20

 宰相グナエウス・キウィリウス――父は、弾かれたように振り返った。


「ラレーナ――ラナ」


「行こう、ここから出よう、一緒に……父さん!」


 驚愕に見開かれたその深緑色の目は、大きく揺れ、そして己に生きる予定などないと言いたいのだろうか、視線は何処か悲しそうに下を彷徨う。


「だが、自分は民にとって倒されるべき存在だ、この帝国では宰相であって……それに、今までも、父親らしいことなんて――」


「いいの、そんなこと、もうどうでもいいの!」


 必死に、声を振り絞って、彼女は何度も首を振った。


「ティルクが死ぬほど怒ると思うけど、そんなこと、どうでもいいの! 私もよくわからなくて、まだ信じられないというか、何かよくわからないけど、でも――」


 ラナは父に走り寄り、その服の袖をしっかりと掴んだ。


「行こう、父さん、ちょっとでも死にたくない、って思うなら、行こう、私、父さんと一緒に暮らしてみたい……どうせイークの部屋に使用人の服がもう一着ぐらいあるから」


「……ラナ」


「一緒に行こう」


 父は、頷いた。


 後ろを振り返ると、イークがいつの間にかついてきていた。ラナが振り返って彼と言葉を交わす間、皇帝の居室の中に掛け込んだグナエウスが凄まじい速さで着替えを終えて、飛び出してくる。そして懐を探り、部屋の中に何かを投げ入れた。


 直後、イークが部屋の中に舞い戻る。一瞬で飛び出してきた彼が引っ掴んでいたのは、少し古くなったシルダ家の笑顔を集めた、小さな電子画だった。


 そう、邂逅の時に心の中で生まれた様々なもの、明らかになった真実の数々を吟味するのは今ではない。三人は急ぎ、爆発音が皇帝の居室らしき所から聞こえても、振り向かずに走り、階段を駆け上がって、覇王の剣の間にある窓まで辿り着いた。


 息を切らす暇もなく、彼女は今やその座を追われようとしている皇帝を更に追い立てて窓をよじ登らせ、黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダに押し込んだ。次いで、宰相の肩書を宮殿とともに捨てようとしている父を行かせた。衣嚢を探って二人に予備のラウァを放り投げ、イークの懐近辺にある動力機を起動させ、勢いよく風が吹き出る、彼女は急いで自分もラウァで目を覆い、黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダの下部に伸ばしておいたままの車輪軸の、地面と平行になるように張られた棒の前方を、咄嗟に引っ掴む――


 目の前に、竜の顔があった。


「ラナ!」


 動力機は闇纏う魔力の翼を竜翼の形に展開させ、黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダは夜明けの空に舞い上がった。声が聞こえる、レフィエールの末裔の、アリスィア。歯を食い縛って、声がした方を見れば、ラライーナがウィータの頭の上に向かって、突起が連なるその背中を全速力で駆けていた――


「ラナ、こっち!」


 ――鎚を大上段に構えている。


「アリスィア!」


「ケイラト=ドラゴニアを、覇王の剣を!」


 ラナは叫んだ。


「イーク!」


「どうすればいい!」


 落ちていくのは戸惑うイークの大声。彼女には見えない。だから、もう一度、叫んだ。


「投げて!」


 刹那。


 放物線を描いて、抜き身の剣が、昇ってきた朝日を受けて煌きながら、飛んでいく。


 ウィータの頭の上で振り上げられたクライアの鎚は、捕らえた、その美しい光を。


「――行け」


 誰がそれを叫んだのだろう。


 五柱の精霊王が明滅し、竜を象り、波動を生んだ。


 剣が砕ける澄んだ音が、帝都に響き渡る。砕け散った先は数多の破片、鎚の衝撃は竜の涙を受けた鉱石を砂へ還し、全てが、そう、打ち上がった何もかもが、降り注ぐ精霊達へと姿を変え、火吹き山より燃え盛り、大地を回る飛沫となり、若芽と花を撒き散らし、豊穣を呼ぶ稲妻の如し閃光となり、明けゆく夜の破片を抱きて。


 生の息吹は己の誕生に歓声を上げ、世界を謳い、舞い踊った。


 地平線は金色に輝き、天に伸びる幾つもの尖塔の遥か上に瞬く星々が、シルディアナの帝都に永遠の別れを告げようとしていた。この国は変わる。吹きつける風の中、必死に両手で車輪軸を掴み直したラナの耳に、青年の叫び声が聞こえてくるのだ。


「どうすればいいのだ、これは――何をどう動かせばいい、ラナ!」


「俺に代われ、そして腰にしがみ付け!」


 黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダは、上昇気流を捉えたはいいものの操縦者が訓練を受ける筈のない――受けていない者だ、縦に横に揺れて彼女を振り落とそうとする。それが、少し後にぴったりと止んだ。


「ラナ、無事か?」


 今度は幾ばくか落ち着いた父の声が降ってきた。背中の筋肉と脚部装甲の力を使って、後方の車輪軸に何とか足を引っ掛けて体勢を立て直し、彼女は息をついてから応える。


「大丈夫よ、父さん……父さんが操縦しているの?」


「そうだ、これでも昔はサヴォラ乗りだったからな!」


 ラナはそうだったの、と大声で返して、自分の視界に下の景色を映した。帝都のあちこちから炎が上がり、第一城壁の内側、宮殿の兵器庫と思しき所が見るも無残に破壊され、瓦礫の山と化している。フェークライト鋼の残骸が特に目立ち、宮殿に近い方を見やれば高い尖塔が数本、根元から崩れ落ちていた。あの残骸に巻き込まれて、何人が傷つき、命を落としただろう。


 本当にこれが自分の、ティルクの、マルクスやエレミアの、アーフェルズの、アルジョスタ・プレナのやりたかったことなのか、と彼女は考えた。確かにアーフェルズ――アルトヴァルト・シルダが考えていた通りに、この国の統治機構は変化するかもしれない、しかし――


「全く、私は……どうしていいかわからない! 恐ろしいことに、前も、今もだ、皇帝としても情けなかったが――」


 再び、イークの大声が聞こえてきた。帝都の上空には、大声で交わされる言葉を拾う者など竜とラライーナぐらいしかいない、彼らも既に遥か下へと過ぎ去った。私もわからない、などと言い返そうかと、吹きつける強風の中で口を開こうとしたが、父の方が早かった。


「そうだ、今は皇帝陛下などという立場は消えてなくなったから、敬意を払う必要もないってことだ、イークライト! そういうわけで、君の頭にサヴォラの操縦の仕方を叩き込んで、免許を取って貰う必要があるな、娘に出来ることは未来の息子にも出来た方がいいぞ! 宰相は帝都地区の免許の認可、発行担当でもあったからな、安心しろ!」


「な、何だって、キウィリウス――」


 父は爆笑しながら、彼女に向かって、訊くのだ。


「そんなことより、何処まで行こうか、いや何処に行くべきだ、ラナ?」




 南街区は浮足立っているようで、しかし、静かであった。


 黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダの発する音は微かに、だが、「竜の角」の建物の裏に存在する路地において、着陸しようとしているその機体と翼は朝日を浴びて黒く、存在感を確かにしていた。尤も、反乱軍アルジョスタ・プレナ――今はもう反乱分子と見なされるものではないかもしれない――のサヴォラが一機や二機飛んだところで、ああだこうだと騒ぐ者もいないのだが。しかし、「竜の角」から漏れ聞こえてくるシルディアナ放送の生中継によると、帝国の法自体は手を加える前であるからまだ生きていることに相違はない、三人乗りはれっきとした違法である。


 ラナは後輪の間に渡された棒から脚を引き抜き、片手でぶら下がり、もう片手で両足の脚部装甲を起動した。風が生まれ、彼女は石畳へと身を躍らせる。空気の弾力が音もなく石を蹴って、衝撃を逃がし、身体を回転させ、そこで風魔石が尽きた。


 小気味良い音が、新たな目覚めを迎えた街に響く。


 それに並ぶようにして黒風の翼フェーレ・ラフィミア・エイルーダが、動力音を徐々に弱めながら、後方から車輪を石畳に接触させ、滑らかに着地した。


「何処に停めればいい、ラナ?」


「その辺で大丈夫だよ」


「……道の真ん中だが」


「気にしなくていいよ、ゴミ回収の人以外に人は通らないから、ここ」


 ラナはラウァを額の上にずらして、闇色の蜜鳥の翼を細かく振動させている父に答えた。彼女だからこそ知る「竜の角」の事情である。業者が回収しに路地裏へ出向いてくるゴミの日は各月の三と六の倍数の日であるので、十二の月の朝である今日は何もない。


「イーク、父さん、こっち」


 二人が付けていたラウァを回収して、彼女はその建物の裏口の扉を開ける。木の軋む音が石畳の上を黒虫のようにさっと這って消えていった。中から物音が聞こえる、少し遅れてスープの温かい香りが歓迎するかのように漂ってきた。


「……いい香りだ」


 イークが呟いた。その途端、腹が鳴く音が廊下に響く。恥ずかしそうに腹を押さえる気配がラナの後ろで微かに動いた。


「ナグラスかな」


 その予想は正解で、厨房に続く扉を開けた瞬間、その料理人は振り返って笑顔を見せたのだ。


「おお、ラナ、戻ったか!」


「ただいま、ナグラス」


 ナグラスが包丁を手にしたまま両腕を拡げる。その中には飛び込まず、彼女はただ微笑むだけに留めた。


「ちょっと、振り回すと危ないわよ、ナグラス、気を付けて頂戴」


「おっと、いけねえ」


 オルフェがその向こうから顔を出して言ったものだから、料理人は残念そうな顔をして肩を竦めた。

「竜の角」の女主人であるイェーリュフの女は、手を拭きながらラナに向かって朝日のように燦然と微笑むのだ。


「その様子だと首尾よくいったようね……アーフェルズはまだ戻っていないわ――」


 それが、驚愕の色に染められた。


「――予定より人数が多くないかしら、私が聞いていたのは二人だけれど?」


「何だって、オルフェ――あ」


 彼女は振り返った――ちょうど自分の肩のあたりからイークが顔を出して鼻をひくひくさせながら恐る恐る厨房を窺っており、その後ろにいるのは、ばつの悪そうな顔をした父。


「……いや、すまない」


「何だって、宰相さんじゃねえか!」


「しっ、静かにして、ナグラス」


 思わず叫んだナグラスは、ラナの鋭い声に、慌てて自分の両手で口を塞いだ。そのはずみで包丁が飛んで、刃が誰かに刺さる前にその柄を上手く掴むのはオルフェである。


「ちょっと、だから危ないって、ナグラス!」


「いけねえ、いけねえ、すまん……ところでお偉方、何かお食べになられますかい?」


 イークとグナエウスが顔を見合わせる。それを見て、彼女は微笑むのだ。


「もう偉い人じゃないよ……この人達は、こっちがイーク、こっちが、私の……父さん」


 すると、ナグラスとオルフェは少し驚いた顔をした後に、揃って歯を見せ、笑った。


「……そうか、お前の父さんか!」


「サヴォラの三人乗りは違法よ、ラナ」




 玉葱とアスヴォン産高原の牛の尾の肉を煮詰め、東部湿原産の米を発酵させて加工した調味料で味をつけた薄く透明なスープを啜ると、彼女はとても幸せで満たされた気持ちになった。朝にぴったりなヴァグル海老とラフィミール貝の身を使った海鮮炊き飯はあっさりとした味わいで、夜通し起きていた三人の胃にじわりと染みた。米を叩き潰してひとまとめにし、それを細く切って加工した麺は糸茹でと呼ばれていて、スープに付けて食べれば、つるりとした喉ごしを味わうことが出来た。こんなところで食べている場合だろうか、という表情をしていたイークとグナエウスも、酒場「竜の角」の料理長の作る絶品を一口食べれば、そんなことは頭から吹き飛んだようだ。食卓に並ぶのは、ロウゼルの葉から抽出されたお茶ではなく、麦を炒ったものを細かく砕き、湯で濾したそれである。


「……美味い」


「父さんなら、美味しいものを一杯食べてきたと思うのだけれど」


 父が首を振りながら思わず漏らした感想に、ラナはふと思ったことを言ってみた。すると、満足そうな溜め息をつきながら、その人は言うのだ。


「染みる味と華やかな味の違いだ」


「そうだ、彼は素晴らしい料理人だぞ……だから私もここに通い続けた」


 得意そうな声の発信地であるすぐ隣を、グナエウスはじろりと睨みつけるのだ。


「……脱走先はここだったか」


「あっ」


「全く、ランケイアの三男が苦労している噂はよくアダマンティウスから聞いていたがね」


 イークは椅子の上で縮こまった。そして、飛び出したランケイアという単語に、何かを思い出して、スプーンを置くのだ。


「……サフィ」


「どうしたの、イーク?」


彼女が訊けば、彼は声を震わせるのだ。


「サフィ、あやつ、大火傷を負って」

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