10


 暫く無言で物思いに耽っていたが、店の正面の扉を開ける音と、マルクスか、と出迎えるナグラスの声が聞こえて、アーフェルズが立ち上がった。


「マルクスが来た……何か動きがあったかな」


「マルクスって」


「竜人族だよ、君も会ったことがある筈だ……本人から、君に会った、って報告を前に受けているからね、私は」


 その名前を言われて、思い出すのはガイウス・ギレークの言葉だ。


 マルクス・ウィーリウスを知っているか? 守らねばならぬ同胞だ、同時に、守る者でもあった。反乱軍アルジョスタ・プレナに与していた、その身柄は拘束済みだ。マルクスに会ったね? マルクスが私にこれを渡した、私は受け取った。


 竜騎士団に属する竜人族。拘束を解かれたのだろうか、とラナは考える。彼と同じように立ち上がった。


「竜騎士団長が、拘束していた、って言っていたけれど」


 階下へと爪先を向けたアーフェルズについて行く。彼も彼女の歩みを止めようとはしないので、外に行くのでなければ自由に歩き回っても良いだろうと思えた。そう思いながら答えたラナに、指導者は振り返ってどこか緊張したような表情を見せるのだ。


「……それは何日前の話だい?」


「披露目の日」


「一昨日か、成程」


 アーフェルズは得心したように頷いた。


 連れ立って階段を降り、厨房を通り過ぎて酒場の表まで出れば、そこに集まっていた面々が一斉に二人を振り返る。その中にはティルクもいた、まだ少しだけ眠気が残っているのだろうか、鋭い眼光が柔らかい。


「ああ、ティルク、起きたのかい」


「――ラナ」


 おじはアーフェルズの呼び掛けも身体も押しのけてラナに向かって一直線、その勢いのまま、力一杯抱き締めてきた。


「苦しい、ティルク」


「……よかった」


 よくないことの方が一杯あったのに、という言葉が口をついて出そうになったが、たった一言だけを呟いたその声が震えていることに気付いて、彼女は思い直すのだ。彼もまた自分の守りたいものを守ろうとしている。これまでに話した限り、誰が大切であるのかそうでないかをティルクが殊更に強調したことはないが、彼の中で他の命に優劣が付いていることを責めるのはやめよう、と心に決めた。


「よかった、ラナ、危なかった」


「苦しいってば、ねえ、おじさん」


 その代わりにそう呼んでやれば身体が離れ、憮然とした表情が、解放されて息をついた彼女を見下ろしてくるのだ。


「その呼び方はやめろと言っただろう、俺はまだ二十六だ……言っておくが、ラナ、俺やマルクスが別方向から来ていた下手人を屠っていなかったら、幾ら竜人族が護衛についていようと、お前は確実に死んでいた……その耳飾りがあってよかったと言うべきか」


 ティルクは苦々しい声で言った。僅かに進み出ることもせず、名を呼ばれた竜人は、酒場の微かな灯りの中で目を伏せる。


「久し振りだね、お嬢ちゃん……エレミアからの情報で、宰相の娘の暗殺を目論む者が宮廷内にいることがわかったんだ、それを防ぐ為に、あの日、俺達は団長の意向で動いていた、皇妃ラレーナ・キウィリウス・サナーレを守る為、という名目でね、俺が伝令さ」


 マルクスの言葉に、ラナは竜騎士団長に言われていたことを思い出す。主の道で、あの屈強な竜人は嘘をついていたということだろうか?


「久し振りだけど……エレミアって、アルジョスタ・プレナじゃないの? それに、私、貴方は拘束されているって、ギレークに聞いたのだけれど」


 次いで、アーフェルズの言葉も思い出す。古くからのシルディアナ貴族で、家を守る為に、時流をよく見ることが出来る立ち位置を確保している。ということは、アルジョスタ・プレナの一人がエレミアで、皇帝についている一人が近衛騎士のサフィルス、どちらにも属さない派閥に身を置いている者もいるのだろうか。


 マルクスは彼女が発した疑問に目を細めた。


「表向きは、ね……君が見ているものだけが真実ではないんだよ、ラナ」


「……ティルクは知っていたの?」


 おじを見る。合った視線がすぐに逸らされた。


 ややあってティルクは口を開く。


「……知らなければ動けまい、そもそもこの作戦を提案したのは俺だ、本当はアルデンス隊がお前を確保する手筈だった、ということになっている……そう、ガイウス・ギレークはお前を連れて、元から主の道の入り口まで下がってくる予定だった」


 周囲に沈黙が降りた。


 そこに、彼女の言葉だけが響いていく。


「……じゃあ、アルデンスは、何だったの?」


「俺の為に」


 ラナの言葉にそう呟いて、ティルクは視線を落とし、唇を噛む。


「俺の我儘でアルデンスは死んだ、死ぬ覚悟を決めていた、まだ十九歳だったのに」


「……私を殺す、っていう話は、一体どこから」


「殆どは私の筋書きだよ、ティルクに提案したのも私だね」


 朗と響く優雅な声。振り向けば、反乱軍の指導者がそこにいる。


「全て芝居のようなものだ……披露目が終わっているのならば、色々なものを犠牲にしながらラレーナ・キウィリウス・サナーレという名前の存在を葬る筋書きだった、ヒーエリアの生き残りとギレークの名を持つ者を使って、君を生かして……最初からだよ」


 アーフェルズは無表情で言う。綺麗な微笑みが消えたその顔はまさしく、皇帝の血を流す冷たき為政者の据わった瞳を以て、全てを動かそうとしている。


「……君は死んだものだと帝国民に思われている、皇帝もそう思い込んでいる」


 こうしなければいけない理由がある筈だった。ラナは必死にそう思い込もうとしたが、泣き叫んで暴れて、全てを風で吹き飛ばしてしまいたかった。だが、そうしたところでアルデンスは戻ってこない。もっと生きていたかっただろう、もっと見ていたいものだってあっただろう、もっと――


「でも、ラナ、一つだけ……ヒーエリアの生き残りは全部覚悟の上で頷いた」


 だが、彼女は自分が口にしたことを思い出すのだ。貴方という名の死に抗おう、そんなもの、とうに決めた覚悟。ラナは目を閉じ、左耳に揺れる耳飾りに触れた。ヴァグールの胤が、魔石の中で呼応するように揺らめくその熱が、伝わってくる。


 我がフェーレスよ、ならばお前の行く先に、その祝福があらんことを。


「マルクス」


 彼女は耳飾りを外しながら、酷い表情をしている竜人族に向き直った。顔を上げるその巨躯が萎んで見える、畳まれて鉤爪を両肩に引っ掛けた大きな翼は野ざらしになった襤褸切れのようだ。


 近付いて、鋭い爪を持つその手に触れる。驚いたのだろうか、びくりと震えたそれは人間と変わらぬ温かさで、違いと言えば鱗に覆われていることぐらいだ。彼女は呟いた。


「……うん、一緒」


「……何?」


 怪訝な声に問われ、ラナは顔を上げる。


「あのね、これを持っていて……もう、私のものじゃないから」


 その大きな手の中に耳飾りをそっと落とす。酒場「竜の角」のランプの光に煌く美しい装飾が絡みつく魔石の中に、炎を表す術式文字レファンティアングただ一種類が放射状に吹き出すように刻み込まれていた。精緻な刻印を施されたそれが、マルクス・ウィーリウスの掌の上で、鱗に光をばら撒いて小さな炎の精霊を生む。


 これを彼女に贈った相手は光の精霊王ステーリアの如き存在で、今まさに歴史の荒波に呑まれようとしていた。


 そして、彼女は言うのだ。


「……まだ、やること、あるでしょう……帰ろう、スピトレミア……エイニャルンに」




 十一の月、六日。


 悲惨な披露目の日から六日が経っていた。皇帝の居室の前で護衛をしているハルフェイスを中心とした近衛騎士に、取調局第一課が出した現場検証結果についての報告を持ってきたのは、再び第五課班長のシーカで、横にはレントゥス・アダマンティウスを伴っていた。


 部屋に入ってイークライトの姿を認めた二人は、揃って右手を左肩に掛け、一礼をする。


「十の月、三十日における一連の事件の現場検証結果及び、残存術力の検分が終わりましたことを、イークライト皇帝陛下の御前にて御報告致します」


「苦労を掛けたな……本来であれば、私が玉座の間で受け取るのが相応なのだが」


「いえ……皇妃陛下を襲った者が皇帝陛下を狙っている可能性は濃厚です、此方におられた方がよろしいかと」


 イークライトはあの日からずっと白を身に纏っている。シーカから植物紙の資料を受け取り、ぱらぱらと音を立てて捲った――炭化していた残存成分の検分の完了とその結果をここに記す。残存成分である灰からは、個人固有の属性配列が検出された。六属性それぞれの均衡が土地によって異なり、それはその者の両親から固有の形で受け継がれ、また生まれた時から長い時間を掛けて体細胞にも馴染む故、この検分は有用である。三名の出身地を帝国東部スピトレミア地方エイニャルンと特定、二名の出身地を帝国南部バルタールと特定、二名の出身地を帝国北東部パンデルヒアと特定。五歳検診の際に戸籍に登録された成分と照会させたところ、それぞれの身元の特定が完了。別紙に名を挙げる――彼女は帝都出身の筈であるし、五歳検診の後の戸籍登録がされているのであれば別名だろうと思ったが、彼の心臓はうるさく鳴っている。次の紙を捲った――そこに女の名前はない。


 ラレーナ・キウィリウス・サナーレらしき戸籍不明の残存成分は存在していなかった。


 イークライトは長い溜め息をつく。


「取調局は極めて優秀だ、我が皇妃の捜索とアルジョスタ・プレナの検挙も捗りそうだな」


「……それが、陛下」


 歯切れの悪い返答に、彼は顔を上げた。シーカの目が曇っている、色々なものを無理矢理呑み込もうとして納得していないような表情だ。


「どうした」


「……取調局第一課班長と第六課班長は、皇妃陛下ラレーナ・キウィリウス・サナーレは、精霊王の御許に招かれた、と主張しております」


「まさか、公表せぬというのか? だとすれば、その公表せぬ筈の結果をどうやって其方は持ってきたのだ」


 彼は気付くのだ、何も残らない程に精霊に愛されたと聞こえのいいことを言っているが、死んだということにしたい何者かの意志がそこに見え隠れしているということに。


「取調局のセレイネ・ウィクトール・アルカス局長に伺ったところ、更に詳細な検分を進めるように通達する、と……そして、皇帝陛下には、シルディアナ放送や凛鳴放送、日報紙には決して伝えることのないように、と」


「……なんだそれは、日和見か、それともただの今後の方針か」


 イークライトは唇を噛んだ。死んでいても死んでいなくても、真実がどちらであろうと、死んだことにしたいと考えている何者かは一体どのようなことを考えているのだろうか。


「どちらも考えられます、陛下、セレイネは私が良く知る人物……切れ者ではありますが、情にも篤い」


 と、脇に控えていたアダマンティウスがそのようなことを言うのだ。


「ほう、何かを迷っていると?」


「セレイネの領地であるアルカス地方は砂漠の国レストアからの侵攻を受ける場所であったが故にミザリオス初代皇帝の強大な庇護の下に生き残り、跡目争いの件ではファールハイト前帝にも恩義を感じている」


 近衛騎士団長は、セレイネ・ウィクトール・アルカスが抱いているであろう帝国への恩義しか語っていない。だが、イークライトにはわかる、その恩義が揺らぐ程に何らかが影響を及ぼしているのだ。近年、彼が知る限りにおいて、砂漠の王国レストアからの侵攻は一回も行われたことがなく、小競り合いを行ったという報告すらもない。それどころか両国の間では貿易が盛んに行われており、彼の大好きな果物であるグラン・フィークスの輸入が絶えたことすらないのである。友好条約を交わすこともなくこのような関係を築けているのだ、原因の一つが南方にあるとは考えられなかった、寧ろ、ずっと北東の森に拠点を置く永世中立国ラ=レファンス学院都市国家や東部のヒューロア・ラライナ王国、北西のシヴォン共和国が原因である可能性は高い。そして、工業的にも発展したそれらの国々と、何らかの取引があるのだとしたら。


 だとすれば。


 彼は無性にアーフェルズに会いたくなった。


「アダマス」


「はい」


「サフィルスは、今日はおらぬか」


「休日でありますので」


「呼び出せ」


 レントゥスは眉をぴくりと動かした。イークライトは口の端だけでにやりと笑って、それに答える。


「サフィは色々な伝手があるらしいからな、あやつはランケイアだぞ、アダマス」


「……承知仕りました」


「その後でよい、キウィリウスと将軍連中も呼び出せ」


 ぴりりとした緊張が光精霊のように走り、その場にいる者達の目を瞬時に鋭くさせていく。何が行われようとしているのか、何が動こうとしているのか、彼らは理解していた。


 いつもは困っているハルフェイスの眉も、今は眉間に寄った皺のせいだろうか、真剣に見えたのは初めてだった。

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