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「反乱軍アルジョスタ・プレナ、噂通りに、どうやら帝国東部にいるようだな」


 騒めきが大きくなっていく中、その中で独り、気丈に顎を上げている小柄な若い女がいるのを見つけた。暗めの金髪は編んで結い上げられ、その裾に美しい金糸がスピトと流水紋を描く深い青の盛装を身に纏い、灰色の双眸は此方を射るように鋭い。視線が合った、笑みを深めればしかし、逸らされた。髪型や服に施された意匠で判断が可能だ、あれはスピトレミア地方に封じられている領主の血筋である、と。


「我が皇妃を余程葬りたかったようだな、彼女はかつてそこにいたというのに……勇ましくも美しい我が皇妃はどうやらそこでサヴォラ免許を取っていたらしい、スピトの花と円の水流文様がフェークライトに刻まれていたそうだ」


 それがスピトレミア地方を治めるアンデリー家の紋であるということは、ここにいる誰もが知っている事実である。しばしば帝国に対して反乱を起こす地方であることも既知であり、その後ろに色々なものが存在していてもおかしくはない、と言えた。そして、その地を拠点としているであろう反乱軍の存在。まだ裏で支えている何かの存在があるかもしれないが、少なくともこの二つを結び付けられることが可能であるのは明らかであった。


 彼は周囲を見回した。様々な色の視線が、合ったそばから逸らされていく。ガイウスの瞳も揺れている。


「其方らを見ただけだが、意志の在処がよくわかった」


「皇帝陛下」


 ふと、囁く声がある。レントゥス・アダマンティウス近衛騎士団長がいつの間にかすぐ傍に来ていた。


「拘束致しますか」


 背後を振り返れば、近衛兵の列の向こうに、帝国取調局の実働部隊である武装した第六課の者達と、帝国歩兵団の兵士が並んでいる。見れば、扉一つに対して小隊一つがいつの間にか配置されていた。武力が玉座の間を囲み、槍に装着された魔石動力機械の釦に手を掛けている。


「アダマス」


「闇精霊の気配が濃くなっております」


 イークライトは逡巡した。静まり返った玉座の間で、貴族達が自分の一挙手一投足を見守っているのを、痛いぐらいに感じ取ることが出来る。


「だが、彼らはまだ何も言っていない……私を殺すことも可能だろうが、今この場でそれを実行するのは極めて悪手だ」


「ですが陛下」


 近衛騎士団長は首のみを動かし、厳しい表情で彼を見据えた。


「その態度が雄弁に物語っております」


 それを真正面から見上げて、彼は首を傾げ、微笑む。


「どうだろう、憂いの大きい者は隠すことにも長けている、故に立場を曖昧にしている可能性が高いだろう……そして、それはこの場にいる誰もが同じだ、アダマス、私は、今更誰かを小狡いとは思わぬ、生き残る方法を見極める賢明さを持っているだけのこと」


 皇帝は長い溜息をついた。


「私からは以上だ……キウィリウス、時間を取らせたな」


 彼は理解していた、この場にいる者が全て反乱軍アルジョスタ・プレナの息の掛かった者であることを。そして思い出すのだ、アーフェルズに再会した時、帝国の統一を保つのには限界があると、己もまた悟ったことを。


 想像出来るのだ、この場の者が、何であれ、守りたい何かを有していることを。


 そう、誰にも、同衾したラナにも言わなかった事実がひとつあった。イークライト・シルダは、アーフェルズから黒い指輪を受け取っている。全ての責任を捨てて立場を異にすることはいつでも出来た、だが、彼は強く願うのだ。


 ここにいなければならない、玉座に座する者でなくてはならない、と。


「皇帝陛下の思し召しにより、昨日の披露目に臨むに当たっての経緯の公表と、それに次いで、軍属より離れる者の離脱手続きに関する説明を行う」


 宰相キウィリウスが話を始めたのを聞きながら、彼は心に決めた。


 漆黒の逆さ竜を、持ち主に返さなければならない。




 それは、捜せばすぐに見つかった。


 イークライトがまだ五歳にもならぬうちから病に伏せっていた父帝ファールハイトであったが、十年前、彼の人が崩御してから誰も触っていない小机が、皇帝の寝室、寝台より少し離れた壁側に置いてある。彼はアーフェルズと再会した日に、使用人さえ近付こうとしないその机の一番下の引き出しを使うことにしたのだった。初めてそこを開けた日、何も入っておらず、拍子抜けしたのを覚えている。


 手近にあった布で二ヶ月分の小机の埃を拭き取り、それから引き出しを開ける。彼以外は誰もそこに居なかった。


 夜半、弱めた光魔石の明かりに鈍く煌めく闇の色。逆さ竜の美しい指輪。何か重大な人生の誓いを立てる時、帝都の民は掌の中央の指に指輪を嵌める。イークライトの中指に、その竜はぴったりと巻き付いた。虚ろな目が彼を睨んでいる。


「……私は決めた」


 彼は乱暴に指輪を抜いて、利き手の中に握り込んだ。どうすればいい、などとは、もう誰にも問わない。


 シルディアナ帝国皇帝、シルダ家の者に、彼に、このような闇は必要ない。


 急激な変化は戸惑いや混乱、他勢力の侵略をもたらすのが常である。僅かずつの変化であれば、人は自然と受け入れていくものだ。そういう点において、反乱軍は政治に対する理解が浅いと断言出来る。帝国の解体は領土の外縁部から徐々に行っていくのが良いだろう、手始めにスピトレミアを切り離して友好関係を築くことに尽力し、諸外国の盾とすることも考えたが、北東部や南東部の重要拠点や小領地の方が良いのかもしれない。それを誰かに相談したいと皇帝は考えた。


 だが、その前に、必要のないものを返しに行かなければならない。彼は歩き始める。


 左腕に嵌めた腕輪に触れれば、彼女がそこにいて、まるで勇気を分け与えてくれているような気がした。


 今日の居室外の近衛はハルフェイスを筆頭に全部で三名だった。近衛騎士達は夜更けに扉の外へ出てきたイークライトの姿に目を見開いて驚いたが、行くぞ、と一言だけを伝えれば、短い返事をして、それぞれが彼の後ろと左右についた。


「伝令」


 と呼べば、すっと姿を現す者がいる。闇術士は貴重だ。


「仰せのままに」


「ガイウス・ギレークを訪問する」


「はっ」


 短い胴着に短い羽織という、全て黒の軽装を纏った小柄な女だ。闇精霊の欠片も残すことなく、あっという間に消えた。


「いつも思うのですが」


 と、ハルフェイスが困り眉を更に困らせて歩きながら、ぼそりと呟く。


「闇の術を使うと何故姿を消すことが出来るのか、不思議ですね」


「私には使えぬからわからぬが、光を吸収する作用に一定以上の力を注ぐと、ああなるらしい」


 その疑問に答えれば、近衛騎士はまた少し驚いた表情になって、それから少し微笑んだ。


「成程、陛下は光であらせられるからこそ、御存知なのですね」


「治癒術士でも知らぬ者はいたぞ?」


 何処か曖昧な笑みが返ってくる。そこで目的地に着いてしまったので、イークライトは返事を聞き損ねたな、と思った。ハルフェイスが扉を叩くと、それは両側に向かって滑るように開いた。伝令はしっかり仕事をしたようだ。その近衛騎士のみを扉の前に残し、残りの二人を伴って中へ入らんとする時、低く落ち着いた声はそっと背中を押すのだ。


「お待ちしております、陛下……貴方様こそ、全てをあまねく照らすシルディアナの光」


 中に入ると、扉は独りでに閉まった。


 灯りが一つしか付けられていない仄暗い部屋の中に、大きな影が月光に照らされて佇んでいる。


「ギレーク」


「足をお運び頂く形になってしまったこと、申し訳御座いません」


「構わぬ、私が突然だったのだ、思い立ったことがあった故――」


 イークライトはそう言いながら気付いた。ガイウス・ギレークより少し離れた場所に誰かがいることを。其方に視線をやれば、漆黒の闇に溶けていきそうな髪と鱗の色をした竜人の男が一人、佇んでいる。


 何とはなしに、ああ、そうか、と皇帝は思った。


「――ギレークを揺らがせた者だな?」


「……マルクス・ウィーリウスと申します、イークライト・シルダ、シルディアナ帝国第五代皇帝陛下」


 全身の鱗を逆立てながらも、マルクスと名乗った竜人は、その場に跪いて礼の姿勢を取った……イークライトの言葉を否定することなく。反する立場を選んでおきながら礼儀など必要なものか、と蹴り飛ばしてみたい誘惑にかられたが、彼は堪える。その代わりに、話し掛けてくる声に応えることにした。


「陛下にお伝えしたきことが御座います」


「奇遇だな、私もあるぞ、ギレーク」


「私はこれを受け取ってしまいました」


 動きを見せたのは竜騎士団長だ。ガイウス・ギレークが、握っていた拳を上に向けて開き、皇帝の前に差し出した。


 月光に鈍く光る漆黒の逆さ竜。


「奇遇だな、ギレーク」


 イークライトは微笑んだ。そうであろう、ということには、とうに気付いていたし、自分もずっと、利き手の拳を力一杯に握り締めていたからだ。同じように掌を上に向け、開いてやれば、息を呑む音が何人分も静謐を切り裂いて風精霊のように飛んだ。


「私もだ」


「……陛下、それを、どこで」


「アーフェルズという名を知っているか」


 マルクスの全身の鱗が逆立って震える音が聞こえる。


「この宮殿の小間使いであったのだが、十三年前に姿を消したのだ」


「……小間使いだったって、嘘だろ?」


 見れば、驚愕に見開かれた瞳が、細く張りつめた弓弦のように震えている。


「そんなこと、あいつからは全く聞いていないぞ」


「ほう、反乱軍に属しておきながら、初耳なのか? そう、二ヶ月ほど前だったか、久方振りに会ってみれば、とんでもないものに転職していたのだが」


 マルクスは途端に口を噤んだ。自分が何を喋ってしまったのかに気付いたらしい、竜騎士団長の鋭い視線に気圧され、その竜人は一歩後ろに下がる。


「まあ、そのように恐れずともよい、私は其方らがどういう意志の下にどう行動しようとしているか、既に何となく察している、それも織り込み済みでこうしてここへ赴いてきたまで」


「……陛下」


「そう呼ぶのも最早億劫だろう、私は、自身がそのような敬称を受ける程の器でないこともわかっている」


「しかし」


 彼を諫めるように、ガイウスの声は大きくなる。イークライトは声を張り上げた。


「だが、私は皇帝だ」


 それは、白の衣装と共に、今現在、彼が纏うことの出来る鎧なのだ。


 目の前にはガイウス・ギレークの差し出された手がそのままあった。皇帝はその上に利き手を重ね、もう一方の手も添えて、祈るようにそのままぎゅっと握り締めた。


「これは私の持つべきものではない、持つことによって私の命が救われようとも」


 竜騎士団長は月光を背負う。見上げた向こうの瞳に宿る光の色はわからなかったが、その唇が、身体を覆うその漆黒の鱗が、眉間に刻まれたその皺が、何かを言いたそうに震えていた。


「決めたのだろう、何処に在ろうとも、己が守るべきものを守れ……それで良い、其方らの懺悔など私は決して受け取らぬからな」


 それは幼い意地であったかもしれない。だが、通すべき筋だと彼は思った。


 イークライトは手を離した。ガイウスの掌の上で、竜がまるでまぐわうかのように絡み合って、音を立てる。彼は闇を手放した。




 そうして初めて彼は、自ら手を切り、失ったことを知るのだ。


 知るということは、何と哀しみに満ちた行為なのだろう。この世は、特に人と人との縁に関しては、はっきりと知らなければまだ心穏やかに生きることが出来たのに、と思うことで満ちている。だがしかし、無縁ではいられないのが彼であった。彼は知ることを何よりも好んでいたし、知らぬことで失われるものの大きさを恐れていた。だが、短い間に知ったものは彼の心を容赦なくいたぶった。もとより土と水には縁がない。炎は憎しみを植え付けたし、風は亡くした。闇は捨てた。今生きているかどうかもわからない兄ならどうしただろう、と、ふと思ったりもしたが、可能性の少ないもしもの世界など、そんなものは不確かな罠である。アルトヴァルト・シルダという文字列を忘れたいと思った。


 イークライト・シルダには光しか残っていない。


「近衛よ、暫し外せ」


 そのようなことを言わずとも、その場所の扉の開閉を司る魔石動力認証機構にはシルダの血の者しか認証登録されておらず、それ以外の者は入ることは出来ない。近衛騎士達は扉の前で待機の姿勢を取った。ハルフェイスが心配そうな表情をしていたが、この近衛が困ったような顔をしているのはいつものことだ、曖昧に微笑んでおいた。


 彼は独り、扉を開け、中に入る。背後で滑る音を立てて、それは閉まった。


 白い竜が佇んでいる。柔らかな蛋白石で出来ているが、光魔石を塗装して強化が施されているのだ。短剣にしては長く、長剣にしては短すぎる剣を、その竜は掲げ持っている。


 ケイラト=ドラゴニア。


 窓より差し込む月光にそれは照らされ、多彩色の燐光を放ち続けている。


 女鍛冶師の手によってこの覇王の剣が打たれた当時、ミザリオス・シルダ初代シルディアナ帝国皇帝はこれを佩き、国を豊かにせんが為と、現在のシルディアナ帝国版図における東部諸国を次々と併合していったのだ。スピトレミアもその一つだ。それから長い間、帝国の象徴として在り続けたこの剣は、魔石動力の源として帝国各地に動力を送る任に就いていたが、それも、魔石動力革命を帝国において成し遂げたイークライトの父ファールハイトの代で終わった。


 百年以上が過ぎている。


「……正確には、百十四年か」


 剥き出しの刀身に触れれば、温かな躍動が伝わってくる。その瞬間、瞬くのは翠光。


 彼の左腕で、彼女の腕輪が強い光を放っている。


「……ラナ?」


 その名を呼べば、光が視界を焼いて、イークライトは思わず目を瞑った――

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