したい程に美しかった。イークはうっとりとした表情で食べながら、彼女に向かってこんなことを話す。


「竜を喰らうという行為は遥か二千年前から存在していたが、その当時は草食竜ではなく肉食竜であった、その頃シルディアナはイリスという名の都市国家に過ぎなかったが、竜の最高の宝である空を飛ぶ馬を手に入れることこそが権力と秩序の象徴とされており、竜を狩るという行為が竜の肉を喰らうというものと結びついたのだ、知っているか、興味深いだろう」


 ラナが中等学舎に通っていた時、民俗文化研究課程を専攻していた友人がバルキーズ大陸各地の伝説や神話を調べており、イークの言うことと似たようなことを興奮しながら色々話してくれたりした。内容については朧げにしか覚えていないが、その男の友人のことは強烈に記憶に残っている。ラ=レファンス魔法研究所へ編入したが、元気だろうか、と彼女はふと思った。


 この時刻には珍しく、体格の良い男性客が三人ほど訪れた。ラナとイークが座っている所をちらりと一瞥し、奥の席へと着く。三十歳は超えているぐらいだろうか、フェークライト鋼の尖塔建設業者にしては立派な身なりである。彼らはフィークス酒を冷たい水で薄めたものと、竜肉の油茹でを注文していた。


 スピトレミア地方の空を飛ぶウミウシとスピトのゼリー寄せ。スピトという植物には葉が存在せず、その幹には鋭い棘が生えているが、木々の葉と同様の緑色をしている。強く長い根で荒れ地の水分を吸い上げて貯蔵する為、果肉は瑞々しい。空を飛ぶウミウシは風精霊の力を使役しているとの研究結果が、シルディアナより北東に位置する森の中にあるラ=レファンス魔法研究所にて発表された。スピトの程よい甘味とウミウシの歯応えが、また食べながら蘊蓄を垂れ流すイークのお気に召したようだ。目を真ん丸に見開いて、どこか面白がるような表情だ。


「スピトレミア地方は元々肥沃な平野であったが、今から千年前に火の化け物が一帯を焼き尽くしたという話がある、魔法研究所や東方の犬人族の国ケールンはこういう見解を出しているのだ……その火の化け物は、とある強大な火術士であった犬人族が、火山に棲む火の竜の贄となる予定だった、しかし、火の大精霊を捕らえて西国へ出奔し、スピトレミア地方で精霊の怒りに触れて焼き尽くされ、怨念をも喰らった火の大精霊は火術士だけでは飽き足らず、辺り一帯を焼いて回った、という……ヒューロア・ラライナの水使いの戦士が、水の竜とラライーナの力を借り、火の化け物を鎮めたというのは有名な話だが、火の大精霊に関する事実は昨年明らかになった、他ならぬ火の大精霊ヴァグール様の証言だ」


「伝説と事実って全く違うのね、面白いけれど……ヴァグール様の話がなかったらずっと化け物扱いだったのかな……ねえ、貴方は、民俗文化研究課程を専攻していたの?」


「まあ、そのようなところだな……貴族の学舎は、首都立学舎とは全く違う」


 ラナが訊くと、イークは曖昧に頷いて答えを暈す。視線を何気なく店の奥へやると、サイアの視線とかち合って微笑みを返され、心の中で名状し難い何かが一声啼いた。同時に「竜の角」の引き扉が開けられ、今日はごく普通のシルディアナ市民らしい格好をした何人かの男が奥へ向かって歩いていく。途中でフローリシェに向かって、お疲れ様、と声を掛けて挨拶を交わしてから、従業員口の向こうへ消えていった。


 次は、シルディアナ外港で揚がった盾蟹の甲羅を鍋代わりにして沢山の具材と共に煮込んだ蟹味噌海鮮スープ。ほっとしたように目蓋を伏せる姿を見ると、ラナも安心感を覚えた。


「うむ、いい風味だな、雨季は雨に濡れて冷える日もあるだろうが、風味豊かで腹の底から温まる良き一品だ……盾蟹は巨大だからな、甲殻は丈夫故、甲羅も脚もちょっとした鎧になるぞ、外港の近辺に住む漁師が手足や胸を盾蟹の甲殻で保護しているのを何度か見たことがある……見張りの兵士、特に新人は甲羅を盾として扱っていたりもするな」


 奥の席にいた体格の良い三人組の一人が、机に小銭を置き、竜角羊の皮をなめして作られた肩掛けの小さな鞄の中をごそごそ探りながら出ていった。


 珊瑚樹の実の風味豊かな海鮮炊き飯。頷きながら、曰く。


「酸味と甘みが程よく調和しているな、もう一皿ぐらい食べられそうだ……炊いた米の粘度が良いな、少し水分が多めで、噛むと弾力があって、珊瑚樹の実、盾蟹やら小魚……ペルナの稚魚か、旨味が染みていて、兎に角美味いな」


 ラナが保温箱の中身を平らげた頃、料理長のナグラスが自ら、小麦粉をまぶしたアスヴォン高原産の牛肉の油茹でを持ってきた。


「お疲れさん、休みの日にすまんな、ラナが連れてきたお客さんは三人ぐらいかい?」


「お疲れ様です、ナグラス、一人ですよ」


「一人……だと……」


 呆然として呟いたナグラスの視線に気付いたイークはその時、珊瑚樹海鮮炊き飯の最後の一口をスプーンで大きく開けた口の中に放り込んだところだった。


「そなたが料理人か、美味の数々、感謝する……次は牛肉の油茹でか?」


 口の中のものを飲み込んだ彼はさらりと礼を述べ、僅かに口角を上げて優雅に微笑んでみせる。言外に催促を受けた料理長は目礼を返し、珊瑚樹の実の淡い色が僅かに残るばかりの皿と、牛肉の油茹での乗った皿を入れ替えた。


「おおっと、お貴族様でしたか……ナグラスと申します、以後どうぞお見知りおきを……仰る通り、此方が最後になります、牛肉の油茹でで御座います」


「そう堅苦しくせずともよい、良い香りだ……早速頂こう」


 早速牛肉の油茹でを丁寧且つ素早く切り、収穫期の米畑のような黄金色をした小麦粉の衣が付いた一切れを、イークは口の中に放り込む。油からあげたばかりの、サクッというくぐもった音が聞こえてきた。


「……うむ、美味い、噛む度に肉の甘みがじわりと広がるのがたまらんな」


 見守っていたナグラスがほっと安心した息を吐き、自信に満ちた笑みを浮かべた。


 牛肉の油茹でにつけるソースを置いて料理長が引っ込んだ後も、イークはラナに向かって何度も話し掛け、彼女は相槌を打ち、時には問いを返した。貴族の学舎で民俗文化研究課程を専攻していたと宣った筈の若者は、スピトレミア地方の領主の反乱について「元々独立した勢力だったがシルディアナが飲み込んだ地方であるから良い感情を持っているわけではないな、あの地方の領主に自治を認め、そこから帝国を遠方から徐々に切り離して解体し、小国がゆるく繋がる連合国家にする道が一番穏便かもしれないが、領地を持たぬ杖貴族の扱いが困難だ」という見解を述べ、凛鳴放送から流れてきた大怪盗の犯行予告に対しては「金や賄賂を裏で回して政治の主導権を取ろうとする者が貴族の中にもよくいるのだが、そういう者を狙っているな、この大怪盗とやらは」と一人で納得するという、専門課程の出身らしくなく、広い知見の一端が垣間見えるような話を、幾つも投げてきた。


「詳しいのは、民俗文化研究課程だけじゃなかったのね?」


 ラナがそう問えば、イークは食後のフィークス酒をちびちび煽りながら口角を上げてみせた。すべらかな頬がほんのり赤みを帯びて色付く様は、学舎の女生徒達も裸足で逃げ出すくらいの艶やかさである。


「杖貴族の子息は宮殿で文官か武官として立つ為に、領地貴族は己の地方を治める為に、様々な知識を蓄えるものだ……嫡子、庶子などは関係なく、な」


「貴方も、いつかシルディアナの何処かを治めるの?」


「さあ、どうだろう……その頃に帝国があるかどうか、わからないぞ――」


 イークが皮肉気な笑みを口の端に浮かべた時、入り口の引き戸の滑車が勢いよく滑る音がして、平和だった午後の食事時は終わりを告げた。


「いらっしゃいませ……?」


 ラナはうっかり今日が自分の休日だということを忘れて反射的に言っていたが、顔を上げた相手の眼力に射すくめられ、口をつぐんだ。


 うなじのあたりで結ばれた髪は太陽の色、此方を睨み付ける切れ長の双眸は海の如し、慌てていたのだろう、羽織すら着ていない張りのある筋肉を纏った逞しい胴が汗に塗れ、年の頃二十を過ぎたぐらいの青年は、息を切らしている。涼し気な美貌の貴公子だ、引き戸に凭れ掛かっていなければ。


「……捜しましたよ、ええ……御主人様」


「おや、サフィではないか」


 用があるのはラナではなかったようだ、余裕のある返答をした筈のイークの目が揺れ動いている……動揺しているのは明らかだった。ラナは驚くと同時に、ああ、迎えが来たのか、と納得した。


「貴方様は、また、お屋敷を抜け出されて、このようなところへ、しかも御一人で、おいでに、なられる!」


「構わぬではないか、今日やるべきことは全て終わらせたぞ」


「問題はそこでは御座いません、御主人様、せめて出られる際に私をお呼び頂ければ宜しかったものを……御身の尊さ、ゆめゆめお忘れなきよう」


「……喧しいなあ、サフィは、そもそもそなた、今日は非番であろう」


 サフィと呼ばれた青年も貴族階級なのだろう、市民の前であるからと必死に笑顔を取り繕おうとしていたが、それは無駄な努力ではないか、とラナは思った。無理矢理挙げた口角がひくひくと痙攣するように動き、凶悪な様相を呈している。いっそ怒った方がまだましだ、傍から見ているといささか滑稽である――そう考えた瞬間に、青年の顔も声も今度こそ怒りに満ちた。


「喧しい、ではありません、貴方様の御無事と御安全を担う身として、このように申し上げている次第で御座います、御主人様!」


「控えよ、サフィルス……客が驚く」


 氷水のようなイークの声、それはたった三言で充分だった。サフィルス――これが本当の名なのだろう――が目を見開き、小さく息を吸い込んだ。その場に跪いて頭を下げる所作からは、やはり平民らしからぬ優雅さが滲み出ている。


「見苦しい真似を致しました、申し訳御座いません」


「よい、そなたが私のことを案じているのは理解している」


「……ただ、私が非番の時でも構いません、ほんの小さなことであろうとも、御用の際はお呼び下さいませ」


 顔を上げたサフィルスの表情は何処か不満そうだ。もしかしたら、普段からイークはこの青年とシルディアナのあちこちに出掛けているのではないか、とラナは思った。


「そなたは顔に出過ぎるな、サフィ、私が平民の女子と共にいるからと嫉妬でもしたのか?」


「何故婚約者のいる私が女子供如きに嫉妬せねばならないのです」


 むくれた顔で早口に言い捨てたサフィルスを見て、イークは小さく声を上げて笑った。


「――そういうところだ、さて、そろそろ頃合いか」


 そうして、イークはグランス鋼の杯の中のフィークス酒を一気に飲み干しながら立ち上がった。まさか御飲酒まで、と呟くサフィルスを尻目に、絹の羽織の内側から巾着を取り出し、机の上に音を立てて金貨を置く――彼が飲食した量はとても一人分とは思えない程のものだったが、それでも提示された代金は飲食代の約十倍の額だ、ラナは目を剥いた。


「ラナ、足りるか?」


「お、多すぎるわよ、その十分の一、銀貨十枚でも、お釣りが出るわ」


「む、すまぬ、加減を間違った」


 サフィルスが信じられないようなものを見る目で此方を注視している。一応銀貨も持っているぞと言いながらイークは金貨を回収して、巾着の中をじゃらじゃら探り、十枚の銀貨を机の上に優しく落とした。


「釣りはそなたが取り置け、案内の礼だ……あそこのサイアという女子も私の話を聞いておるだろうし、はっきり明言しておこう」


「……いいえ」


 ラナは首を振った。これっきりで終わってしまうかもしれない、と気付いた瞬間、初めてイークの姿を見た時に感じた妙な懐かしさが再び湧き上がってくる。彼女は踵を返し、サイアのいる勘定台からシヴォライト鋼製の店の小銭入れを取り上げた。


 仕方がないと諦めたサヴォラ免許のようにはしたくない、あの時、何とかして学舎に通う方法もあったかもしれない、資格と人は別物で比べるべきではないとは理解しているけれど。そう考えながら、ラナは釣銭のぶんだけ銅貨を取り出す。サイアの丁寧な字が躍る注文書きの写しの上に乗せてイークの元へ戻り、きょとんとした表情の彼に向かって差し出した。


「あのね、お金の為にやったことじゃないから、ちゃんとお釣りは受け取って」


「……しかし、私は礼がしたいのだ」


 顔から笑みが消えて心なしか気落ちした様子のイークは、酒のせいで血色が良くなり目が潤んでいることもあって、何処か庇護欲を誘う。ラナはつい微笑んだ。


「じゃあ、また来て……貴方の話、とっても面白かったから」


 てっきり大輪の花が咲くような美しい笑みを見せるものだと思っていた、しかしイークは、高原に咲く小さなエルカのように、その翠の瞳を伏せ、控えめで可愛らしい微笑を口元に浮かべるのみだ。


 徐に、右肩を強く、優しく掴まれて、ラナは息を呑んだ。雨季に出ずる若木のようにしなやかで線が細いとばかり思っていた彼の右手は、紛れもなく男のもの。同時に、差し出した手を釣銭ごと握られて、鼓動が速くなった。


 先ほどまで呑んでいた酒のせいだろうか、健康な人間にしては少し熱い息が掛かるのを耳で感じる。グランス鋼の窓から差す陽の光を受けてきらきらと輝く金糸が、ラナの頬を掠めて、ロウゼルと何かを寄り添わせたような甘く爽やかな香りが、鼻と心を擽った。


「……そなたに会えて今日は楽しかった、また、来る」


 イークが離れ、微笑み、踵を返し、引き扉を開けていたサフィルスについて出て行き、手配していたらしいサヴォラに乗って飛んでいってしまっても、ラナはぼんやりしたままそこに立ち尽くしていた。サイアが心配して話し掛けるまで、放心していた。


「……ねえ、ラナ、大丈夫?」


「……まさか、ね」


 随分経って、やっと言えたのはたったそれだけだった。


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