4

 中等学舎や高等学舎進学の為の奨学金制度、教員の増員。雇用保障、医療機関となっている光神殿の増設及び職員の増員。魔石動力研究所の増設、研究開発に割く人員の増員。術力持ちでもそうでなくても、性別がどうであれ、人の資質や育ちに応じて学ぶ姿勢や目標を決めていくことの出来るような、心の糧となるような環境づくりを、彼は掲げた。


 玉座の前に立つイークライトは、そのような己の政策と意気込みを今まで滔々と語り、そして止める。脇に控えるキウィリウスの顎が僅かに傾いたのが視界の端に映る、その視線は間違いなく自分を見ているだろう。


 目の前に押し寄せているのは群衆と、シルディアナ放送の撮影機を構えていたり、凛鳴放送の音声放送機を掲げていたりする放送局の局員だ。そこには、ステラ宮で言葉を交わしたものの姿もあった。現在、シルダ宮の玉座の間、柱と柱の真ん中に存在するありとあらゆる扉は開け放たれ、誰でも自由に出入りが出来るようになっている。尤も、皇帝の周囲は将軍達で固められ、十人小隊三十を数える数が存在する近衛騎士に至っては、二十五隊がこの場に詰めているのだが。


 そう、その全てが皇帝イークライトの存在をその目に焼きつけ、その声を聴いているのだ。口は既にからからであるし、背中はしっとりと嫌な汗で湿って不快である。早く居室に戻りたかった……花嫁と共に。


「――失礼、重要なことがあった故……此度の私の成人と共に、皇妃を迎えることとした」


 キウィリウスが腕か何かを動かしたのだろうか、衣擦れの音が聞こえる。イークライトは玉座の真後ろに存在する扉を振り返り、後列にいた飛空団長と海軍団長、二名の将軍に向かって頷く。まだ若い将軍である二人は頷いて、扉の向こうへ通じる合図を送信した。


「今日をその披露目とする……グナエウス・キウィリウスが娘、名はラレーナ・キウィリウス」


 イークライトは高らかに歌うようにその名を紡ぎ、微笑む。


 だが、クレルの扉が開くことはなかった。


「どうした、扉の不具合か?」


「わかりませんが、エーランザ像が外された可能性もあります」


 小声で将軍に問えば、そのような答えが返ってくる。身体中を駆け巡るのは嫌な予感だ。


「像を設置したのは私です、見て参りましょう、陛下」


「頼んだ、アダマス」


 レントゥス・アダマンティウス近衛騎士団長が右手を左肩に掛けながら腰を僅かに折って、三名の近衛騎士を伴い、素早く移動していく。開け放たれた扉の向こうに出て、そこからシルダ宮の外側をぐるりと回れば、遠回りではあるが空中庭園に出る、そうすれば主の道への進入が出来る。それを見送りながら、彼は顎に手をやり、呟いた。


「……憶するような女子ではない筈だが」


 その時だった、何処かから、微かに爆発音が聞こえてきたのは。


 イークライトは思わず顔を上げた、知らずのうちに俯いていたらしい。息を呑む音は隣から、見れば、宰相キウィリウスが険しい表情を見せている。


「扉の向こうに、陛下」


「――まさか、火魔石」


 彼は囁いた。


 覚えている、自分がラナに何を与えたかを。


「何かあったのか……そこの近衛、二個小隊よ、アダマスの後を追え」


「はっ」


 手近な場所に待機していた近衛兵の小隊二つに呼び掛ければ、即座に礼が返ってくる。イークライトは動きを止めなかった。ずらりと並ぶ将軍達の方を再び向き、幼い頃の記憶を手繰り寄せながら、彼は更に口を開き、響かぬ低い声を出す。


「先代より聞いた、此方側から扉を開ける起動装置がある……私を隠せ」


「承知仕りました」


 彼らは一斉に礼を返し、あっという間にイークライトをゆるく取り囲み、群衆や放送局の撮影機や音声放送機から皇帝を遮断する人の壁となった。彼は焦る己の意志のままに歩みを進め、玉座の裏に回り込み、豪奢なそれの裏を蹴り上げながら聖句を唱える。


「光の精霊王ステーリアの思し召しの下に、御力を与えたまえ!」


 分厚いクレルに施された文様から複雑な術式文字が浮かび上がり、眩い光が飛び散った。


 石を打つような美しい音と重い音が重なり、眩い光が駆け巡る。振り返って、その中に翠光と緋色が煌めいた、と思った瞬間だ。


 扉の向こうから突如、熱風が彼らを襲った。


「ラナ!」


 顔を庇いながらイークライトは叫んだ。


 紅蓮に渦巻く炎の中に肉の焦げる匂いが立ち昇り、爛々と輝く炎の精霊王ヴァグールと、自らの風を抱いて此方を睥睨する風の精霊王フェーレスが彼の網膜を焼いた。


 皇帝は膝を折る。


「嘘だ」


 己の声が震えたのが、何処か遠くから聞こえた。


「ラナ」


 思わず差し伸べた利き手すらも自分のものでないようだ、それは力なく、床に落ちる。呟く聖句も上手く言葉にならない。


「光の、精霊王……ステーリアよ、我に、我に……」


「セザーニア!」


 と、将軍の一人が出した声が朗と響き、刹那の後にうねる水流が主の道へと押し寄せ、辺り一面に熱の飛沫をばら撒いた。水の精霊王を召喚したのだ、水を纏う大きな鰭が炎を鎮め、荒れ狂う熱全てを打ち消す。


 全てを水浸しにして、精霊王達は霧散した。


 イークライトは、主の道に通ずる扉まで己の腕を必死に動かし、這った。立つことが出来ない。今だ熱を帯びる水溜りの向こうに焼け焦げた黒い塊が見える、それは右腕を失った人の形をしていた。


「嘘だ」


「――陛下、陛下」


 彼を呼びながら追い縋ってきたのはグナエウス・キウィリウスの声。次いで大きな手が己の脇を抱え上げるのを、イークライトは感じた。


「公衆の面前で御座います、陛下」


「――すまぬ、だが」


 脚に力が入らず、動かないのだ。そう言えば、腰と肩を抱かれ、思っていたよりもがっしりとした腕に支えられる。


 そのまま、二人で近寄った。


 人と思わしき生き物はまだ命尽きていないようだった。見れば、すぐ傍に魔石動力機械を装着した短剣二本が落ちている、水魔石の残滓が精霊となって周囲を跳ねていた――それ故に一人だけ残ってしまったのだろうと推察するのは容易であった。


 気配を感じたのだろう、最早焼かれてしまった喉を震わせ、それは言葉を紡いだのだ。


「ゆけ、我が憎き、愛し、フェーレス」


 二人は喘いだ。今際の、ひゅうひゅうと荒い息が聞こえる。


「風よ、風よ、風よ、愛していた、愛していた、愛していた、風よ」


 周囲を見回す。炎の精霊王は全てを燃やし尽くし、灰に変えてしまった。風の名残が床を浚おうとしている。その中に光るものを見つけ、イークライトは声を上げた。


「キウィリウス、あれ、あれは」


 焼かれても尚、崩れることなどなく、傷ひとつないその鉱石で作られた腕輪には翠の淡い燐光が宿る。宰相キウィリウスはその場に崩れ落ちた。皇帝も共に床へ叩きつけられた。


「ああ」


「憎き、帝国よ、我が、アルジョスタ……プレナよ、憎き、憎き全てよ、憎き、キウィリウス」


 伸ばそうとした黒焦げの左腕がばらばらと崩れ落ちる。喉が詰まる恐ろしい音を立てて、それは命を終え、何度も身体を震わせた。


 イークライトはせり上がる胃液を飲み下し、天井を向いて歯を食い縛る。涙が溢れる。宰相が這っていき、風を抱く腕輪を拾い上げ、咽び泣くのが見えた。


 だが。


 シルディアナ帝国の皇帝は立ち上がる。立ち上がらねばならないのだ、己を叱咤し、唇を噛んで、今にも崩れていきそうな顔面を元に戻す。狂ったように膝が笑っている。


 放送局の局員が撮影機や音声放送機を携えて、すぐそこにいる。彼らは職務に忠実で、どんなに凄惨な現場であろうとも、皇帝を追って、主の道まで入り込み、黒く震える死体の声を聞き、帝国全土へ全てを届けていたのだ。


「シルディアナ帝国の民よ」


 彼は語りかける。


「我が花嫁は再び消えた」


 彼は微笑みかける。


「アルジョスタ・プレナの手によって」


 彼は皇帝である。


「反乱軍アルジョスタ・プレナの者よ、我ら為政者が憎いか」


 彼はこの国を背負わねばならない。


「しかし、我が花嫁とて、守るべき者であった……私は、私には、そのような脅威を取り除く責任がある、近衛の為にも、ここに横たわる者の為にも、灰となった者の為にも、其方らの為にも、全て……全て、そのような脅威は帝国の法で裁かねばならない、民よ」


 声は独りでに震え、熱を持つ。


 話すうちに、彼は冷静さを取り戻しつつあった。花嫁捜索を建前とし、軍隊を総動員させて帝国内から反乱軍全てを炙り出して捕らえることを、イークライトは瞬時に思いつく。詳細は後で将軍や宰相と決めれば良いのだ。


「民よ、今際のおぞましい声を聞いたであろう、我が花嫁ラレーナ・キウィリウス・サナーレが、まだ生きている可能性はある」


 何より、彼女を喪ったことを信じたいなどと誰が思うだろう?


 そして、彼は宣言するのだ。


「我が名……シルディアナ帝国第五代皇帝イークライト・シルダの下に、帝国軍の全ての者に捜索を命ずる」




 憂いに沈んでいる暇などなかったのだが。


 夕闇の迫る皇帝の居室の中に、将軍達が沈痛な面持ちで佇んでいる。表面上、その表情を取り繕っているだけかもしれないが、喜々として今後の方針を語られるよりはましかもしれない、などとイークライトはぼんやりと思うのだ。


 ただ一人、竜騎士団長ガイウス・ギレークのみは行方が知れず。あの場にて、炎に巻かれてしまったのかもしれない。皇帝は近衛兵を使ってガイウスのみならず竜騎士達にも連絡を取ろうとしたが、返答を持って戻ってきた者はいなかった。


 エルカ材の白木の椅子に力なく腰掛けているのはグナエウス・キウィリウスだった。いつも後頭部に向かって撫でつけられているイオクス材のような濃い色の髪は乱れ、口元や額、眼窩に刻まれた皴は以前よりも深く、やつれて見える。召し物を着替えることもせず、その膝や腕の部分は焦げと灰で汚れたままだ。


 その手には翠の美しい腕輪が握られていた。


「――治癒の見込めない疫病に襲われたアル・イー・シュリエの村を焼くと決断した時」


 痛い沈黙を破って、宰相の声が落ちてゆく。向かい合って座っていたイークライトは、顔を上げた。


「その村から迎えた私の妻と、四歳になったばかりのラレーナを隔離することに決めたのは、他ならぬ私だった」


「キウィリウス」


 呼び掛ければ、彼女とよく似た哀しい深緑の目が、真っ直ぐに射抜いてくる。


「その時は、陛下もまだ三歳でありましたな……己が帝国の覇権を握ることが出来ると考え、私の失脚を願う輩は多く、部下は狙われて命を落としていった……私の決断が招いた死は多かった、暗殺者を使ってそういう醜聞を招いて、その責任を取らせようとしたのでしょう」


 イークライトは何も言えなかった。代わりに、机の上に力なく置かれたその手に、己の掌を重ねることしか出来なかった。何の気休めにもならない。皇帝であるのに、人の心ひとつ救えない己に嫌気がさして、気が付けば視界がぼやけ、潤んでいく。


「私はいい、二度と会えなくなるのは辛いが、ティリアとラレーナさえ生きていてくれれば、知らないところでもいい、幸せに暮らしていて欲しいと、何度思ったことか」


 皺の多いその手がそっと握り返してくる。温かかった。


「ティリアは死んだという報せを一年前に受け取って……見える政敵は粗方消えた今、呼び戻すことが出来る良い機会でした……陛下が保護したという報せを聞いて、ラレーナに、大きくなったあの子にもう一度会って話せると、嬉しく思った……父親らしいことなど、何一つしてやれなかったが」


 そう言ってグナエウスは微笑むのだ。


「親として今更何だと思うかもしれないですがね、陛下も」


「そんなこと……キウィリウス」


「あの子はいつの間にかサヴォラ免許まで取って、強く生きていたそうですな……全く、陛下ともいつの間にか出会われて……一体、何処で出会ったのですかね?」


 皇帝は――イークは、大声を上げて泣き出したいのを堪えて、声を絞り出した。


「――商人居住区で、彼女の食べていた竜角羊の煮込みの香りに、つられて」


 キウィリウスが吹き出した。同時に、涙が一筋、目尻の皺の間を流れていく。


「真実を知った時はさぞや驚いたことだろう、全く……それが皇帝だと誰が予想したかね? そして陛下は脱走するのがお得意で、近衛が哀れでしたぞ」


 哀れと言われたサフィルスは無表情で扉の側に立って任務に当たっている。微動だにしないその姿はよく出来た彫像のようだった。


「……私のせいだ」


 イークの声は震えた。


「私の軽率な思い付きが招いた結果だ」


「いいえ、陛下」


「私が、私がそなたを、ラナを、苦しめて、人を焼かせて」


「陛下だけの責任ではありません」


 否、と思うのだ。皇帝の顔など出来ない、涙を堪えることなど、もう出来ない。彼は首を振って、大声を出した。


「いいや、いいや、違う、キウィリウス、私が外へ出なければ、私と出会わなければ、ラナはまだ、安全な場所で、そなたの……そなたの知らないところででも、まだ幸せに暮らせていたかもしれない……シルダの血をひきながら、私は、何も守ることの出来ない、何も為すことの出来ない、何も――」


「陛下」


 徐に肩を掴まれて、イークは我に返った。


 森の瞳が彼を覗き込んでいる。


「冠を抱く者は、死ぬ時にのみ、嘆きなされ」


 大きな手がそっと涙を拭っていく。握られた左手を何か金属の感触が包み、そっと手首まで通っていった。はっとして見れば、彼女の左腕にいつもあった、よく見た腕輪。


「是非とも、あの子と心を交わした陛下に、持っていて欲しいと思います」


 どれだけ絶望していても、その草木文様と花を描く翠の燐光は変わらず美しかった。


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