12

 息を呑む鋭い音が数多の風の刃のように空気を切り裂いた。居室の外にいた近衛兵が中を覗いている、決断する時間は最早ないに等しい。


「――アダマス」


「はっ」


 イークライトは近衛騎士団長を呼ぶ。この場で最も軍略と武、及び察する能力に秀でているその人は、たった一言に込められた様々な意味を一瞬で把握したらしい。アダマンティウスは一礼を返して無線機の釦を押し、精霊を生み出しながら二言、三言を囁いた。すぐに居室の外で軍靴の音が幾つも木霊し始める。そうしてからすぐに指令は飛んだ。


「宰相キウィリウス殿、取調局長ウィクトール将軍、文官及び近衛を伴い現場へ急行せよ、太刀打ち出来ぬならば自軍を率いても構わん」


「承知」


「承知仕りました」


 キウィリウスとウィクトールが己の左肩を叩くように礼をして即座に踵を返した。威厳ある宰相と男にも引けを取らぬ堂々たる女将軍は居室の外まで来ていた自身の直轄兵数人を伴って速足で去っていく、それを見届けた後に、近衛騎士団長は再び口を開いた。


「地竜騎士団長ドルティオ将軍、警邏団長ウェナティクス将軍、歩兵団長エイロース将軍、兵の準備を整えるように、」


「承知」


「承知仕りました」


「承知致しました」


 アントニウス・ドルティオは壮年の大きな男だ、顔を横薙ぎに切り裂く大きな傷が目立つ。コモドゥス・ウェナティクスは切れ者といった風情のしなやかな四十代だ。アミナ・エイロースは亜麻色の長く美しい髪を靡かせた蠱惑的な三十代だ、歩兵団は普段、警邏の出来ない地味な重労働任務を担っている、これは彼らの士気を上げる為の人事採用である。三名は先に出て行った二人と同じように、居室の外に来ていた自軍の兵士を伴って、走り去っていった。


 その場に残ったのは近衛騎士団長アダマンティウス、近衛騎士サフィルス・ランケイア及びハルフェイス・マルキア、取調局第五課班長シーカ・パラウス、そしてイークライト・シルダ、皇帝である。


「陛下はこのまま居室へ――」


「いや、私も動くぞ」


 イークライトの遮りに、レントゥスの顔は驚愕に彩られた。それを見て思うのだ、この近衛騎士団長にこんな顔をさせたのは自分だけではなかろうか、と。その表情がみるみるうちに炎の精霊王のかんばせそっくりに変わり、次いで飛び出すのは大声だ。


「失礼を承知で申し上げますが何を馬鹿なことを仰います、イークライト陛下――」


「――いけません、いけませんよ、たった今、私が守ると申し上げましたよね、陛下!」


「この危険な時に何処へ行こうと言うのです、サフィが言っていたお忍びとやらですか――」


 サフィルスとハルフェイスも一緒になって怒鳴り散らした、その横で宙ぶらりんな立場になってしまったシーカの身体が引いている。色めき立つ近衛連中の表情がおかしくて、彼は思わず吹き出した。


「笑っている場合ではありませんぞ、陛下!」


「――いや」


 彼が微笑んだ時、何かに気付いたような近衛達は、揃って身を乗り出すのを止めた。


 自身については何も出来ない皇帝であると考えていたが、こんなにも身を案じてくれる者がいるということに、彼は驚きつつも様々なものを感じ取っていた。そして彼は思い出すのだ、似たような思いを背に受けた皇帝が、かつてシルディアナに存在していたことを。


 夢で見たのだ、覇王の剣に触れた時、ミザリオス・シルダの、暁の光を背負ったその姿を。


 はっきりと覚えている、その手が、覇王の剣――ケイラト=ドラゴニアの柄に結ばれていた飾り輪を外す、その瞬間を。


 失った何もかもを受け止めてそれでも尚生きて進もうとする、哀しくも優しい微笑みを。


 イークライトは左腕に嵌めた腕輪に、右手でそっと触れる。燐光を放つその翠は蔓と花を優美に描き、彼の目を焼いた。見たのだ、精霊王が哀しく微笑み、そこに口付ける瞬間を。


 フェーレスの加護と、風のいとし子の想いが、今、ここに宿っている。


 彼は瞼の裏の暗闇に身を委ね、覇王の剣と同じ鋼でできた花に、唇を落とした。


「ならば、私の守護をせよ、レントゥス、サフィルス、ハルフェイス」


 目を開いた時に言う、近衛達は何を言うこともなく、揃って最上級の礼を以てその命に従うのだ。彼は更に続けた。


「シーカ、そなたには準備を頼みたい、検分は終わった、犠牲者の灰を持て」


「……承知致しました、陛下」


 今か、と問いたいようなシーカの視線を正面から受けて、皇帝は首肯する。


「弔いの準備をせよ、葬儀を執り行う」




 魚の尾鰭を揺らめかせる水精霊を模した白い舟が一艘、帝都を突っ切って流れる大河アルヴァを、外港地区に向かって進んでいく。


 乗船する人々は一様に白の衣装を身に纏っていた。うち一人は皇帝のしるしである冠を抱き、胸元に数多の色の輝きを帯びた美しい剣を抱いて、羽織や金に輝く髪が頬や腕を叩くことにも頓着せず、ひたすらに前のみを見据えている。その周りを取り囲むようにして近衛の装備を整えた者が数名、白のマントを風に靡かせながら立っていた。


 人々は聴くのだ、その美しい青年の、弔いの謳声を。


  ――あなたは今

  世界に還ろうとしている

  苦しみからも よろこびからも

  解き放たれ――


 それに合わせて白い灰が舞った。白い手袋を着けた者が、舟の縁で誰かをアルヴァに還している。彼らも唱和に加わった。行く先々でその光景を目にした人々も、その唄を紡いだ。


 民は先のシルディアナ放送で、炎に巻かれた主の道を、皇帝の決意を見ていた。


  ――闇に落ち

  土の中に

  炎に焼かれ

  水に溶け

  風に舞い

  やがて再び光を

  そのまなこで 見るのでしょう――


 大河沿いにずらりと並ぶ人々は、彼がどのような気持ちで皇帝となったのかは知らない。だが、その哀しみが深いことだけはわかるのだ。水面の上を滑って響いていく美しい若者の声は、震える腹から放たれている、それは人もまた固有の楽器であることを想わせた。


 だが、どれだけ人の心が揺れようと、転がり出したものが止まることはない、と、イークライト自身は歌を紡ぎながら思うのだ。彼は白を纏った、それは即ち、己の身に降りかかった死を認めるという行為に他ならなかった。これが意味するところは大きい。皇帝自身は理解していた、皇妃が死んだことを認めるようなこの行為そのものが、反乱軍アルジョスタ・プレナの意に沿うものであることを。そして、近衛達は止めなかった。即座に連絡を送った宰相も、それを止めるような返答を寄越さなかった。


 誰も、イークライト・シルダを止めなかったのだ。


 帝国の滅亡へ向かって突き進んでいく彼を。


  ――少し おやすみなさい

  いとし いのちよ

  あまたの世界となって

  どうか 見守っていて――


 二刻かけて川を下る。何度も、何度も、舟唄を繰り返す。


 水精霊が水面から飛び上がり、灰を喰らっていく。彼らは世界へと還っていく。


 この航行に先立って、首都の北にある丘で土精霊に捧げたのは髪ではなく灰であったが、精霊王クレリアは微笑みと共にその返還を受け入れた。愛を囁いて死んでいった十九歳の若者のみがまだ残っていたので、炎に捧げ直し、還した。これがシルディアナの葬送だ。


 やがて、河口が見えてきた。


 彼は次に行うことを決めていた。反乱軍アルジョスタ・プレナの一斉摘発だ。これを表明すれば、確実に反旗を翻すのがスピトレミア地方のネーレンディウス・アンデリーだろう。海軍団長デルピヌス・マーレンの所轄であるライマーニ地方と外港、空軍団長ヨルハン・フィエテスのバルタール地方、ウイブラ地方のギレーク及び竜人族。彼らの正式な離反表明が誘発されることは必至だ。そこに軍隊の大半を差し向けることによって、帝都は手薄となる。近衛と宰相のみは帝都から動かさないことにして賃上げ要求の対処に当たらせる予定であるし、セレイネ・ウィクトールについてはアルカス地方で形式のみの反撃をしろと通達してうろうろさせておくつもりだ。背後には確実に黒の逆さ竜がいる、彼らは他国と手を組んで、何らかの経済制裁が開始されるかもしれない。まるで水のように民の間へと浸透していく革命の兆しは、帝都の貴族達だけではなく、帝国の大領主達の胸元まで既に呑み込んで、大波で浚っていったのだ。


 だが、それでいい。この国を導くのは人だ。


 数多の人の想いだ、彼ではなくなっただけで――否、元から彼はそこにいなかった。


 覇王の剣ケイラト=ドラゴニアが明滅し、皇帝の身体を包む。


「風よ、古を駆ける旅人よ」


 イークライトは聖句にて呼び掛けた。応える風は数多の空気の流れを携えてフェーレスを象り、人々の髪や服の裾を、ありとあらゆる方向へ遊ばせる。慈悲深い微笑みが、剣が放ち続ける多彩色の燐光を認めた。


 外港地区は静まり返っていた。否、人はいた。数多が白の舟を見つめ、葬列の先頭に皇帝がいることに気付いて、立ち尽くしていた。


 民も、兵も。


「その思し召しの下に、これらの者に、とわなる死を」


 双眸は閉じられ、風の微笑みが、そっと深められた。輝く翠混じりの灰がくすんだ空に、高く、高く、きらきらと舞い上がっていく。


 彼は高らかに謳った。


  ――あまたのいのちを統べる始原よ

  美し世界を駆ける精霊よ

  今ここに来たりて

  とわなる死を

  とわなる生を

  とわなるものを

  謳いたまえ――


 ケイラト=ドラゴニアが一際美しく燐光を放つ、六柱の精霊王が海風に明滅し、消えた。


「民よ」


 彼は呼び掛けた。シルディアナ放送と凛鳴放送の局員が撮影機や音声放送機を掲げている、それに向かって。どこへでも来るこの者達もまた、大きなものに呑み込まれようとしながらも、己の使命を果たそうとしているのだろう。


 皇帝が白を纏うことを待っていた者は数多いる。その者達はやがてイークライトに牙を剥くだろう、だが、それでよかった。どのような立場であろうと己がゆく道に未来を信じて突き進んでいるのは誰だって同じだ。


 その礎となれるのであれば、命など惜しくもない。責任とはそういうものだ。


 イークはそう思った。


「我が皇妃は精霊に還った」


 覇王の剣を鞘に仕舞った、使う予定はない。この冠も、もう殆ど機能することはないだろう。


 彼の武器は微笑みだけだ。


「私は彼女を愛していた……それを、精霊に還らせた者がいる、反乱軍アルジョスタ・プレナ……ウイブラの竜騎士団長ガイウス・ギレーク、バルタールのヨルハン・フィエステス、スピトレミア特別行政地区のネーレンディウス・アンデリー」


 彼は強く、強く願うのだ。やがて還るのであればせめて、風になれ、那由多の哀しみと、恒河沙の絶望を超えて。翠の燐光を放つ腕輪が共鳴している。全ての柵から解かれて、彼女の纏っていた風になりたい。


 そして、皇帝は声を張り上げた。


「勅令だ、来たる十二の月、一日に、一斉摘発を行う、同時に、該当領地への宣戦布告を今ここに宣言する」

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