18
「……私は」
何処までを正直に言っていいのか。彼女は短剣を胸の前で掲げたまま、躊躇った。レントゥスの手はまだ、腰の得物には掛かっていない。
「陛下の暗殺か、それとも」
その硬い踵が一歩、近付く。
「君が、新たなる風か」
深い青の双眸が射抜いてきた。彼女は、口を開く。
「……ラレーナ・キウィリウス・サナーレは、死んだわ、もういない」
「では」
すらり、と、金属の擦れる音。近衛騎士団長が得物を抜いたのだ、その剣の切っ先は、夜の帳を切り裂いて差し込む暁の太陽の光のように、煌めく。
「そこに立つのは、誰だ?」
「……私は」
彼女は、上げた腕を下ろした。短剣を鞘に納め、背筋を伸ばす。炎と土の生んだものに、風を切ることなど出来ない。形を変え、時を越え、全てを包み込む。
「私はラナ」
風は、昼と夜を切り裂いて。
「好きな人を迎えに来たの、イークを」
何処までも飛んでいくのだ。
「……誰の意志だ」
「私の……あと、ちょっとだけ、イークのお兄さんも」
「……兄?」
本当のことを伝えておきたくなって、肩を竦めてそう言えば、レントゥスの目が見開かれた。
「まさか、アルトヴァルト殿下」
「……知っているのね?」
「御存命で」
その声が、剣先が、震えている。何か特別な思い入れがあったのだろうか、と、ラナは思いながら続けた。
「うん、イークが楽しく生きていけるような未来を、守りたいって、たった一人残った大好きな弟だから、って……アルー・ウ・ゲル・オースタ」
「――光を支えるもの」
「聞いていたの?」
「……殿下の母御、アルフェリア様の御言葉だ、あのお人は言語に堪能であられた」
近衛騎士団長は震える剣を鞘に仕舞った。暫く目を伏せ、それから、全てを悟ったような表情で、彼女と視線を合わせてくる。まるで蒼い炎が燃えているようだ、と思った。
「私の役目はここまでだ」
静かな言葉は、近衛騎士達の鎧が擦れる音の間に落ちる。意識を取り戻しつつあった彼らは、呻き声を漏らしながら頭や腕を動かし、相対する二人の姿に気付き、腰の衣嚢を探る自身達を束ねる将軍が魔石認証鍵を出したのを見て、息を呑むのだ。
「ならば、ラナ」
レントゥスは彼女にまた一歩近付いた。
「君に、イークを頼む……風のいとし子」
差し出されたそれを受け取る。ラナは、風渡る夜の狭間に微笑んだ。
「ありがとう、任せて」
「……また会える日が来ることを、願っている」
近衛騎士団長は近衛騎士を整列させる。自らは無線機を取り、一人の青年を探すように、と、その向こうへ報せを送る。それから、その人は宣言した。
「……イークライト・シルダは、死んだ」
近衛騎士達は一礼し、今度は伝令として、全てが八方へ散った。レントゥスも共に。
こんなにも、いつものように小言をぶつけて欲しいと願ったことはなかったかもしれない。或いは罵って欲しかったのかもしれない。いっそ嫌いだと言って欲しかった。そうしたら罪悪感を抱かなくて済んだのに、と、強く、強く思うのだ。
その胸に手を、耳を当てて心音を聴いたから大丈夫だ、それはわかっていたが、彼はサフィルスを託した数名の相手を見ることすらも出来ず、ふらりと立ち上がった。女の声が聞こえた後に、水精霊が数多、後ろで飛んだような気がしたが、もうどうでもよかった。
昇降機の釦に手を掛ける。それは彼を乗せて上がっていく。通路へ踏み出せば、あれだけ燃え盛っていた炎は既に消えており、生きているものは何も残っていなかった。
覇王の剣以外は、何も。
「ギレーク、ウィーリウス」
二人の名を呼んだ。応えるものは何もない。
膝をついた。下穿きの裾が黒く汚れて、それが二人の生命の残滓であるということに気付く。
這って、覇王の剣に触れた。一人の喉元を貫いて血が滴っていた筈だったのに、その抜き身は美しく、多彩色の輝きを放ち続けている。
「何故、私を庇った、どうして」
涸れたと思った涙は、また溢れ出てくる。このまま海になってしまいたかった。
「どうして、一思いに、やってくれなかった」
彼は泣いた。どうして、と叫んだ。叫んでも、応えてくれる者はいなかった。
彼には自分の心臓や喉を貫くという行為が恐ろしかった。痛みへの恐怖が死への道に立ち塞がっている。誰かの身体に傷がつくのを見ているだけで、誰かの命が奪われるのを見ているだけで、こんなにも、張り裂けそうに、胸が苦しいのだ。否、普通は誰だってこんなものを見れば苦しくなる筈だ、どんな形であれ、痛みを覚えるのだ。
だが、と彼は思う。彼は皇帝なのだ。
彼はイークライト・シルダなのだ。
彼は立ち上がった。せめて皇帝の命を終わらせてくれる者を探しに行こうと。
捧げ持つは覇王の剣、ケイラト=ドラゴニア。左腕にはサナーレの腕輪。昇降機は使わない、彼は剣の間に足を踏み入れる。竜の像の後ろ脚が護っている鞘を抜いて、左手に握り締めた。扉を開けば、その両側を守護している筈の近衛兵がいないことに気付いたが、もうどうでもよかった。
そうして彼は行くことにした、甘く愛しい記憶が寝台と共に眠る自分の場所へ。
せめてそこで風になれと願い、彼はただ、前を見据え、歩んだ。
受け取った魔石認証鍵を通して、彼女は部屋に掛け込み、大声で怒鳴った。
「イーク、いたら返事して! 私よ、ラナよ!」
だが、返事はない。色々な扉を開けながら発した彼女の言葉には、何物も呼応しない。寝室を開け、その向こうにある湯浴み場も、衣装部屋も開けた。だが、誰もいない。平面映像機と長椅子の部屋にも、調理場にも、人の気配はなかった。
宮殿の何処かを彷徨っているのだろうか、或いは、覇王の剣を、と近衛騎士が言っていたから、それを取りに行ったのかもしれない。散々逃げ回ってから彼女は気付いたのだが、皇帝の居室は剣の間の真下に存在していた。
彼女は知っている、アリスィア・レフィエールが、それを破壊しなければいけないことを。この混乱に乗じてウィータと共に宮殿を急襲し、ケイラト=ドラゴニアを折る気でいる件のラライーナは、もう間もなく突入してくるだろう。彼女が皇帝を殺すことはないだろうが、皇帝が覇王の剣を持っていた場合、何が起こるか。彼女の脳裏に蘇るのは、ミザリオス・シルダの掲げる剣と、丘の下の光景だ。
会わなければいけない。
そう決意して、彼女がその場から離れようとした時だった。
「何者だ、そこで何をしている――」
響き渡るのは、男の怒鳴り声。彼女は飛び上がって咄嗟に短剣を引き抜き、素早く相手を振り返った。そこにいたのは――
「……ラナ?」
――目の前で、驚いた顔の彼が、覇王の剣を構えて立っていた。
「イーク」
彼女は短剣を戻し、静寂に向かって囁いた。
彼は少し痩せただろうか、これまでのシルディアナ帝国における不穏な動きを己の身で常に感じ、溜めこんでいた心労のせいだろう。ここのところ眠れていなかったらしい、目の下にはくっきりと隈が残っている。その頬には涙の跡が見て取れた。胴着や羽織、下穿きの裾には黒く焦げ付いた煤のような汚れが擦れている、何かが燃えた現場にいたのかもしれない、と、彼女には思えた。
皇帝は覇王の剣を掲げる腕を下げはしたものの、鞘に戻そうとはしない。
「ラナ」
彼は掠れた声で囁いて、ケイラト=ドラゴニアを取り落とした。からり、と美しい音が床に共鳴し、次いで、鞘の落ちる音もそれに重なった。そうして差し伸べられる手が、震えている。
「ラナ、其方、生きて」
声は大きくなった。僅かに一歩踏み出されたその右脚が捩れ、無様に崩れ落ち、それでも尚、皇帝は腕を伸ばすのだ。
その頬に涙が溢れて伝っていったのを見る、彼女は、両腕を拡げた。
「来たよ、イーク」
「ラナ」
二人の身体に温かな衝撃が伝わる。
飛び付いた彼に倒されて彼女は呻いたが、それでも、声を上げて子供のように泣きじゃくるその身体をしっかりと抱き締める。頬を寄せれば、耳元で一層しゃくり上げるその存在が、もっともっと愛しくなった。
「ラナ、ラナ、其方は死んでしまったのかと」
そうして彼女は思い出すのだ、一陣の風が運んできた幼い泣き声を。
アーフェルズは死んでしまったの?
「ねえ、イーク」
その名を呼べば、涙に濡れた翠の瞳が開き、首を振ったり鼻を啜り上げたりしながらも、気丈に見つめてくるのだ。
「私、貴方を知っていたの、ずっと前から」
「……どうして」
彼女には重なって聴こえるのだ、変声期を迎えてしまったけれども、その声が。
「夢で見たの」
「……夢」
「私、貴方の夢を見ていた」
彼女が起き上がってそっと頬を撫でれば、彼は額をそっとぶつける。互いの鼻が触れあって、二人は目を閉じた。
「いつか話したでしょう、父さんかもしれない人と、母さんと、兄さんかもしれない人が出てくるの……その夢には続きがあってね、最後に……アーフェルズは死んでしまったの、って、貴方が泣いているの」
「……アーフェルズ」
「生きているよ、アーフェルズも、私も」
「……それは、わかっている」
「死んでしまったのか、って、さっき言った癖に」
「……仕方が」
彼は息を詰まらせ、涙を流し、大声を上げた。
「仕方がないだろう! だって、あの扉を開けたら、そこにはフェーレスも、ヴァグールも! 全部が燃えていた、全部が……其方の姿もなかった!」
「ごめんね、心配かけたね」
「心配どころではない、死んで……どうしていいか、どれだけ、私が、ラナ」
彼はただ彼女の胸に縋った。革の羽織の間の胴着に顔を埋めれば、肩を包まれ、頭を撫でられる。力強いその手が、彼を軛から解き放っていく、至極優しく。
「私のことなど何も知らぬ癖に」
「……うん、知らなかったね」
しゃくり上げても真正面から受け止めて抱き締めてくれる、その腕が、全てを風に乗せて。
「何も知らぬ癖に、其方も、民も……ずっと、隠されてきた私の、好き勝手な噂を流して、好き勝手に何でも言って、誰も知らぬ癖に、どうして私ばかりが外に出しても貰えず、だからだ、中途半端な覚悟しか出来ず、死ぬのも怖い、傷つくのも怖い……結局皆、私など見ていない、その癖に、責任は押しつけて……ならばせめてそれに応えようと、こうしようああしようと動いても、誰も見ていない、何も知らぬ癖に、大切だなどと思ってくれない癖に」
「……折角一緒にいたのに、一杯訊けばよかった、ごめんね」
「言ったって、わかるものか」
彼の脳裏に蘇るのだ、キウィリウスの言葉が。
冠を抱く者は、死ぬ時にのみ、嘆きなされ。
「窮屈で、窮屈で、仕方なくて、脱走するような、こんな私に皆が付き合ってくれるのが、不思議だった……サフィ、サフィルス、あの阿呆、左目がなくなって……私を終わらせようとしてくれたギレークも、私を庇ったウィーリウスも、アダマスも、キウィリウスも……皆阿呆だ、私は、守りたかった……出来なかった、守りたかったのに、出来なかった、ラナ、其方も、ラナ、私が、どれだけ」
「でも、貴方は、やろうとした」
「出来なかった」
彼は思うのだ、その揺らがない腕に、胸に向かって、どれほど赦しを求めただろう?
「私を殺してくれ、ラナ」
「それは出来ない」
彼が顔を上げれば、そこにあるのは、静かな森のような瞳。
「どうして」
「アーフェルズから貴方に、届けものがあるの」
彼女は腰のベルトに付いている衣嚢を探った。免許証はサヴォラに差し込んだままであるし、認証鍵はその辺に打ち捨てた。そこに残されているのはあと一つ、薄い板のみだ。それを取り出し、差し出す。
「二人に会って気付いたの、よく似ているね、貴方達って」
電子画だ。彼はその中で微笑む少年に気付き、息を呑んだ。歪んだ月の夜に見た柔らかな笑み、結ばれた髪の色。幼い時に迷い込んだ宮殿の離れで初めて出会った瞬間から親近感を覚えていた色と、全て、同じ。輝く若葉の瞳の奥、あの時に聴くことが叶わなかった、アーフェルズが真に望んだ言葉は。
「――まさか」
「アーフェルズは生きているよ、本当の名前は、アルトヴァルト・シルダ」
彼女は、翠の瞳を見開いた彼に向かって、微笑む。
「貴方の望むままに生きて、って、貴方の生きる未来を守りたいって、言っていた、だから、この人は帝国を変えようとしていた」
「あにうえ」
彼は電子画を抱いた。
「あにうえ」
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