13
十二の月が近付いている。
反乱軍アルジョスタ・プレナの一斉摘発及び、反旗を翻したウイブラ、バルタール、スピトレミアへの宣戦布告を皇帝が宣言した、との報せが、シルディアナ映像放送や凛鳴放送、日報紙を通じて大陸中を駆け巡ったのは、十一の月の六日である。
それから二日後に、シヴォン共和国がシルディアナ帝国に対して経済制裁を発動した、という報せをいち早く持ってきたのはエレミアであった。
「ラ=レファンスとヒューロア・ラライナも、これに続いて声明を出してくる筈よ」
明日あたりね、と、その人はそこにいたラナに向かって言った。
エイニャルンに戻ってから、彼女は以前住んでいた一人部屋で再び暮らすようになっていた。尤も、ティルクしか来なかったその部屋には護衛と称して常に誰かが常駐していたし、湯浴みの時も眠る時も、扉の向こうには誰かしらの気配が存在していた。一人にしないように気を使ってくれているのだろう、ということはわかったので、ラナは色々なものを感じて少し煩わしかったが、これも優しさだと思って気にしないことにした。それよりも、触れられる距離におじを含めた信頼出来る誰かがいる、その事実が心強かった。
エレミアの報せが届いた翌日である七日には、スピシアの来訪があった。小柄な彼女は今にも泣き出しそうな顔でラナをぎゅっと抱きしめ、暫くしがみついて、離れなかった。
「アルデンスのこと、聞いたわ、でも貴方まで死ななくて、本当に良かった」
彼女はそのことについて何か言おうとしたが、胸が詰まって何も言えなくて、その代わりにぎゅっと抱き締め返すことしか出来なかった。二人は少し泣いた。
それから後ろにティルクとエレミアを従え、四人で「スピトの針箱」の近くに新しく開店した甘味処「天馬の翼」まで散歩がてら歩き、美味しくて甘いものをこれでもかという程に沢山食べた。葡萄やフラガリア、グラン・フィークスをたっぷり使ったゼリー寄せや、牛乳の風味が豊かな焼き菓子の数々と、アンデリーの娘の笑顔、それを見ていると、心が癒されていくのを感じた。ティルクはしかめっ面で甘いものを遠ざけながら、ケイン糖や牛乳すら入れずにそのまま抽出したロウゼル茶ばかり飲んでいたが、エレミアがその口元をフォークに刺したゼリー寄せで突いてくるせいで真っ赤になっていて、それも可笑しかった。
帰り道のエイニャルンは、空も大地も美しい金と紅で満ちていた。
「今日はありがとう、このお店、とっても気に入った」
「私、貴方をここへ連れてきたかったの」
彼女の言葉に対して少し恥ずかしそうに返したスピシアの耳は、夕焼けに染まるエイニャルンの岩棚よりも真っ赤になっていた。
その夜だ、ここ数ヶ月不安定だった紅月の日がラナに訪れたのは。イークとのやりとりで一人や二人でも胎に宿っているといい、と思っていたが、それは叶わぬ夢であった。彼女は下着を替えて、また泣いた。
十一の月の七日付で、ラ=レファンス学院都市国家、ヒューロア・ラライナ王国が相次いで経済制裁を発動するという意向を公表した。その知らせを持ってきたのはやっぱりエレミアだった。帝都、シルダ宮に真っ先に届けられる情報であるらしい、そしてこの人には弟がいた、確かサフィルスという名であった、とラナは何となく気付くのだ。目の色も髪の色も同じだ、美しい切れ長の眉の形と小鼻の形がよく似ている。
「でも、そうしたらスピトレミアも困ったことにならない? 色々な品物が入ってこなくなって、大変なことになりそう」
ラナはその時、紅月のせいで少し痛む腹を抱えながら、傍にいたアルトヴァルト――アーフェルズに向かって訊いた。反乱軍の指導者は、余程三匹同時に出てきたことに恐怖を覚えたのだろう、黒虫退治筒を神経質に振り回しながら少し寝不足気味の顔で微笑むのだ。因みに、彼女の部屋に黒虫が出たことは、まだない。
「いや、大丈夫だよ、ネーレンディウスはヒューロア・ラライナとよく連絡を取っているからね」
「……そこはそうだけれど、もっと大変なことになるような」
彼女はふんわりとそう思うだけだったが、アーフェルズはああ、と一言漏らし、頷いた。
「そう、輸入品を取り扱う職に就いている人が、今度は仕事を失うだろうね、ただでさえ賃上げ要求が暴力を振るいながら騒いでいる中で……まあ、イークライト陛下も、その辺はわかっていてやったとは思うよ」
ラナは思い出すのだ、シルディアナ放送で一斉摘発と宣戦布告を宣言した純白を纏う皇帝の姿を、その姿に心を締め付けられるような何かを覚えたことを。その傍にいたいと強く願っても、相応しい時期ではないと言って、ティルクもエレミアもアーフェルズも、彼女の出立を許さなかった。だからこうして彼女を見張る為にも、常に手練れの誰かがいるのだ。
「暴徒化させるきっかけになった文官や知識者層を唆していたのはアルジョスタ・プレナだけれどね」
「……それって、こうなることを狙っていたの?」
「半分正解だ……もっと穏やかな方法を模索していたけれど、人が真に人の心を支配するなんてことは不可能だ、動かすことは出来るけれどね」
アーフェルズは疲れた笑みを見せた。エレミアがお茶を淹れてくると言い残し、調理場に姿を消した隙を狙って、ラナは訊いたのだ。
「……アーフェルズは、イークをどうしたいの」
「君だから言うよ……イークライト・シルダという名前の皇帝が死んでしまうまで私は追い詰めなければいけないけれど」
彼は彼女の耳にそっと唇を寄せ、早口で一気に言った。彼女が息を呑んだ時、その続きは囁かれた。
「何者でもなくなった私の弟を救い出すのは、君しかいない」
ラナは思わずアーフェルズを見た。反乱軍の指導者は、その時は微笑んでいるだけだったが。
十一の月の十二日に、スピトレミア特別行政区領主ネーレンディウス・アンデリーは帝国支配からの脱却を掲げて蜂起する声明を出し、それは、今まで暴徒を鎮圧していると思われたライマーニ領主、海軍団長デルピヌス・マーレン将軍の、帝国に対する反乱を誘発した。
「君に、改めて、頼みたいことがある……あの子の兄として」
そう言いながら、アーフェルズ――アルトヴァルト・シルダがラナに向き合ったのは、その三日後、十一の月の十五日のことだった。
出庭から見えるのは、今にも降り注いできそうな程に数多輝く、星々の宴。その下で、太古の昔に刻まれた炎の精霊王ヴァグールの残滓が、エイニャルンの大地にほんの僅か、疼いている。月は出ていなかった。ティルクもエレミアもいない、今はアンデリー家の人々の護衛の任に当たっている筈だ。
「……この間、言っていたこと?」
ラナもラナで紅月の終わりを迎え、穏やかで清々した気持ちとなり、アーフェルズから言われていたこと――何者でもなくなった私の弟を救い出すのは、君しかいない――を何度も反芻していた折の、頼みたいこと、である。訊き返せば、反乱軍の指導者は一度だけしっかりと頷いた。
「そう、君にしか頼めないことだ」
武骨な握り拳が差し出される。その下に掌を上向きで伸ばせば、カタカタと音を立てて落ちてくるのは、三つの薄い板。
「君に返すものと、君の役に立つものと、君に届けて欲しいものだよ」
一番上に重なっているのは、何と、彼女のサヴォラ免許だった。どこから回収してきたのかはもう想像がつくが、いつの間に取り戻したのだろう、エレミアやマルクスあたりだろうか。スピトの花と円を描く水流文様を組み合わせたスピトレミア領の紋章が、星明かりに浮いて、微かに煌いている。裏を返せば自分の顔が映った電子画。諦めずに手に入れたものの一つが返ってきた。
次に、重なっていたその下にあったのは魔石認証鍵だ、どこの扉を開けるのかと首を傾げれば、アーフェルズが口を開く。
「君にはサヴォラで飛んで、宮殿の鍵という鍵を全て開け放って欲しい」
「……攻め入るの、アーフェルズ?」
「そう……帝都の識者層や貴族の大半はこっちの味方になったし、市民も揺さぶられている……皇帝が行った葬列はかなり予想外だったけれどね、あれを見て心を動かすのは中層市民くらいだ、上層市民は何が起こるのか理解出来るから皇帝に構わず自分達の富を守る為に動いているだろうし、下層市民にはあまり効果がない、誰が死のうと、彼らは自分で精一杯だから……帝国が地方に軍勢を差し向けている間に、本城を叩いてしまえば終わりだ」
ラナは魔石認証鍵を見つめる。この手で帝国を直接屠れという意味にもとれるアルジョスタ・プレナの指導者の冷え切った言葉に、彼女は暫く何も返せないでいた。
「……そして、あの子に届けて欲しい」
ややあって、アーフェルズがぼそりと言った。
三枚目の薄い板をそっと持ち上げる。裏に返っていたそれをひっくり返すと、黒虫が三匹出たあの日に見せて貰ったのと同じ、小さな電子画の中で、シルダ家の人々が微笑んでいた。
「アーフェルズ、これ」
「私から全てを話しても、覚悟してこの道を選んでしまったあの子は受け入れないだろう」
顔を上げれば、いつもと変わらない微笑みが彼を彩っている。その翠の瞳が伏せられて、アルトヴァルト・シルダは――皇帝の兄は、首を振るのだ。
「ずっと離れていたけれど、あれはあの子の本当の願いじゃない、これだけは、わかる」
「……うん」
彼女は頷いた。もっと、甘えて、遊んで、美味しいものを沢山食べて、色々なことに首を突っ込んで、知って、そういう風に自由にしていた“イーク”の姿を、ラナだって「竜の角」で何度も何度も見ていたから、わかるのだ。
あまりにも重いものを背負って死のうとしている人の覚悟を。
「こうしたいと思い込んだら曲げないのがあの子だけれどね、三歳から十六歳、十七歳程度で、そんなに他の貴族とのやり取りがないのなら、そうそう簡単に芯の部分は変わったりはしないさ……政治に関しても、キウィリウスが行っていたしね」
父も恐らく死を悟っているのかもしれない、彼女は思った。
そんな彼らの命を助けたいと願うことは彼らの覚悟を踏み躙るものだ、と糾弾することは容易いだろう。だが“ラナ”は欲しているのだ、求めているのだ、歩めるかもしれない未来を。アルデンスという名だった青年が手に入れられなかったような、幸せな明日を。他者の救済と共に、己の心もまた己によって救われることを。
その人は話し続けている。
「兄らしい願いといえば、あの子が本当に望むままに生きて欲しい、それだけだよ……君じゃないと駄目だ、だから、その為に、ラレーナ・キウィリウス・サナーレには死んで貰った……他の誰でも、私でもない、あの子が好きになって、あの子と心を交わした君に、「竜の角」で働くただの“ラナ”に」
出庭の向こう、藍よりも蒼く闇よりも濃い香りを放つ夜の帳が下りた世界を、翠に輝く竜翼をゆったり拡げて、サヴォラが一機飛んでいく。黒に塗られた流線型の美しい機体は無数の風精霊を纏い、甘やかな笑い声を連れて、遠く向こうまで去っていった。
アーフェルズの声は震えていた。寒いわけではないのは、わかっていた。
「君だけがあの子を、イークを救える、ラナ……助けて……風になれ」
那由多の哀しみと、恒河沙の絶望を超えて。
苦しそうに放たれたそれは願いであるというよりも、彼自身が彼女に求めた“救い”であったのかもしれなかった。あまりにも身勝手に過ぎるその想いが、どこまでも膨らんで、数多の命を巻き込んで、全てを変えようとしている。だが、それを身勝手と称するのであれば、そうでない者がどこに存在するというのだろうか。彼女は思うのだ、この人の歩む場所を、自分の想いがまた“道”へと拡げ、変えて、歩んでいたことを。
この人の為にも、自分の為にも。ラナは頷いて、そっと微笑んだ。
「うん、待っていて」
三つの薄い板を握り締めた手が、ぎゅっと大きな両手で包まれる。夜半でもはっきりとわかる、弟によく似た美しいかんばせを色々な何かで歪めたアルトヴァルト・シルダは、大精霊の御前で祈るかのように、額を、ひとしずくの涙を、そこに落とした。
「頼んだよ――風の、いとし子」
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