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同じ色だ。そして、二人はよく似ていた。
イークライト・シルダと、アルトヴァルト・シルダ。
「私の母の名前はアルフェリア、エイニャルンのアンデリー家出身で、スピトレミア領主ネーレンディウスのおばに当たる人だ……取調局第一課だったかな、そこに仕官していたのだけれど、我が父に見初められて、気が進まないながらも、仕える側から仕えられる側へと立場を変えた」
何処か別の世界を夢見ているようなイークそっくりの翠の瞳を、ラナは見つめた。そこには過ぎたものを寂しがりながらも慈しむ、優しい光が宿っている。
「私は帝都の貴族連中から蔑まれていたが、父の……ファールハイト帝の配慮もあって、有難かったよ、曲がりなりにも皇帝の息子としてそれなりの生活を送っていた」
そう言ってアーフェルズは微笑む。
「……曲がりなり?」
彼女が訊けば、彼は頷いた。
「うん、母が皇妃として正式に披露目を行わなかったから、私は妾腹扱いでね……そういう立場故に、シルダ宮の中心には近付けなかったけれど、その隅っこには住むことが出来たし、教授を招いての学問の合間に近衛隊や竜騎士軍の訓練所や詰所に通って、魔石動力機械付きの剣や槍で遊んで、訓練も受けさせて貰った……皆、歓迎してくれたよ」
彼は何度か腕を振りながら、筋肉の盛り上がりをラナに向かって見せた。階下からナグラスとオルフェの声が近付いて、遠ざかっていく。食材の買い足しについて、肉や野菜、果物をどれくらい、などという言葉が、此方にまで放り投げられてきた。
「ああ、私はそろそろアスヴォン高原産の牛肉が食べたいなあ……そう、小さい頃はね、私はあまり牛肉が好きではなかったのだけれど、十五の年に美味しく食べられるようになってね……その年の雨季の終わり、ああ、はっきり覚えているなあ、十二月だった、三十代半ばだった父上――ファールハイト帝が、正式に迎えた皇妃との間にようやく一子を儲けた」
アーフェルズが言う“馬鹿げた話”が、誰かが生活している日々の物音の中にするすると馴染んでいくのが非現実的で、彼女は少し驚いていた。明日の食事内容と皇帝誕生の話が並ぶ、そんな平和な時代が来るのだろうか。
「余程の難産だったらしい、その時にまだ十七歳だった母親のイリシア――最も力の強いシルディアナ貴族の一つの、ゼウム家の出身だったのだけれどね――皇妃は四日後に息を引き取った」
ラナは思わず目の前にあった草色に染められたチュニックの裾を掴んだ。母親の顔すらも見たことがない、可哀想なイークライト。誰かの子供として親に甘える、ということを、果たして彼は知っていたのだろうか。八日間の逢瀬で彼女は何度もイークに触れ、その髪や肩、首筋を撫で、まるで仔猫のように摺り寄ってくる柔らかな肌の感触を知っていたが、それでも。
彼女はそう思うのだが、ひょっとしたら、あの若き皇帝は母の顔を知らぬことが当たり前で、それを不幸だと思うこともなかったのかもしれない、と気が付いた。
そんなことを考える彼女の手にそっと自分の手を重ね、アーフェルズは優しく叩くのだ。
「ああ、ラナ……ただの昔語りだよ、過ぎてしまったことだ、変えようもない……兎に角、難産の末に息をせず生まれ、宮殿付きの光術士によって蘇生させられたのがイークだ、宰相グナエウス・キウィリウスは若き皇妃の死に大層嘆き悲しみ、正式な跡継ぎの誕生に大層喜んだらしい……その数ヶ月前に彼の若い奥方が女の子を産んだというのもあったからね」
「……それ、もしかして」
「宰相家でラレーナと名付けられた子は、戸籍登録をされることはなかったけれどね」
微かな物音が聞こえる、先程退治し損ねた黒虫が、棚の裏で暴れているのだろうか。アーフェルズがびくりと震えて、ラナが落としてそのままになっていた退治筒を二つとも引き寄せ、両手に握り締めた。射程が長ければ気の利いた武器である。
「そうだなあ、君が退治出来ないなら、覚悟を決めて私がやろう……弟の誕生については、黒虫よりも何とも思わなかったかな……尊大な貴族連中の間を抜けて、兄さんだよ、なんて言いながら、大っぴらに会いに行くなんてことも出来なかったしね、だけど、最初で最後の大っぴらな一回があったよ、この電子画を撮影した時さ」
ラナは再び電子画に視線を落とした。赤子はきょとんとした表情であるが、三人は微笑んでいる。黒虫よりも何とも思わなかったなどというのは嘘だ、と彼女は思った。ちらりと盗み見たアーフェルズの横顔が、電子画の中の少年と同じように、優しく微笑んでいる。
「……さて、それから飛んで四年ぐらい後のことだ、皇帝家とは全く関係ない、なんて思いながらのんべんだらりと宮殿の隅で暮らしていた私の所に、三歳も半ばを過ぎたイークはあろうことか迷い込んできた」
彼は両手でくるくると黒虫退治筒を回して遊びながら話を続ける。ナグラスとフローリシェの声がまた近付いてから通り過ぎていった。
「……丁度、帝国北部、立入禁止地域ラライとの境近くにあるアル・イー・シュリエ領で、原因不明の熱病が流行り一族の殆どが命を落とし、そしてファールハイト帝が重い病を患って床に伏せるようになった、そんな時だった……宰相キウィリウスが恐ろしいくらい無表情で、アル・イー・シュリエの村も畑も全てを焼くよう命じたのを覚えているな……私は小間使いの格好に変装して、物陰からこっそり政治を見るのが好きだったからね、それも聴いていたよ……キウィリウスの奥方はアル・イー・シュリエ出身の女性だったのではないかなあ、なんて考えた」
アーフェルズがまた彼女の手を優しく撫でる。そして気付くのだ、彼のチュニックの裾を握りすぎて皺を作っているのは自分であることに。ラナは慌てて手を離した。
「ごめんなさい」
「いや、いいよ、宮殿の真ん中で育っていたら気にしていただろうけれど、端っこだし、もっと言えば詰所育ちだから……そう、後に聞いたことだけれど、キウィリウスも辛かったのだそうだ、奥方の故郷だったからね……しかし、原因不明の熱病が流行り、それが帝都や他の地域に拡大していけばこの国は間違いなく滅び、やがては大陸全体に拡がり、殆どの人間を死に追いやってしまうかもしれない……きっと、それしか方法はなかったのだと思う……私だって、当事者だったら、そうしていたかもしれない」
彼は何かを振り切るかのように首を振った。
「キウィリウスはその後、反宰相派の貴族達に狙われ、生き延びたのはいいけれど、大事な部下を大勢失った……ヒーエリア家の者もそうだった……恐らく暗殺されるのを防ぐ為に練った宰相の苦心の策だったのだろう、奥方は、娘と共に何処かへと姿を消して、その後の消息は不明だ……その後は、君ならわかるね」
「……うん」
彼女は頷いて、触れる大きな手をぎゅっと握る。夢や現実で見てきた色々なものが耳の中で木霊するのだ。約束を還す時が来た。アーフェルズは死んでしまったの? どこへでも、好きなところへ、私のフェーレス。私の、たったひとりのフェーレス。風の加護を授けよう。
我がフェーレスよ。
ならばお前の行く先に、その祝福があらんことを。
彼の手はしっかりと握り返してきた。温かい。アーフェルズは生きている。
「大丈夫かい」
「うん、大丈夫」
「どこまで言ったかな、そうだ、色々と聞いた後の話だ、部屋へ戻って、元の服に着替えようと衣装部屋の大きな棚を開いた時に、見付けたのさ」
彼はまるで、自分が今しがた言った色々なことの重さを吹き飛ばそうとするように、くすくす笑った。
「小さな男の子が中で膝を抱えて座っているのを」
「……どうしてまた、そんなところに?」
「本は嫌だ! って、ぐずっていたよ」
ラナは思わず吹き出した。
「行動力は最高にあるなあ、イーク」
「その結果がお忍びだよ、今も変わっていないようだし」
「うん」
そして、それが一斉摘発を招き、犠牲にならなくて済んだかもしれないシルディアナの数多の者を死の縁へと追いやったのだ。背負った業の深さは計り知れない、だが、彼の行動は、ラナに勇気を与えたのだ。そして、彼女の素性を明かす切欠にもなった。
「……イークが「竜の角」に来なかったら、私、どうなっていただろう」
「どうだろう、ティルクは関係なく君を救おうとするだろうけれど」
「でも、騎士課程と一緒にサヴォラ免許まで取ろうなんて思わなかったかも」
アーフェルズは微笑んだ。
「一緒にいて、楽しかったかい?」
「……うん」
「今もそう思う?」
ラナは顔を上げた。この胸の奥に渦巻く想いを届ける為に、ここまで来たのだ。
「今はね、力になりたい……なりたかった、いや、違う、なれる」
アルジョスタ・プレナの指導者は何かを言いたげに口を開き、何も言わずに閉じた。翠の双眸が真っ直ぐ彼女を見つめる、それが眩しそうに細められて、ふわりと彼は微笑む。
「私もずっとそう思っていた、ずっと、今も……アルー・ウ・ゲル・オースタ、もしかしたら、どこかで聞いたかな」
「光を支えるもの」
「知っていたか」
「フローリシェ……オルフェから、聞いたの、さっき――」
言いながら、彼女は息を呑んだ。
二番目に、光を支えるもの。
「アーフェルズ……ううん、アルトヴァルト、の方がいいのかな」
「あ、是非ともアーフェルズのままにしておいて欲しい、皆には内緒だから」
ラナが思わず上ずった声を出せば、皇帝の兄は低く小さな声で応じた。
「わかった、アーフェルズ……ねえ、アルジョスタ・プレナって」
「……私はね、棚の中でイークライトを見つけた時から、ずっと思っていたことがある」
アーフェルズは目を伏せた。そんな仕草までが、どこかイークと似ている。
「とにかく、私達は再開したその日だけで、あっという間に仲良しになった……部屋の戸を開けてそこら辺にいる小間使いに頼んで、さっさと部屋に戻してやらないと大変なことになるのは見えていたのだけれどね、説得しようとしてもイークライトが泣いて嫌がるものだから……あの強情さには流石に参ったよ、だから手近にあるものと、私が思い付く様々な方法で遊んだ……全く、何でもかんでも飛び付くから、大変だったけれどね」
遊ぶ、というのが不思議で、くすくす笑う彼に問うた。
「……どんなことをして遊んだの?」
「庶民の遊び、とでもいうようなやつだなあ……水の勇者ごっこは私が炎の化け物役だったし、術式を組み替えて謎解きもやったね、絵も沢山描いたなあ……魚やら蟹やら海獣やら何でもかんでもやったけれど、あの子は竜が一番上手だったね……最後は、夕刻の仕事終わりの鐘が響き始めた所で私が小間使いの格好をして、侍従長の所へイークライトを送り届けたよ」
アーフェルズはその時のことを思い出したらしく、さも愉快そうに喉の奥で笑った。
「イークはどんな子だったの?」
「何よりもまず言えるのは、気が強かった……早い頃から芯があった、といってもいいかもしれないな……これはどの幼子にもいえるけれど、年相応に可愛らしかったよ……そして、かのエーランザ・シルダから私達一族が受け継ぐ光の力、イークが宿しているのは波動が此方にまで伝わってくる程の強さのものだ……適正のある人にしかわからないけれどね、これは」
ラナには適性がないからわからない。彼はひとり頷き、再び話し始める。
「そんなことがあってから、時折、イークは部屋を抜け出して似非小間使いの元へと忍んできた……立派に通い癖がついてしまったよ、全く……万が一のことを想定して、私は自分がイークライトの兄であることを告げなかったけれど……だが、あの子はまた、普段からよく口が回って、喋ったからなあ……宮殿の隅に行っていることが侍従長の耳にでも入ったのだろう」
ラナは彼の声色が少し変わったことに気付いた。その顔からは先程の笑みが跡形もなく消え失せ、見受けられるのは疲労と悲しみ、寂しさだった。
「数ヶ月も経っていないある日の夕刻、私が勝手に付けて貰っていた剣の稽古を終えて宮殿の訓練場から帰って母を訪ねた時のことだ、扉を開いた時に見えたのは割れた皿の欠片と散乱する食事、そして白い食事机の上で血を吐いてこと切れている遺体だった」
「アーフェルズ」
「大丈夫だ、過ぎたことだから……」
彼女に向けられたのは、とても笑顔と呼べるような表情ではなく。それでもアーフェルズが喋り続けるのは何の為せる技なのだろう、まるで誰にも言わず秘めてきた宝物の在り処を包み隠さず全て吐きだして、その中にひとつ眠る呪われた宝玉を砕いてくれと願っているようだった。
「その時、私はもう、宮殿にいられなくなったと悟った……妾腹の子が宰相キウィリウスのついた小さな皇帝の子と関わりを持ってはいけない、庶民の出が大半である役人の子から余計なことを吹き込まれたら厄介だからね……留まる猶予などなかったよ、私は小間使いの格好で部屋から脱出した……母を置いて行くのは本当に、今でも……それでも、私は生きねばならないと心のどこかで強く思っていた……飛び降りた二階の窓から兵士の声が聞こえてきたのだよ、間一髪だった……私は数日間シルディアナを彷徨い、何の因果か屠殺場へ辿り着いて、生きたままで運ばれてきた草食竜を一頭奪って帝都から逃げた……曲がりなりにも地のドラゴンの一族なのに、あの草食竜の足の遅さときたら……全く、走る人間より酷い」
彼は再びこくりと顎を動かし、酷い、ともう一度口にした。森の若葉のような瞳に反射するランプの光は、少し向こうに広がる帝都の明るい夜を、ティルクが放つ矢の如く鋭く射抜いている。
「そう、宮殿の隅にいたからこそ、私には見えた……国の状態はひどい、このままでは私達が暮らすシルディアナという国は駄目になってしまう……機能しない傀儡と化していた若すぎる皇帝に、好き放題尖塔を建てて浪費する貴族の群れ、尖塔を建て続けることに疲弊して貴族や皇帝に嫌気がさしている民……上手く時期が合わないと、仮想敵国として名が挙げられるシヴォンやらヒューロア・ラライナやらケールンの連中に潰されてしまう……商業的、工業的に発達したこの国シルディアナにも、侵攻される理由はある」
「憎くないの、アーフェルズ?」
ラナは目鼻立ちのすらりと整った横顔を見つめ、尋ねた。
「憎いとは、また何故だい?」
「貴方のお母さんは……貴方自身も追われる立場になった、命を狙われて」
「ああ……いや、そんなことはないときっぱり言い切るね、私は」
アーフェルズは少し微笑んで、左手の人差し指で眉の上を掻いた。
「私を追いやったのはシルディアナ、ではなく、宮殿の権力掌握にいそしんでいた連中だ、ラナ……だが、逃げ出した先、草食竜が死んで行き倒れていた私を拾ってくれた人がスピトレミア地方の荒れ地にいて、見ず知らずの私の世話を焼き、この腕とこの手で獲物を捕らえ料理を作る技を私に教え、何の見返りも求めずに住居を提供し、領主のネーレンディウスの所まで辿り着くことの出来る力を私にくれた……ネーレンディウスに至っては騎士課程と魔石工学の受講の手続きまでしてくれたよ……そう、私一人の生活を支えてくれた人が、沢山……自分達の生活でさえ苦しいのに、私のことまで気に掛けてくれた……帝国がこのまま迷走すれば、彼らだって明日を生きられるかどうかわからない時代がくる」
彼にしては珍しく、燃え盛る紅蓮の炎の如き激しい感情を宿した声だった。
「……それが、そう、それがわかったから、私は生きようと思った……私はあの人達に恩を返さなければいけない……それに、これから起こるだろう混乱の中できっと、多くのものが失われるだろう……私はあの、スピトレミア地方の人々を失いたくない、失うのは辛い」
彼女は強く頷いた。母を失った、住み込みで働いていた居心地のよい酒場も失った、友はこの手で。その記憶は消えることのない痛みとして、胸の奥でいつも鈍く疼いている。同じようにアーフェルズも母を、居場所を失い、今は自分を助けてくれた人々を守りたいと願っている……そんなことを考えるラナの目をじっと見つめ、彼は続けた。
「失うことはごく自然なことだし、始まりがあれば終わりがあるのは当然だ、何時か手放す時が来る、そんなことくらいは私だってわかっているよ、わかっているつもりだ……でも、幾ら自然の摂理だと自分に言い聞かせたって、辛いものは辛い……辛いから……この国が、シルディアナの人々が、スピトレミアの人々が、失うものがより少なくなるような状況を作って、その中で国家として良い方向に変化するように誘導していきたい」
彼は背筋を伸ばした。
「そうやって、私はイークライトを、あの子があの子として生きられる未来を、ずっと陰から守りたいと、ずっと、ずっと思っていた、今もそうだよ、私の、たった一人残った、大好きな弟だから……憎しみなんて、ずっと前に、捨てた、アルー・ウ・ゲル・オースタ」
ずっと、血を分けた弟の為に。
アーフェルズは、隣で静かに涙を流すラナの肩をそっと抱き寄せるのだ。
「それが私にしか出来ないことだとは思っていない、だからこうやって、マルクスやエレミア、君のおじ……ティルクや、君の力を借りている、アルデンスからも借りていた……だから、これから起こる辛いことだって、皆で力を合わせたならば起こらなくて済むかもしれない……そして、この話も……全て終わって私がまだ生きていたら、皆に披露するつもりだ、どこまで信じて貰えるかはわからないけれど、ね」
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