8
時が止まった。
誰も動かない。強いて言うなら、彼女の腕を掴むナグラスの力が抜けたぐらいだろうか。
表情を失ったままの指導者のその顔は、まるで死んでいるかのように冷たくて、ラナは震えた。平面映像機だけがずっとイークライトの声で喋っている。シルディアナ放送を見ている人々に聴いて欲しい筈の数多の言葉達は、つるりと床に落ち、滑って、何処かへと消えていった。
「死んだよ、十の月、三十日に」
「……何を言っているの、アーフェルズ」
「まあ、そもそも、アミリア宮の戸籍に、ラレーナとかいう名前の人物は存在していないのだけれどね、エレミアが報告してくれたよ、誰かが調べたのか……当然だけれどね、シルディアナ帝国の人は、皆、五歳検診の後で戸籍登録されるのだから、四歳の時に家から出された者はそこに入らない、と言うよりも、入ることが出来ない……更に言うなら、身の安全の為に戸籍をわざと作らないことも可能だ」
「何、それ」
「知らなかったかい? こっちもエレミアの報告だね、持つべきものは良い家族だ、流石、ランケイアの家は古くからのシルディアナ貴族なだけはある……子供も沢山いるから、家を守る為に、時流をよく見ることが出来る立ち位置を確保している、素晴らしいよ」
ランケイア、という名に彼女は近衛騎士のサフィルスを思い出したが、それよりも、自分の戸籍が存在しないというその事実が冷たく刺さってくる。彼女が息を呑んで目を瞠れば、その男の口からは冷たい笑い声が飛び出した。
「全く、君を誰でもないものにしてしまうなんて、馬鹿げた話だ」
「……でも、私、腕輪を持っていて」
「それはラレーナ・キウィリウス・サナーレが持っていたもので、今は皇帝陛下がお召しになっているようだね、見ているかい、かの皇妃は余程イークライト・シルダに好かれていたようだ……私も一昨日の披露目をシルディアナ放送で見ていたよ」
アーフェルズは平面映像機を顎でしゃくった。その画面の中で、皇帝はまた、左腕の腕輪に触れる。最早痛々しく見える微笑みを浮かべ、イークライトは正面を向いている。その姿に、彼女は全身を引き裂かれるような苦しみを覚えた。
「それとは違う、君は、今はただのラナ……ティルクの家族のラナ、シルディアナ帝国の戸籍に登録されていないラナ……君がいた帝都にも、君が来たスピトレミアにもいない」
ラナに向かって、アーフェルズが歩を進めてきた。その表情がちっとも読めなくて、彼女は身構える。だが、その人に隙は見当たらなかった。
逃げ出せない。逃げられない。
「ラナ……何にも縛られない、自由な風の、いとし子」
何だか聞き覚えのある言葉だ、と思いながら、彼女は身を引こうとしたが、足が動かない。彼の人は真正面で立ち止まった。手を伸ばせば届く距離で、ラナは声が出ないまま、ただ口だけを動かして、息を吐く。
「……私を、殺すの?」
「何故、それを訊くのかな」
「……私を殺したがっている誰かがいるって言ったら、ティルクが、それはアーフェルズだ、って」
「何てことだ、全く……ティルクには後で釘を刺しておかないとね……私に出来ると思うのかい、君を殺すなんて?」
「でも、それが必要だったら、出来るでしょう――」
そう言って苦笑したその表情が、不意に誰かと重なって見えて、彼女は言葉を切った。
ラナは心に宿った小さな違和感に戸惑った。雨季の始まりに芽吹く若葉を思わせる翠玉の双眸を、別の誰かと共にいた時にも見たような気がするのだ。平面映像機の画面の向こうでは先程からずっと報道官と皇帝が話を続けている。美しい金色の髪が、冠から下がる魔石と共に、彼の首の動きに合わせて揺れた。
ロウゼルの花弁の筋の色によく似た淡紅の唇が、ラナの目の前で、二人分、優美に言葉を紡ぐのだ。とんでもない想像に辿り着いてしまったような気がして、彼女は思わず、利き手を上げる。
「どうかしたのかい、ラナ」
何かを言いたかったが、言葉にならない、ラナはナグラスの緩んだ手から自分の右手を引き抜き、平面映像機を指した。
振り返ったアーフェルズの横顔が、その向こう、横を向いた皇帝に重なって見えたのだ。
「同じ」
囁いた瞬間、アーフェルズが物凄い速度で振り返った。
後頭部で纏めた金色の髪が跳ね返って揺れる。
「ラナ」
突然、その大きな手に、がっしりと腕を掴まれた。
「殺すの?」
「……いや、馬鹿げた話の続きをしたいと思ってね」
反射的にラナが訊けば、肩を竦めておどけたように首を振ったアーフェルズはしかし、至極真面目な表情と声でもって、そう言ったのだ。
今すぐにもラナを連れて店の奥、階段の上にある集合住宅の一室へと突進していきそうな素振りを見せたアーフェルズだったが、その前に飯を食え、とナグラスが顔をしかめて言った。不承不承といった表情ではあったが、この料理長には何故だか逆らえないようで、反乱軍の指導者も同意するのだ。
なので、四人は竜角羊の煮込みや珊瑚樹の実と鐘胡椒の実を中心に味付けした海鮮炊き飯、盾蟹のスープを囲んで、食事を取った。全部大鍋や底の浅い鍋に入ったままで、取り分けて食べるのは、まるで家族のような心地がする。久方振りの「竜の角」料理長の味付けが身体にじんわりと染みて、家に帰ってきた、という気持ちになって、懐かしくて、ラナは食べながら泣いた。
「ナグラス、最高」
「おう、ありがとうな」
食べて、笑って、寝ろ、という言葉がある。何百年も昔の、サントレキア大陸出身の英雄が残した言葉らしい。ナグラスは子供みたいに泣きじゃくる彼女の頭を撫でながらそんなことを語った。アーフェルズはエイニャルンでの会食の時のように、自分の皿の上に何でもかんでも同時に乗せて、オルフェに呆れられていた。
「そう言えば、ティルクは何処にいるの、私を必ず追ってくるって言っていたでしょう、アーフェルズ」
食事を取った後、アーフェルズと連れ立って、ラナは階段を上がっていく。彼女が訊けば、彼はちゃんと視線を合わせて、こう答えるのだ。
「この三日間、サヴォラで飛んだり情報を集めようと人を動かしていたりしてずっと起きていたから、休みをとらせているよ、この建物の中にいるから安心して欲しい」
「……帝都に来ているのね」
「うん、君も起きたし、ティルクが起きたら、皆で一緒に帰ろうか」
スピトレミアに。アーフェルズは辿り着いた部屋の扉を開けながら言った。
「……アーフェルズは、今は、あそこが家なの?」
「皆、良くしてくれるからね、私も色々感謝を返していきたいと思っているよ……光の精霊の思し召しの下に、我らが足元を照らし給え」
聖句を唱えるその横顔は優しく微笑んでいる。そこからは、何かを殺したいなどという意志は全く感じられない。入った部屋の中で、光魔石のランプが点灯した。
「さて、何から話そうか」
自分とラナの為に椅子を用意しながら、彼は独り言のように呟く。濃いイオクス材の上に溜まった埃を指で浚い、アーフェルズはその量に顔を顰めた。
「それとも、掃除でもしながら、気楽にいくかい?」
「……埃だらけ」
「そうだね、水で濡らした布が欲しいところだ……ううん、ラナ、その辺に黒虫退治筒がないかな?」
彼のその言葉にラナはまさかと思う、素早く辺りを見回せば、黒く大きな虫が三匹程、素早い動きで物陰へと逃げていくのが見えた。
「あ、三匹!」
「嘘だろう、私は二匹しか見えなかったぞ!」
「ちょっと、棚の裏に行っちゃった」
「動かすのは私がやるから、君は退治筒を持ってきてくれ、フェーレスよりも早く!」
部屋の中にはなかったので、彼女は階下まで降りた。勢いよく再登場したラナの姿にナグラスが驚いて、洗っている途中の鍋を落とし、けたたましい音が響く。
「どうした、ラナ」
「ナグラス、黒虫!」
「ああ、筒か、そこだ」
料理長が顎でしゃくった先の棚の上に、黒虫退治筒が何本か置いてあった。二本を手に取った瞬間、上階からアーフェルズの悲鳴が聞こえてくる。一体何事かとラナが天井を向けば、ナグラスは遠い目になって、こんなことを言うのだ。
「……飛び掛かられたか、あいつ、黒虫に関しては大嫌いだからな」
「……そうだったの?」
「俺達は元々「竜の角」に出る奴らである程度は慣れているが、アーフェルズはなあ……いつだったか、絶滅させてやるって息巻いていたな」
「……何があったのかな」
そう呟けば、料理長はにやりと笑った。
「馬鹿げた話の続きをする、っていうのなら、訊いてみたらどうだ」
「そうだね」
ラナは黒虫退治筒を持って階段を駆け上がり、アーフェルズのいる部屋に戻ってきた。開けっ放しの扉から黒虫が一匹飛んできたので、すかさず筒を構え、横に取り付けられている釦を押す。
「炎の精霊よ!」
炎が噴き出し、黒虫は一瞬で灰になる。その瞬間、彼女の脳裏に重なるのは主の道だ。
脳裏に蘇る今際の言葉は、耳の中で響いた。我がフェーレスよ、ならばお前の行く先に、その祝福があらんことを。
彼女が招いた炎は命を焼いた。虫も、人も関係なく。
彼女は、膝を折って、また泣いた。
ラナは黒虫退治筒を持てなくなった。
「ごめんね、アーフェルズ、私には、もう、出来ない」
四半刻にも満たない時間だった。しゃくり上げながらそう言えば、近くで同じように蹲っていたらしいアーフェルズが這って近付いてきて、その場で蹲った彼女をそっと抱き締めるのだ。けれど、その力は強かった。
「……ナグラスかオルフェ、呼ぶ?」
「……そうだね、後でそうしよう、動きたくない、動いて奴らに触りたくない」
「……黒虫、嫌いなのね、アーフェルズ?」
大分落ち着いてから色々と訊けば、彼は重々しく頷いた。
「うん、そうだね……私も厨房で働いていた時があったけれど、そこの料理長が横暴でね……ああ、ナグラスとは違う人のことだよ、十九歳でエイニャルンに来てからの話だから」
アーフェルズは自嘲するような笑みを浮かべ、続ける。
「働けるのなら何でもいいやと思って来たところだったのだけれどね、ある時、料理長が言うには、厨房に黒虫が出た、全部退治しないと給料はやらない、とのことで、私が全て片をつけることになった……黒虫くらいなんてことはないと思っていたのだけれど、甘かったよ」
彼はラナを抱き締めながらぶるぶると身体を震わせた。その震えが伝わってくる。
「聴いてくれ、一匹どころじゃなかった」
「……さっきも三匹いたじゃない」
「いや……想像して御覧、排水溝の中に落ちかけた生ごみの塊に、大量の黒虫が集まって、球のようになっているのを」
「嫌だ、やめてよ、アーフェルズ!」
その光景を想像して、「竜の角」の何処かにももしかしたらそういう場所があるかもしれないことにラナは気付いて、叫んだ。アーフェルズは体を揺らしながら乾いた声で笑う。
「いやあ、叫んだね、叫んだよ……それから、ありったけの火炎筒どころか術式刻印済みの強力な炎の魔石を買ってきて、安全な場所に退避してから排水溝ごと厨房を爆破した私の話をしようか」
「終わっているじゃないの、話が!」
「当然クビさ、給料もなしだ、そして店は潰れた! 新人の従業員が黒虫の大群を見つけて恐怖のあまり厨房を爆破したところだ、不潔だ、と広まってね……酷すぎる話だよ、その料理長からは数年に渡っていたぶられるし、本当に私の十九歳は散々だった」
彼は項垂れて溜め息をついた。
「黒虫を見るとそれを思い出すから、嫌いだ……絶滅してしまえばいいのに」
「……もっと、何かあったの?」
「ああそうだ、馬鹿げた話の続きをするって君に言ったね、そう……見て欲しいものがある」
アーフェルズは思い出したように顔を上げ、ラナの肩に自身の肩を触れさせたまま、廊下の壁に背を預けた。彼女も同じようにして壁に凭れるその横で、彼は腰のベルトについている衣嚢から、何か薄い板のようなものをそっと引っ張り出す。
「さっきのシルディアナ放送を見て、もう気付いただろう、君も」
差し出されたそれは電子画だった。かなり古い。
家族のようだ。ラナが何度も見たことのある冠を抱き、豪奢で色鮮やかな服を纏い、短い金髪と翠玉の双眸を持った美しい男が中心だ。一人の女性が彼の左横に座り、乳飲み子を抱いている。少し癖のある暗めの金髪を編んで結い上げている、衣装も控えめではあるがスピトや流水紋の意匠が刺繍で施されており、帝国東部の出身だということがわかった。
そして、冠の男の右側には、同じ翠の色をした瞳で、少し癖のある金髪を顎の下あたりまで伸ばした年若き少年が一人、雨季の湿った恵みの風を想わせる柔らかな微笑みとともに立っている。女性と同じように、真ん中の男と比べると衣装は控えめだ。
赤ん坊の薄い毛と、開かれた目の色が、少年とよく似ていることに気が付いた。
ラナは顔を上げて息を呑んだ。少年の面影を色濃く残したアーフェルズは寂しそうに微笑む。
「アーフェルズ、という名前はどこの戸籍にもないよ」
「まさか」
「名乗ろう、私は、アルトヴァルト・シルダ・アンデリー」
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