7
頬を涙が流れていく感触に、目を開けた。真ん中に雨漏りの染みが広がっている見知った天井が飛び込んできて、少しだけ驚く。大分長いことそれを見ていないような気がしたからだ。
気分はまだ混乱していた。見てきたものの何もかもが全て夢だったのではないか、そう思える。何故ならこれはいつもの朝だからだ、眠気は全く残っていない。
平面映像機から、シルディアナ放送の音声が流れてくるのが、耳に届いていた。それはぼんやりと鼓膜を震わせ、何を言っているのか少しはっきりしない。だが、うねるような唱和がその奥で鐘のように響いている、何度も、何度も叫ばれたそれが。
皇帝陛下、万歳。
クライア・サナーレの叫び声は、全ての人を巻き込んでどんどん大きくなり、ミザリオス・シルダの名を叫び続けていた。
皇帝陛下、万歳。
クライア・サナーレは、覇王の剣ケイラト=ドラゴニアから別たれた美しい腕輪を抱いて。
そして、気付くのだ。左腕にいつもあった感触がない。そういえば、寝る時はいつも外していたことを思い出した。寝台の脇の小机の上に置いている筈だ、そう思って起き上がると、後頭部に鈍痛を覚える。
その場所に鋼の腕輪はなかった。
「あら、起きた?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはこの酒場「竜の角」の女主人が微笑んでいる。
「……フローリシェ?」
「ええ、懐かしい名前ね、フローリシェ、って……私の本当の名前はオルフェ、久し振りね、ラナ」
「オルフェ……久し振り?」
そうだ。
ラナは思い出した。
「二ヶ月振りよ」
「……そうだ、私」
彼女は自分の身体を触った。何処にも傷はない、敢えて言うなら鈍く痛む後頭部だけだ。そして気付く、最後に着ていた服と今着ている服が違うことに。すべらかで落ち着かなかった記憶のある披露目の衣装は消え、簡素で柔らかい綿のチュニックの感触が肌に優しい。編んでいたような気がする髪は綺麗に梳かれていた。
「……全部夢だったの?」
「そうかしら?」
寝台の端に座っている女主人を見上げれば、妖艶な笑顔が首を傾げる。
そこでラナは気付くのだ、開けた左耳の穴に何かが通されていることに。
「貴方が一番良く知っている筈よ」
フローリシェ――否、オルフェが言う、ラナは震える左手を持ち上げた。恐る恐る触れれば、流麗な線を描く金属の感触。その奥に嵌め込まれた石に宿る、小さくも苛烈な炎の存在。そこからふわりと小さな炎の精霊が飛び出し、彼女の手の上でくるくる回って、踊って、笑った。
そうしてラナは思い出すのだ、自分の覚悟を。
この炎で、よく知った者を焼いたことを。
これが誰から贈られた物であるかも。
「私……私、イークと一緒にいて、アルデンスが死んで……違うの、私が、この手で焼いた……それで、あの竜騎士団長、ガイウス・ギレークに、殴られたの?」
彼女は喘いだ。目に入ってきたのは相対する女の耳、それが尖っていることに気付く、西方の国から殆ど出ることのないイェーリュフの証。
「ねえ、イェーリュフ、イェーリュフが、酒場にいた、ここにいたの、アリスィアと一緒に」
「落ち着いて、ラナ」
「だって、だって、フローリシェ、違う、オルフェ」
視界が滲んで、次から次へと涙が溢れた。伸びてきた腕にしっかりと抱き締められ、彼女は嗚咽を漏らす。
「アリスィアと一緒にいたのは私じゃないわ」
「じゃあ、あれは誰だったの、知っているの?」
「新イェーリュフ族の祖、セルナイエス・フィルネア……為政者が召喚したがる賢人にして、旅人なのよ……おいたわしや、いつも国が危機を迎えた時ばかりに呼ばれるものだから、ついた渾名は厄災運び」
「誰が、ここに、呼んだの?」
「私よ、アーフェルズから相談を受けて、あの人を招いたのは私……まあ、建物の管理の為に使っていたフローリシェの名前の方は、足がつくといけないから、あの指導者様には教えていなかったけれど……でも、もうここまで来たから、誰に言おうと特に何も起こらないでしょうね」
オルフェは彼女から少しだけ身体を離して、安心させるように微笑む。だが、それはどこか哀しみを孕んでいた。彼女は思い出す、アーフェルズがいつか言っていたことを――初めてエイニャルンに来た時だ、あの酒場は私達の仲間の一人が所有していた建物だったからね、そういう名だったのか、ということを、アルジョスタ・プレナの指導者は口にしていた。
「本当はもっと穏やかに色々と変わっていく予定だったのだけれど」
「私……私が、色々引っ掻き回したから」
「いいえ、貴方だけじゃないわ」
自分だけではないから安心しろというのだろうか、ラナはそう思うのだ。そんな彼女の想いを表情から感じ取ったのだろう、イェーリュフの女は微苦笑を見せた。
「聴いて、ラナ」
美しい青緑の双眸が優しく見つめている。
「例えイェーリュフの賢人でも、人の想いまでは制御出来ないわ……アーフェルズだって同じよ、導くことは出来るかもしれないわ、でも、貴方や、ティルクや、ユエルヴィールのあの子の想いを、予想は出来ても、止めることは出来ない……その想いを利用は出来ても、その結果がどうなるか、誰もわかっているわけがないじゃない……そして、そういう想いはたった一つじゃないでしょう、ここに生きている人の分だけ、ある筈よ」
ああ、と彼女は呻いた。
だからアルデンスは死んだのだ。反乱軍や他国に都合のいい駒として利用されているのを理解していて、それでも止められなくて、ならば、と、ラナの進んだ先にあるラナ自身の幸せを最期に願って、死んでいったのだ。
アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィールは、彼自身の想いに従って。
流れていく涙は炎の精霊王の息吹が宿ったように熱い。彼女は自分の胸に手を当てた。
「そもそもね、アーフェルズが反乱軍を組織した時点で、穏やかに、なんて無茶な注文だったのよ……しかも、アルジョスタ、って、大層な名前までつけて」
オルフェは苦笑しながら溜め息をつくのだ。
そう、アーフェルズ。ラナは強く思った、反乱軍アルジョスタ・プレナの指導者に会いたい、と。本当に自分を殺したがっていたのか、それとも救いたがっているのか、何かの駒に使いたいだけなのか? 沢山の犠牲を出して、民の為、国の為、戦争を回避する為に、心身ともに豊かになるような国を作って守らなければいけない、そういうことを言っていたが、何の為に?
彼は、彼の中の何に従って、ここまで来たのだろう?
それは、訊くことが出来る。アーフェルズは生きているのだ。
「……アルジョスタって、どういう意味?」
「旧イェーリュフ族の海の言葉で、光を支えるもの、影のことよ、アルー・ウ・ゲル・オースタ」
「アルー・ウ・ゲル・オースタ……ねえ、アーフェルズに、会いたい」
「すぐに会えるわ」
何とはなしに色々と聞けば、イェーリュフは柔らかく笑って答えてくれた。そして、こう促してくるのだ。
「さあ、ナグラスが美味しいものを用意してくれているわ、行きましょう、ラナ」
起きたのは夜だったらしい。火魔石のランプが足元を照らす中、見覚えのある階段を下り、見覚えのある廊下を通って、彼女はオルフェと一緒に懐かしい「竜の角」へ戻ってきた。懐かしいと感じること自体が、もう既に驚きだ。
物は殆どないが、見覚えのある厨房で竜肉のワイン煮込みを作っていてくれたナグラスは、飛び付いたラナを真っ直ぐに正面から抱き締めてくれた。
「そう言えば、どうして、ここにいられるの」
身体を離してそう訊けば、大柄な料理長はにやりと笑うのだ。
「アーフェルズが揺さぶってやがるのさ、帝都の貴族を、な……歩兵や警邏、騎士なんかの一番下や中隊長は、大体下級貴族の奴らだ、勢いのある強いものについていった方が、自分の将来が保証されるだろう」
「……それで、外に誰もいないの?」
「おっと、ここで頭の稽古だ、ラナ」
ナグラスは真剣な顔になった。
「うちは要監視対象の酒場になっている、摘発の時に陰から見ていたが、上のお偉いさん、将軍様まで来るぐらいだしな……名前は何ていったか、あの、でっかい竜人族だ」
「ガイウス・ギレークって、名乗っていなかった?」
料理長の顔が凶悪に微笑む。
「そうだ、知っているか? 最近あいつは指輪を手に入れた」
「指輪……アルジョスタ・プレナの誓いの証?」
その指輪に心当たりがあった。ラナが言えば、ナグラスの眉が顰められる。その太い指が神経質そうに調理台の上を叩き始めた。
「よく知っているな、お前には、持たせてはいない筈だが?」
「竜騎士団長が、私に見せてくれたの……私がここからティルクと一緒に逃げたのも、見ていたみたい」
「竜人族は目がいいからな……いや、将軍様をこっちに取り込めたのか、誰の仕業だ?」
「マルクスから渡されたって、言っていた……あの時に」
あの時の、あの日に、シルダ宮の手前の、玉座へ向かう主の道で。そこでラナは気が付くのだ、披露目の日から何日経っているのだろう?
「ナグラス、イークの披露目があったのって、いつ?」
「イーク……イークライト・シルダ皇帝陛下か? それなら、一昨日だが」
「一昨日……私、二日も、眠っていたの?」
彼女は茫然とした。自分があそこで消えてしまった後、イークはどうなったのだろう?
ふと視線を周囲に向ければ、平面映像機が小さな光精霊を生み出しながら、シルディアナ放送を流している。それは、一昨日の朝まで寝床を共にしていた青年を大きく映し出していた。
「――プレナの者よ、我ら為政者が憎いか」
息が詰まった。その美しい翠の双眸から流れる涙が、悲壮な決意を宿した瞳の中の光が、ラナを真っ直ぐに、真っ直ぐに見つめている。笑顔の形に引き結ばれた唇は色を失い、胴着や羽織、細く靡く髪は焦げと灰を引き摺ったのだろうか、煤け、汚れていた。
「――私には、そのような脅威を取り除く責任がある、近衛の為にも、ここに横たわる者の為にも、灰となった者の為にも、其方らの為にも、全て……全て、そのような脅威は帝国の法で裁かねばならない、民よ」
それはこの世に存在する何よりも美しく、哀しい演説であった。
「――我が花嫁ラレーナ・キウィリウス・サナーレが、まだ生きている可能性はある」
「イーク」
心の中に大きく場所を取っていた筈のアーフェルズが一瞬で溶けて、霧散した。
会いたい。ここにいると、死んではいないと伝えたい。彼の希望となることが出来るのなら、幾らでもこの身を捧げたっていい。彼女は立ち上がった。
「駄目だぞ、ラナ」
ナグラスが腕を掴んでくる。あまりの強さに、抜け出すことが出来ない。
「どうして」
ラナは叫んだ。
「どうして、私があそこにいたら、私は、イーク」
「駄目だよ」
その時、直前まで彼女の心にいた人の声が聞こえるのだ。
振り返れば、いつも薄く微笑みを浮かべる柔らかで美しい顔立ちが、正面扉を閉め切った薄暗い「竜の角」の中で、火魔石のランプの明かりに照らされている。翠の双眸に、少し癖のある美しい金色の髪。草色のチュニックに濃い色のズボンを合わせ、ブーツの紐を律義に編み上げた格好で、そこにいるのは、反乱軍アルジョスタ・プレナの指導者。
「アーフェルズ」
「……やあ、ラナ」
否、彼は微笑んでいるのではない、と、ラナは気付いた。
その人は彼女の方を向くこともせず、平面映像機を見つめている。そこに映っているのは涙を流しながら画面の中で何度も演説を繰り返すシルディアナ帝国第五代皇帝だ。そして、次いで切り替わった映像の向こうで、白を身に纏い、戴冠したイークライト本人が登場した――喪服だ。思わずラナは息を呑んだ、失くしてしまった自分の腕輪が――夢で見た剣の柄にあった輪だ、それは剣が打たれた時に生じた破片を、クライア・サナーレが繋ぎ合わせ、風の精霊王フェーレスが加護を与え、初代皇帝ミザリオス・シルダが祈りを込めたものだ――彼の左腕に嵌まっている。
年若き皇帝は何かを愛おしむように左腕のそれを撫で、そっと微笑み、同席している報道官に向かって、今後の政策についての話をしていた。
大切なものを失って尚、国の為に、歩みを止めない為政者達がいる。
それに比べたら。
だが、彼女はティルクの言葉を思い出す。あの腕輪は、父から母に贈られた物である筈だ。
反乱軍の指導者が、そうか、と呟いた。その目は何か眩しいものでも見るかのように細められ、何かを言いたげに唇が開いて、何も言わずに溜め息のみを残し、閉じた。
それからだ、アーフェルズが真顔で彼女を見つめたのは。
「ラレーナ・キウィリウス・サナーレは、死んだ」
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