5

 ぎゅっと抱き締めあったその相手――グナエウス・キウィリウス――も生きている人なのだということを、イークライトは存分に思い知らされた。まるで父のように受け止めてくれる温かく愛しい腕から離れたくないと願ったのは、初めてだったかもしれない。義理の父になる予定ではあったが、そのような戸籍の関係とはまた別の、何かよくわからない、腹の底から湧いてくるものの作用だろう……これだけは、彼もはっきりと言える。


 そう、たった八日間だけの逢瀬だったというのに。


 一人で過ごす寝台の上は冷たく、空調が効き過ぎていると思って近衛の任に当たるサフィルスに緩めさせたりはしたが、そのような悪あがきに効果はなかった。彼は腕輪を抱き締め、黙って彼女を思い出しながら己を宥めた後、汚した手を拭くこともせず、自らの所業に啜り泣いた。数刻後に目を覚ました後も涙は止まらなかった。いっそ身体中の水分が枯れ果てるまで泣いて、ヴァグールの炎で焼かれて、大河アルヴァを下り、海の底に還りたいとさえ思った。そして何度も何度も夢を見た、それは彼女を伴い、愛と憎しみと黒く焦げた自身をばら撒いて死んでいった何者かを伴い、渦巻く炎と佇む二柱の精霊王を伴い、彼を苛んだ。


 だが、朝は来る。


 彼には、手の中で絶えず燐光を放つ腕輪を美しいと感じる心も、まだ残っている。


 思うのだ、己はまだ絶望していないのではないか。ならば、数多の人が抱くそのような心を守らねばならないのだ。


 喉がからからだった。皇帝は起き上がって、味のない果物のみの朝食と水をたっぷり取り、それから召し物を替えた。昨日と似たような衣装の取り合わせではあるが、今日は胴着も下穿きも羽織も全て純白を身に付けようと決心していた。


 この地方の喪服である。


 白を身に付け、シルディアナ放送を何となくぼんやりと見始める。画面の向こうで、自分が自分に向けて何度も宣言をしている。放送局は昨日撮った映像を何度も何度も流しており、報道官が複数で色々な意見を交わし合う背景音楽のようになっていた。


 他人事のようであったが、流した涙は本物だったのだ、と気付いた時、来訪者の存在を告げる鐘の音が鳴った。


「イークライト皇帝陛下」


 サフィルスが伴ってきたのは、シーカ・パラウス取調局第五課班長と、レントゥス・アダマンティウス近衛騎士団長であった。


「昨日の現場検証結果及び、成分検出結果をお持ち致しました」


 事故や事件現場担当の第五課班長は、右腕を左肩に掛けて一礼をする。初めて会った時のような崩した格好を見たいものだ、とイークライトは強く思った。


「ご苦労であった、シーカ」


「……お望みの結果ではない可能性も御座いますが」


「よい、精霊王の思し召しに従え」


 言葉通り精霊王が三柱も顕現しているのだ、まともな結果が出る筈などないと思えた。


 彼は差し出された植物紙の資料を受け取り、さっと目を通す――主の道にて残存していたものの検出を行ったところ、その場にて死亡したのは八名、うち七名は炭化、一名は辛うじて遺体。七名については、残存術力が存在したのであれば断定は容易であったが、残存成分である灰に個人固有の属性配列がある為、五歳検診の際に戸籍に登録された成分と照会させている途中であり、検分には時間を要するが特定は可能である。遺体が残っていた者については身元が判明。名は、アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィール――次の紙をめくれば、その者の戸籍までもが添付されている。電子画に映っていたのは今年で十九歳となる赤毛の青年で、下級貴族の次男であった。この家の者に知らせねばならぬ、と思って更に次の紙を見ると、ヒーエリアの家の全ての者が既に十三年前の同じ日付で死んでおり、赤字を捺されていた。伝える相手はもういない。


 だが、思い描いていたものとは全く違う。驚く程の速度と正確さで、この検証に片が付けられようとしていた。


 シーカが居心地悪そうに腕を動かす。


「……その、陛下、平面映像機の動力をお切りにならないのですか」


 ふと顔を上げれば、画面の向こうで自分が涙を流し、微笑んでいた。昨日の己が、憎いか、と問いかけてくる。


「過ぎた幻影だ、気にするな」


 イークライトはそう言って手元に視線を戻した。些末事だ、それよりも、更に下に重ねられた紙を見れば、あの場に残っていた水の魔石動力機械付きの短剣二本に関しても結果が出ている。魔石動力機械を分析したところ、帝国東部の荒れ地の大気に含まれる成分と酷似した術力が魔石供給口より検出された、との報告が記されていた。間違いなくスピトレミアが関与している、と彼は頭の中だけで結論を出す。


 成分研究や検出を行うのは、取調局の中では第一課の仕事である。このような結果をたった一日で出すことの出来た取調局の本気を目の当たりにして、皇帝は内心驚いていた。


「それよりも、取調人の……第一課か、労わりの言葉でも届けてやってくれ、普段ならば一月以上掛けて行う筈だろう……其方もご苦労であった、シーカ・パラウス第五課班長」


「お褒めに与り光栄の極みで御座います、第一課の者にも、陛下の思し召しのままに」


 振り返れば、険しい微笑みの奥にあるシーカの双眸が、優しく細められた。


「して、私の方で御座いますが」


 と、その会話にするりと滑り込んできたのは近衛騎士団長のレントゥス・アダマンティウスである。相変わらず顔色一つ変えず一礼をして、その人は口を開いた。


「陛下の御耳に入れて差し上げたいことが御座います」


「どうした、アダマス」


「凛鳴広場及び中央広場とその上部に設置された南街区側の空中庭園にて、賃上げの要求と共に陛下の政策へ物申す者達が大勢詰め掛けておりますことを、御報告申し上げます」


 イークライトは、自分の心臓が大きくどくりと鳴ったのを、耳元ではっきりと聞いた。


「……何だと」


 抜かりはない筈だった、と彼はまず思ったが、すぐに打ち消す。しかし、集まった者達を無視することは不可能ではないか。


「市民は、何と」


「市民といいますか、身なりを確認するに、識者に相当する層の者だと見受けられます……何でも、下等学舎までの学歴保持者や、術力適正未保持者に対する差別の助長を促す恐れがある、皇帝は差別主義者ではないか、などと叫んでおります」


 皇帝は唇を噛む、宰相の娘がいなくなってしまった穴は非常に大きかった。彼は皇妃となる予定であった彼女が術力適正を持たないというところも考慮しつつ案を練っていたのだ、無事に婚姻が成れば多少の目くらましにはなったのだろうが。


 そこに被せるようにして、近衛騎士団長は追い打ちをかけるのだ。


「後、軍隊の動員ですが、不参加を表明する貴族が後を絶ちません」


「……どういうことだ、アダマス」


 思わず立ち上がり、イークライトは報告書を掴んだまま大声を上げた。ここにきてレントゥスの無表情が僅かに動き、勇ましい眉が顰められる。


「近衛騎士や、歩兵軍団の警邏隊長などが軍からの離脱を申し出ている状況です、女一人を探す為に動員されているわけではないと」


 皇帝は溜め息と呻き声を同時に漏らし、少し考えてから、乱雑な格好で長椅子に身を投げ出した。


「……識者連中には、ラレーナ・キウィリウス・サナーレが適性なしであったことを広めておけ……そうすれば、私がどういう姿勢であったかも伝わるだろう、キウィリウスの娘であるのに術が使えないというものも槍玉に挙がってくるだろうが、罪もなく消えた者に追い打ちを掛けるような行為を嫌うのが我が帝国民だ、それを指摘する者は勝手に自滅していく筈だ……悲劇の皇妃を演出するように、キウィリウスに持ちかけてくれ、それが無理なら噂程度で良い」


「……時間稼ぎにもならぬと思いますが」


 悪手であることを指摘されたが、ならばどうすればよいのかは、彼にはもうわからなかった。おそらく近衛騎士団長は意志確認と念押しをしたいのであろうが、今の彼には、それに答えることすらも億劫であった。


「だからキウィリウスに訊くのだ、分かるだろうアダマス、この国の宰相は皇帝よりも政治に長けている、私よりも良い案を必ず思いつくに決まっている」


 駄々を捏ねる子供のような声が、思いがけずイークライトの口から飛び出した。自分でも少し驚きながら、彼は首を振って再び溜め息をつく。


「この国の主はイークライト皇帝陛下で御座いますれば」


「私が良いと言った」


「……承知仕りました」


 皇帝はレントゥス・アダマンティウスの返事を聞くだけ聞いて流し、長椅子の上で横になった。平面映像機は変わらず自分の顔を映し続けている。報道局はこればかりを流してよく飽きないものだ、と、ぼんやりと己の呼びかけを聞きながら目を閉じた。


 金属が擦れる音が近付いてくる、そして、不意に髪に触れるのは大きな手。


「私にも十八歳になる息子と十二歳になる娘がいますが」


 近衛騎士団長の声が降ってきた。


「成人の十七歳をとうに過ぎた息子ですが、貴方様より幼く見えます」


「……子供でいられるわけがないだろう、私が」


 そう返せば、その手が髪を梳き、掻き混ぜられ、優しく側頭部を叩いて離れていく。笑うような柔らかい吐息が微かに聞こえて、イークライトは己の内に妙な熱さを感じ、閉じていた目を思わず見開いた。


「貴方様は変わられた、二ヶ月前とは違う、我がシルディアナの皇帝陛下よ」




 グナエウス・キウィリウスが領地持ちの貴族達や杖貴族達と会談を行う方針を固めて連絡を寄越したのはその日の内であり、それは翌日に行われるというのも、皇帝が報せを受け取った時点で既に決定済みであった。急な招集によく応じたものだとイークライトは思ったが、いささか事が性急に進み過ぎている、という気がするのだ。


 今日も白を纏って戴冠し、皇帝は表へ出る。供をする近衛兵の人数が一気に増えた。サフィルス、ハルフェイスが両脇を固め、前後に二名ずつ、その周囲をぐるりと固めるように八名。殿は近衛騎士団長レントゥス・アダマンティウスだ。


 その会談を皇帝同席の下に玉座の間で行わせて欲しい、というのが宰相の希望であり、イークライトが近衛騎士団長に預けた言伝に関しては何も言及はなかった。提案を実行するから此方にも顔を貸せということだろう、と彼は何となく思っているし、帝国貴族達の真意に直接触れられるのであれば、良い機会である。


 空中庭園に差し掛かった。賃上げの要求に混じって、皇帝を非難する声が聞こえてくる。サフィルスのずっと向こう、閉ざされたシルダ宮の庭園の門に縋りついて訴えてくる民衆は、米粒よりも小さい。それを見ながら歩いていると、忠誠を誓った近衛騎士は少しだけ此方を向いて、彼を勇気付けるようにそっと微笑むのだ。


「イークライト・シルダ第五代シルディアナ帝国皇帝陛下がお見えになられました」


 キウィリウスの声が響く。宰相を筆頭に、玉座の間では多くの貴族が待ち受けていた。恐らく、今まで彼が聞いていた帝国貴族の数の、およそ半数がここにいると思われる。イークライトがそこに姿を現すと、上級、下級、性別を問わず、一斉に礼の姿勢を取り、跪いた。こういう所は律義なのだなあ、と、他人事のように彼は思うのだ。


 近衛が僅かに散開し、彼の正面が開けられた。その瞬間、兄上、という誰かの囁きを聞いた。近衛兵の誰かの家族がそこにいるのだろうか。


「よい、楽にせよ」


 言いながら、そこに見知った竜人の姿を認めて、皇帝は驚いた。


 ガイウス・ギレーク。昨晩姿の見えなかった者がそこに居るからというよりも、忠誠篤きシルディアナの竜人族が、守るものを捨てて何処かに行こうとしている、その事実を信じたくなくて、気が付けば、彼は思わず口走っていた。


「私からまず一つ訊いても構わぬか、キウィリウス」


 宰相は皇帝の意図にすぐに気付いたらしい、重々しく頷き、言った。


「陛下の思し召しのままに」


「かたじけない」


 イークライトは動いた。玉座の正面の階段を一段ずつ下りていく、それに合わせて近衛が戸惑ったようについてくるのが何処か可笑しい。それを可笑しいと思うことさえも何か薄い膜を一枚隔てた遠い向こうの出来事のようで、彼は自分の心がどんどん冷えていくのを感じた。


「ガイウス・ギレーク竜騎士団長」


 その者の前に辿り着く前に、歩きながら歌うように、皇帝は言った。竜人の鱗が逆立ったのがわかった。


「其方、無事であったのか、訊きたいことが山のようにあるのだ」


 少しだけ離れて立ち止まる、見上げた竜人の背は高い。だが、威圧をするかのように張られた胸が、何かを覆い隠したがっていることを如実に物語っていた。


 竜人族は、その誠実さと忠誠故に隠し事が出来ない。


「ラナをどうした」


「……申し訳御座いません、陛下、私ではお守りすることが出来ませんでした」


「下手人は八名だったという報告が上がっている、そのうち一人の名が判明した、アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィール」


 周囲の貴族達が微かに騒めいた。


「誰かに向かって憎しみと愛を囁き、帝国と宰相を憎みながら黒焦げで死んでいったのを腐る程見たぞ、シルディアナ放送で、夢で、十九歳の若者が……そうだな、一つ面白い話がある」


 面白くもなんともない、とでも言いたげな表情が、ガイウス・ギレークの背景に沢山存在する。その中にちらりと見えた黒い影が、美しい黒髪の揺れる軌跡を残して、消えた。別の場所にも揺れて消える、黒の中の美しい砂色。今は閉じられているずっと向こうの扉の付近で、僅かに翻った黒い布が、人の間にすっと紛れた。シルダ家の者に限らず、強力な光使いである者は相対する属性の気配を敏感に感じ取ることが可能だ、闇の精霊王ラフィムの匂いが、濃い。


 イークライトは心の何処かで理解しつつあった、何故貴族達が離反の意を示しているのか。その原因がここに幾人も潜んでいることもわかった。


「大切な者を精霊王の名に喩えるのは帝国東部の者の愛情表現であるらしい」


 言わんとすることを察したのだろう、数多が息を呑む中、皇帝は燦然と微笑んだ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る