17

 侵入者、という言葉に恐れを覚えた。


 居室まであと少しという所まで来ていた折の出来事だった。彼は、近衛の目を掻い潜ってここまで近寄っていた者がいることに衝撃を受けていたし、何も持っていない身で剣戟を受けることは可能な限り避けるべきだと思えた。後から追ってくるのはサフィルスの足音だ。


 覇王の剣の間はシルダ宮の中央に存在する最も高い尖塔の中腹に存在するが、そこまで登っていくのは困難ではない、何故なら彼しか知らない近道が存在するからだ。しかし、侵入者は覇王の剣の間から現れたと聞いた――宮殿に詳しい者が反乱軍にその情報を流したのだろうか、とイークは走りながら考えるのだ。


 そうして思い出すのは、いつしかアミリア宮で見た、兄の名前。


 アルトヴァルト・シルダ、生きていれば三十一歳になる。


 兄が生きているのなら、と、彼は考えた。姿を消す必要があった程に、変えなければいけないシルディアナの歪みか何か大変なものの存在に気付いて、帝国を覆そうと企んでいたのだろうか。どうして姿を消したのだろうか、赤い捺印もないままに。


 どうして彼に連絡を寄越さなかったのか。


 皇帝と連絡を取るのが駄目だというのなら、宰相でもよかったのに。


 イークは兄に対して苛立つのだ。兄がいなくならなかったら、彼は宰相の庇護の下で何も出来ないという誹りを民衆から受けることもなかったのだ。そして、幾ら誓いを立てたサフィルスとはいえ、皇族ではない者に現在進行形で近道を知られているというのも己の生命線を引き裂かれているようで抵抗があったし、進入をしてくる何者かにも憤りを覚えたし、更にこのような状況に陥ることに決めた自分にすら腹が立った。


 剥き出しのフェークライト鋼のままの壁が冷たい。そこに手をついて息を整えながら、全身が嫌な汗でじっとりと濡れていることに気が付いた。追い付いてきたサフィルスがそっと彼の背中に手を当てる、それすらも煩わしい。


 独りになりたかった。


「大丈夫だ、サフィ、気遣いはいらぬ」


「ですが、陛下」


「……過ぎたる心配をするな、私の使える力はもう眼前だ」


 イークは疲労の溜まる足を引き摺って秘された通路を進む。少し先に存在する一角には、人ひとりがちょうど収まる円が床に描かれていた。その上に辿り着くと同時に、彼はすぐ目の前にあった銀色の釦を一気に押した。


「陛下!」


 サフィルスの大声と共に、臓腑が浮く感覚を初めて味わった。手摺りも何もついていない危険な昇降機は風精霊を撒き散らしながらへたり込んだままのイークを浚ってあっという間に上がり、すぐにクレル板の扉の前で静止した。


「光の精霊王ステーリアの思し召しの下に、御力を与えたまえ」


 息も絶え絶えに唱えた聖句はしっかり通じた。扉に施されている竜頭の双眸となっている光魔石が眩く輝き、微かな音を立てて上下に別たれる。


 躊躇っている場合などではない、彼は光魔石の照明が一定間隔で床に揺らめく通路に向かって一歩踏み出した。


 踏み出した時だった。


「来られると思っておりました、陛下」


 響いた低い声に、心臓を掴まれたような気がした。思わず飛び退れば、その向こうに見える、巨大な影。息を呑んだ瞬間に気付く、よく知っている声だ、と。そして、大きな影となっているものが、竜人族の翼であることにも。


「……ギレーク?」


「お声をお掛けせずにはおれませんでした、私の甘さ故に」


 薄暗い通路一杯に立ち塞がる巨躯。せめてその顔を拝みたいと見上げれば、その口元に浮かんでいるのが微笑みであることに気付く。


「……其方、何故ここに」


「陛下は、私に向かって、何処に在ろうとも、己が守るべきものを守れ、と仰いましたね」


 ガイウス・ギレークはそう言って、左肩に右手を掛け、跪く。その左手には多彩色の輝きを帯びる美しくも妙に短い剣――覇王の剣、ケイラト=ドラゴニアだ――が握られ、右の中指には黒の逆さ竜が鈍色を放っていた。イークも、それを言った時のことをはっきりと覚えている。


「私が守るものはシルディアナ……貴方の国だったもの、貴方も、出来ることなら御守りしたかった」


 それを聴いた瞬間、たった今まで抱いていた色々なものへの怒りが、全て霧散した。


「……そうか、そして私は確かに言ったな、其方らの懺悔など受け取らぬ、と」


「構いません、我が主であった、イークライト・シルダ皇帝陛下」


 竜騎士団長は跪いたまま此方を見上げてくる。凪いだ黒の双眸は、夜の海のように静かだ。


 イークは長い息をついた。


「そうか」


 脳裏を過ったのは、ここまでか、というひとつの結論だった。


 那由多の哀しみと、恒河沙の絶望を超えた先が、死であったとしても。やがて、せめて風に還ることが出来るのならば、今度は何処までも自由に、果て無き蒼の空を駆け、翠の萌え出づる地を撫で、とわなる時を行き、数多の意志を抱く人を結ぶように、彼女と共に大陸を、海を、世界を渡るのだ。


「本当は、陛下が何もわからないうちに、一思いにやってしまいたかったのですが」


「其方ならば出来た筈だろう、ギレーク?」


「……懺悔を受け取って欲しかったのやもしれません」


 精悍な顔は少しやつれていて、憂いに満ちた微苦笑がよく映えた。イークも笑った。


「……勝手なものだな、全く」


「……申し訳御座いません」


「よい」


 彼はこうなると思っていた。相手が誰であっても。


 そっと膝をつく。十七年にも満たぬ生で見てきたもの全てに別れを告げ、瞼の裏の闇に身を委ね、こうべを垂れる。蘇るのは、ほんの少しの間、夢と現の合間に寝台の上で触れあった、彼女の笑顔だった。


「やれ」


 剣を振り上げる音がする、最後の息を吐いたつもりだった。


 何かが地を蹴る音と共に、人の倒れる音と怒声が通路に木霊する。


 何事かと思って顔を上げれば、そこで大きな影がもつれ合っている。翼を数えることが出来た、四だ。二対存在している。おかしい、と思った瞬間、再び放たれるのは怒声。


「お逃げ下さい、陛下!」


 聞いたことのある声だと思った。そう、ガイウスの声と一緒に。


「マルクス、何処から、貴様!」


 そうだ、マルクスという名だった、姓は確かウィーリウスだった筈だ。その悲鳴のような必死の大声に、イークは思い出した。


「もう俺は裏切らない! 俺が止めます、陛下、逃げて下さい、速く!」


「退け、マルクス!」


 竜騎士団長の手に握られた覇王の剣が通路の光魔石の照明を受けて煌めく――それは逃げろと叫ぶ喉元に真っ直ぐに吸い込まれた。


 鮮やかな血が飛んだ。


「――逃げて、あの子が、迎えに」


 息を呑む、その眼前で、見開かれた目を煌めかせるマルクスは、右手を振り上げる。そこに握られた美しい彫金細工と、小さくも苛烈な炎の魔石を、彼はよく知っていた。十の月の二十五日目にサフィルスと一緒に街へ忍び、路地裏の「碧森堂」で酒を呑みながら、共に裏の品書きを眺め、意匠を決めたのだ。


 間違いなく、彼女に贈ったものだった。


「陛下!」


 物凄い力で後ろに引っ張られたと思った瞬間、竜人の最期の力が、それを床に叩きつけた。


 爆発音と共に、イークの身体は下へと落ちていく。否、降りていた。彼は昇降機の上で膝をついていた。たった今上がってきたサフィルスに助けられたのだ。


 頭上で、炎が渦巻いている。その中に一人、水を呼んで耐えている影があった。


「サフィルス!」


 その背がランケイアの水精霊を纏っている。


 己がせめて風であれば、風であったのなら、光でなければ。彼は思うのだ、あの近衛騎士を連れて行けた。あの近衛騎士を安全な場所まで引っ張って降りてくることが出来た。水が蒸発していく、その人影が遠くなっていく。燃え盛る炎の渦の中に悲鳴が聞こえる。肉の焼ける臭いと煙で視界が満ちた。ガイウスも、マルクスも、その中にいる。己がせめて水であったならば、水であったのなら、あの二人は。


「サフィ!」


 すぐ追い付きます、微かにそう聞こえた。それが、紅蓮の炎に呑まれた。


「……嘘だ」


 呟いた瞬間、左側から、彼に呼応するものがあるのだ。


 左腕を上げれば、翠の燐光を放つ腕輪。彼女の遺した気配。


「フェーレス!」


 イークは叫んだ。瞬間、翠の髪を靡かせる美しい青年を象って、煌めく瞳を此方に向け、柔らかな微笑みをそのかんばせに湛え、現れるは風の主。


 その存在は昇降機を狂わせた。彼が座り込んでいた円盤はみるみるうちに高度を上げ始め、風の精霊王はヴァグールの意志の宿らぬ炎を吹き飛ばし、近衛騎士の身体を抱く。


「サフィ、サフィルス」


 クレル板の強固な鎧と兜が鋭い風で切り裂かれ、遥か下に落ちていく。ゆっくりと降下し始めた昇降機と共に、フェーレスは顔の左側に酷い火傷を負ったサフィルスを抱いて滑るように落ちていく。いつの間にかイークは泣いていた。火吹き山から流れる溶けた大地のような傷が頬となり、眼球の存在が消えた左の瞼は溶け、溶接されていた。


「しっかりしろ、サフィルス」


 近衛騎士を昇降機の傍に置いて、精霊王は消えた。


 彼は膝くらいの高度になった円盤から飛び降り、転がるようにして、気を失っているサフィルスの身体に縋った。聖句を唱え、利き手を翳しても、傷が塞がらない。


 左目が戻らない。


「光の精霊王よ、光の……サフィ、サフィ」


 声が震えて聖句を紡ぐことが出来ない。涙が溢れて止まらない。


「サフィルス……盤上から消えるなど、馬鹿なことを言って、馬鹿だ、其方……ガイウスも……マルクスも、馬鹿だ、私があそこで、私が」


 首を振った。覚悟など出来ていたのに。


 この命など。


 彼は声を上げて泣いた。声に気付いて近衛騎士が来るまで、幼子のように、泣いていた。




 近衛騎士の集団を撒いた。皇帝の居室に近付くように、ラナは疾走した。ある時は物陰に飛び込んで誰かが追ってくるのをかわした。またある時は、走っていく近衛騎士の後ろから気付かれないように這い出したりもした。


 だが遂に、彼女は数人の近衛騎士と鉢合わせた。その向こうにちらりと見えたのは、以前見たことのある皇帝の居室の重厚な扉、それの表側。ここを突破すれば、後ろから誰かが来ない限り己の勝ちだ。


 襲い来る剣の中をひるみもせず舞った。


 正面からの攻撃を、脚部装甲の力を使って後ろに飛んでかわし、右腕は剣を防ぎ、左腕は斬撃を弾いた。が、弾いたと思った筈の剣が左腕の手甲に引っ掛かり、彼女は腕に衝撃を感じて、咄嗟に身体を捻り、地面を這うように蹴って転がり包囲から逃れた。短剣を握ったままの右手で左腕の手甲を払い捨て、目の前まで迫っていた近衛騎士の側頭部を、振り上げた足で蹴る。右も左も腕から血が迸ったが、まだ浅い、すぐふさがる筈だ。ラナはふらりとよろけたその近衛騎士を抱え、全体重と、風魔石の反動を利用して、密集するその集団の中へ思いっきり放り投げた。


 軽いフェークライト鋼を基盤とした近衛騎士の装甲だが、それはどんな衝撃にも耐えるようにかなり重く、厚く作られていた。たった一人の重さを受けた何人もの哀れな兵士達は互いにぶつかり合い、他人と己の装備している金属の塊に衝撃を受け、全てがその場で昏倒した。


「――やった」


 彼女は息をついた。腕の傷は大した痛手ではなく支障もないが、先刻からずっと走っていた為、流石に疲れていた。


 イークはもう居室の中に戻っているのだろうか、ラナはフェークライト鋼の重厚な扉を見つめ、思った。自分の居室の前でこんな騒ぎが起きているのだから、流石に気付いているだろう。だが彼が開けてくれる筈はない、何しろ今の自分は皇帝の安全を守る近衛兵を襲う、姿隠れし賊なのだから。

しかし、彼女には躊躇っている暇などない。そのまま扉に近付き、ありったけの力で以ってそれを押した。開くわけもない。伸びている近衛兵達などに構っている暇もなかった。そのことだけを考えていたから、反応が遅れたのだ。


「君か、ラレーナ・キウィリウス・サナーレ!」


 ラナは、はっとした。思わず振り向いたその先、伸びた近衛騎士達の向こうで、一人の壮年の男が、厳しい表情でその名を呼ぶのだ。


「……誰」


「私はレントゥス・アダマンティウス、近衛騎士団長だ」


 イークの口からその名を聞いたことが何度かある、その時はアダマス、アダマスと言っていたことを、彼女は短剣を掲げながら思い出した。近衛騎士を睥睨しながら進んでくる堂々たる体躯に、より勇壮な竜とロウゼルを描く金の文様が施されているクレル板の鎧を纏い、緋色のマントはその背に靡く。靴音が、硬く、しっかりと響いた。


 そうして彼女の前に立ちはだかるのは、近衛騎士団長。


「何をしに来た」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る