19

「……そう、貴方の兄さんが「竜の角」で待っているから」


 項垂れてぽろぽろと涙を零す彼の髪をそっと撫でながら彼女が囁けば、勢い良く顔が上がるのだ。金糸が跳ねた。


「……あにうえが「竜の角」で?」


「うん、ナグラスとオルフェが、美味しいものを作って待っている、って」


「……あの、戦士のように大きな料理人か?」


 彼女は思わず吹き出した。


「そうだよ……行こう、イーク」


「……だが」


 彼はまた俯いた。小さな電子画を抱き締めたまま、その首をぶんぶんと振る。


「もう、宮殿は囲まれている、私に付いてきていた者は消えた……近衛も見えない、そして私は……皇帝だ、其方、私と一緒にいたら、どうなるか」


 わからない、と、彼は言うのだ。


「私はここで……皇帝でいることで、私の命を責任とすることで、私一人でいい、其方を巻き込むなどごめんだ、風の――」


「本当に、そうしたいの、イーク?」


 その両肩を掴んで、彼女は訊いた。涙に濡れた翠の双眸が鋭く睨みつけてくる。


「……やはり、其方は何も知らない!」


 彼は叫んだ。覚悟の定まりきらない、苦悩に満ちた悲壮な声が互いの鼓膜を揺らした。


「だから何よ! 知っているとか知らないとか、何よ!」


 彼女も叫んだ。あっという間に吹き上がった怒りが、ヴァグールもかくやと思う程の熱を、互いの間に放った。


「何とは、何だ、其方は、ラナ……其方が、私の何を知っている! 閉じ込められることもなく、皇帝の責任などとも無関係で、育ちが貴族でも何でもない、ただの酒場の従業員だった、ただの市民の其方に! 何がわかる! ギレークやウィーリウスの命を、この命をかけることの意味すら知らない、其方に!」


「何よ、私が下層市民育ちだからって、馬鹿にしているわけ?」


 怒鳴れば怒鳴り返す、その応酬が続く。


「馬鹿も何も、知らぬであろう、と言っているのだ、わからぬか?」


「……何を、わからないから、訊いているだけよ!」


「――言ったところで、理解出来るのか?」


「わからないよ、そんなこと、私にも! どうして大事なことを何も言わないうちからそうやって言うの!」


 彼女は俯いた。会いたいというそれだけの為に突っ走ってきた彼女は、彼を知ろうとしていなかった自分に気付いて、拳を握り締めた。


 二人は互いに泣いていた。


 彼は顔を逸らした。己以外にどうしようもない、行き場のない怒りをぶつけて、自分が彼女を傷つけてしまったことに気付いて、唇を噛んだ。


 そうして、言うのだ。


「……もう、こんな私なんて、嫌いだろう、置いていけ、ラナ」


「嫌だ」


 彼女は囁いて彼の手を取り、首を振った。すると、置いていけと言った筈の彼の手が、しっかりと握り返してくるのだ。


「嫌だ、ねえ、貴方が死んだら責任が果たされるの? 誰がそれを認めるの? 貴方だけが満足しているとかじゃないの? それとも違うの? あのね、私は嫌だ、貴方がこんなところで死ぬのは嫌……私は、絶対に、絶対に、嫌だ!」


 僅か八日間を共に過ごした居室の床の上で、互いに縋って、二人は止まらない嗚咽を繋いだ手の上に次々と落とし続ける。睦み合った二人を知るその空間だけが、それを見ていた。


「嫌だよ、責任とか、そういうのとか、置いておいて、私は、生きたいよ、イーク」


「……私だって、私だって、夢見ていた!」


「夢で終わらせるつもりなの? どうして?」


「……叶うと思っているのか、そのようなこと、ラナ?」


 彼女はイークライト・シルダという名の青年を真正面から見つめる。電子画を持ったままだらりと垂れ下がった腕を取り、その瞳に真っ直ぐ向き合って、嘘偽りのない己の心を言葉にした。


「叶うとか、叶わないとか、どうでもいいの……私はね、貴方と一緒に……イーク、貴方と一緒に、生きる未来が欲しい、私は、貴方との未来を諦めない、絶対に」


「――ラナ」


「嫌いになんかならないよ、イークはいつも私に寄り添ってくれた、「竜の角」で一杯私の話を聴いてくれた、わかろうとしてくれたじゃない、イークとなら、何処へだって、行ける」


「ラナ」


「大好きだよ、イーク」


 彼女は囁いて、彼の唇にそっと口付けた、そよ風のように、音もなく、優しく。


「だから、一緒に行こう……駄目だったら、一緒に、風になろう」


 再び部屋の中には沈黙が満ちた。


 彼は雷に打たれたような表情をその顔に浮かべていたが、何も言わなかった。ただ、己に触れた温もりを逃がさないように、彼女の両手をぎゅっと握り返した。


 と、突如、サヴォラの尖塔が立ち並ぶこの広い宮殿の何処かで、誰かが何かを破壊しようとしているのだろうか、凄まじい爆発音が外の空気から部屋の壁から伝わってきて、全てを揺らした。


 全てが、音の方向を振り返る二人を追ってきている。


 だから、彼女は言った。


「時間がないわ、イーク、行こう」


「行くとは、何処にだ――」


「覇王の剣があったところの、窓の外にサヴォラを置いてあるの……さあ、早く着替えて、何でも粗末な服に、それこそ、小間使いみたいなのがいいかもしれない――あそこ、衣装部屋でしょう、一つぐらいあるよね、速く!」


 ラナの視界に映るイークは何かを決心したような表情できびきびと動き始めた。すぐさま電子画を近くにあった長椅子の上に置き、衣装部屋の扉を開けて中に潜り込み、しばらくごそごそやってから、息を切らし、髪をぐしゃぐしゃにして戻ってきた。その手にはお忍び用だろうか、庶民的で質素な服が抱えられている。


「……これで大丈夫か?」


「うん、いいわ、もうそこで着替えて……後、髪をどうにかしないと、外に出たら一発でばれて、群衆に揉まれて、大変なことになるかも」


 彼がその場で大急ぎで着替えている間、ラナは室内の棚や机の引き出しを漁って散髪に使えそうな鋏を探した。手紙の封を切る時に使うような小さいものしか見つからなかったが、それでも構わない。チュニックの腰をズボンごと帯で縛ったイークが近付いて来るのを確認すると、彼女は長椅子を叩いて鋏を手に取った。


「座って」


 言えば、彼はぎょっとした顔で身を引いた。


「……そなたが切るのか、ラナ?」


「いいから早く、時間がないの、私、自分の髪は自分で切っているよ」


 半ば無理矢理イークをそこに座らせ、肩口で綺麗に切り揃えられた美しい髪をラナは躊躇うことなく、うなじのあたりでざっくりと切った。彼が肩を強張らせたのを感じたが、構うものかと横髪にも鋏を入れた。彼女は竜人族のマルクスの髪形を思い浮かべていた、さっぱりと短い、そこらを歩いていそうな、そして今の自分がさっさと整えられそうな。


「ごめんね、後でもっと、ちゃんと整えて綺麗にしてあげる」


 ラナは更に彼の金髪を短く整えていった。前髪にも手を加えた。一通り終わった後に彼の顔を正面から覗き込んでみれば、そこにはすっきりした頭の青年が座っている。間に合わせにしてはいい出来だと満足感を覚え、彼女は彼の瞼、頬や肩に引っ掛かった髪の毛を手早く払いながら言った。


「終わったよ」


 宮殿の何処かでまた爆発が起こったようだ、先程よりも近い、不吉な重音が再び城内に轟く。ぐずぐずしている暇はなかった。イークは頷き、覇王の剣を鞘に仕舞って手に取ったかと思えば、先程まで身に着けていた羽織で鞘の上から巻き、帯の隙間に差した。それをどうするつもりなのだろうか、しかし放って行くわけにもいくまい、今から二人は剣の間から外へと出るのだから、そこへ突入してくる筈のアリスィアに破壊して貰えばよい話だ。


 ラナも頷き、開きっぱなしの扉へと二人同時に視線を向けた時だった。


「――陛下、イークライト陛下!」


 彼は目を見開いた。


「――まだ逃げていなかったのか、キウィリウス」


 その囁きに、彼女は息を呑んだ。


 グナエウス・キウィリウス。


「お部屋にいらっしゃるのですか、陛下――」


 ラレーナ、と彼女を呼んで、愛おしそうに笑った声が、近付いてくる。


 二人は動くことが出来なかった。


 その一人の男は、森の色をした裾の長い羽織と胴着、下穿きを身に付けていた。蔓と花の刺繍が施されており、一目で何処の地方の意匠であるのかがわかった。後頭部に撫でつけているイオクス材のような色の髪を乱して、荒い息をついている。


「陛下、お逃げ下さい――」


 宰相キウィリウス。


 此方を見据えたその人は息を呑み、目を見開いた。そして、掠れた声で、言った。


「……ティリア?」


 彼女は自分の耳を疑った。どうして、この男は自分の母の名を呼んだのだろう?


「……それは、私の、母さん」


 答えると、宰相は暫し押し黙った。そして、二人に一歩近付き、口を開く。


「……君は、君が……いや、アル・イー・シュリエの、生き残りだね」


「……ちょっと違うかな、私は、そこに……行ったことが、ないから」


 ラナは囁いた。


「……今まで、何処に?」


「帝都と、スピトレミア」


 イークの気配が、何かを言いたげに、彼女の羽織の裾をぎゅっと掴むのがわかった。


 宰相キウィリウスの視線は、青年の左腕に嵌まっている腕輪に注がれる。それから再びラナを振り仰ぎ、じっと見つめてきた。彼女と同じ色をした深い緑色の目には、この場には似つかわしくない、誰かに対する喜びと悲しみが混ざり合ったようなものが宿っていた。


「……名は?」


「ラナよ」


 耳の奥から聞こえる鼓動の音が、大きい。


 彼女がそう名乗った瞬間、宰相の瞳が大きく揺らぎ、その人は再び囁いた。


「――ラレーナ?」


 同じ声だ。


 だが、彼女は首を振った。


「ラレーナ・キウィリウス・サナーレは、死んだ、私は……私は、ラナ」


 すると、宰相は歩を進めてきた。イークの前で立ち止まり、彼の左腕をそっと伸ばして、彼女に見せるのだ。


「陛下、失礼致します……これを知っているね?」


「……母さんの、形見だった」


 嘘をつくつもりはない、彼女は頷いた。ずっと身に付けていたから。


 イークが固唾を飲んで見守っている。


「この腕輪は、私がティリアに贈ったもの……ということになっている、公には……これを持っていた筈の娘は、主の間で、炎に巻かれた筈だったな……そう、出会った時だ、私が官僚としてアル・イー・シュリエの視察に出向いたのだよ、そこに着いてみれば、ティリアはどういうわけか屋根の上から落ちそうになっていて、咄嗟に私が助けたのだがね、この腕輪を壊してしまった」


 宰相キウィリウスの唐突な話は、彼女が知らなかった事実をこんな時に、そう、ぐずぐずしている場合ではないこの時に、目の前に突きつけてくる。


「どうやら大切なものらしかった、私もその原因の一端になってしまったから、責任を取ろうと思ってね……官僚であったけれども、彫金の資格も持っていたから、力になれると思った……そうして話を聞けば、それはとんでもないものだった……私達は、誰にも言えない秘密を共有してしまった……ティリアは、夜毎に、白い竜の夢を見る、と言っていてね……ひょっとしたら、君も見たかな」


「……うん」


 彼女は驚くままに頷いた。母も、あの夢を見ていたのだ。


「詳しく聞いたよ、夢の話も、剣と腕輪の話も……何か危ないことがあると他の種類の夢も見るから、色々な危ないところに連れて行ってくれ、なんて言われて、たまげたね……ティリアは、何にでも突っ込んでいく勇ましい人だったよ」


「……母さん」


 宰相はそっと微笑んだ。昔を懐かしむように細められたその目は、何処までも優しい。


「アル・イー・シュリエの村に伝わる百年の期限が迫っていた、ティリアは、どのように力を返還させるか悩んでいたらしい、そこに宮殿と連絡を取れる官僚、私の視察だ……腕輪の修復という名目で、帝都に優秀且つ皇帝に取り入ることの出来る力のある技師がいないかどうか、探ろうとしていた、たまげたものだ、まんまと私はティリアに引っ掛かった」


 その鼻の奥から笑みが零れたのを聴いた。物語が、父の声をした人間の目の向こうにあった一つの過去が、彼女の耳から、身体の隅々まで、全てに染み渡っていく。


「私は、一官僚で終わって、彫金の資格で装飾品でも作りながら、後はゆっくり生きるつもりだった……だが、想像すらしていなかったよ、私は帝国の根幹に関わる色々な秘密を知ってしまった……出世をする必要が生まれた、無理矢理野心を持ち……そう、陛下のご生誕と時を同じくして、ティリアが娘を生んだ。ティリアによく似ていた……目の色だけはアル・イー・シュリエの人々の蒼ではなく、私と同じだった……そう、私は宰相にまで上り詰めた、ティリアと娘を守る為に、アル・イー・シュリエの為に、ひいては、帝国の為に……だが」


 その人は言葉を切った。守ろうとした村を焼く決断を下したのは他の誰でもない、グナエウス・キウィリウスだった。


「……出来なかった」


「……でも、やろうとした」


 彼女は言った。だが、相手は首を振った。


「失敗だ、アル・イー・シュリエを守れず、政敵を作り、その目から逃す為、私は妻と娘を逃がした」


 沈黙が降りた。


 視線がぶつかった。互いにそらすことが出来なかった。宰相は再び口を開く。


「私が修復して、ティリアに贈った……君はこれを形見だと言ったね?」


「うん」


「……そうか」


 キウィリウスが、そっと手を伸ばす。ラナは避けなかった。温かく大きな手が、彼女の髪に触れ、頬を優しく、愛おしむように撫でて、離れていく。


「行くのかい?」


「……うん、もう、行かなきゃ」


 それを責めるような声音はなく、見つめ返してくる瞳はとても澄んでいて、どこまでも穏やかだった。


「なら、行きなさい……最後に、訊いておきたいことがある、ティリアは今、何処に?」


 彼女は首を振った。その代わりに、母の今際の言葉を思い出した。


「去年、病気で死んだ……何処って言うなら、南街区の光精霊殿が母さんの最期の場所だった……もしあの人に会ったなら、分かっていたけれど傍にいるのが辛かった、愛している、って伝えて、なんて言われたけれど」


「そうか」


 宰相キウィリウスは暫し何かを懐かしむような表情を浮かべてから二人にくるりと背中を向け、もう一度、今度は、行きなさい、と言う。


 それは深い悲しみに満ち満ちて、だがしかし至極優しい声音だった。


 何かを決意したようなその後ろ姿を、ラナはどうしようもなくやりきれない想いを胸に、じっと見つめた。自分の家族は、もうティルクだけしかいないと思っていた。だが、いるかどうかもわからなかった父親が、生きてここにいる。自身と血を分けた家族が、帝国の貴族、宰相キウィリウス――母の故郷を焼いた人、焼くしかなかった人。


 以前からわかっていたことだった、それでも。


 彼女はただ震えた。


 イークがそっと呼び掛ける。


「……ラナ」


「ええ、わかっているわ」


 宰相をその場に、二人はすぐ傍の階段を上へと駆け上がった。近衛騎士は一人もおらず、最早障害は何も残っていなかった。白い竜の彫刻を回り込んで、割った窓に辿り着く。


 果たして黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダは来た時のまま、そこで持ち主を待っていた。


「これか、ラナ」


「そう、窓から出て、乗って……」


 だが、そうは言ったものの彼女は動くことが出来なかった。


 自分と同じ色をした、あの目が忘れられない。侵入者であり敵であるにもかかわらず、穏やかに、あれだけの確信を持って彼女自身を射抜いてきた視線。そして、ラナにとっての母を愛おしげにティリアと呼んだ、あの人は――否、あの人は、他の何者でもなく。


 声は勝手に震えた。気が付いたら口に出していた。


「……駄目、私、行けない」


「ラナ?」


「イーク、私――戻らなきゃ、二人だけじゃ駄目」


 彼女は身を翻し、即座に駆け出した。後ろでイークが名を呼んだのが聞こえたが、そこにいて、と叫ぶぐらいしか出来なかった。今、頭の中は宰相――違う、この言い方は全くもって正しくない――のことで一杯だった。ああ、まだあの人はその場にいるのだろうか、それとも、既に何処かへ行ってしまっただろうか。だが、関係ない、自分は何としてでもあの人を探し出さなければいけない。もしかしなくとも、いや間違いなく、彼女にとってグナエウス・キウィリウスは――


 彼女は必死だった。一段飛ばしで階段を駆け下り、皇帝の部屋の前に滑り込めば――これ程までに精霊達に感謝の祈りを捧げたくなったことは今まで生きてきた中で一度もなかっただろう、幸いなことに宰相はその足で居室の中に立っていた、まるで何かの終わりを出迎えるかのように――


 ラナは震える喉を振り絞って、叫んだ。


「――父さん!」

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