Ep.3 約束を還す者

1


 目が覚めてすぐ、ラナは自分のいる場所が与えられた自分の部屋の天井ではないことに気が付いた。次いで、それがわかる程にあたりが明るくなっていることにも。


 剥き出しの自分の身体に絡んでいる腕は、静かに寝息を立てて熟睡しているイークのものだ。それをそうっと外して、すぐ傍でしわくちゃになっていた夜着を纏いながら上半身を起こし、左隣を振り返った。


 長い睫毛が縁取る翠の双眸は、今は閉じていて、細く柔らかな髪が頬から落ちてきらきらと金に光っている、まるで光精霊のようだ。皇帝の居室は空調が効いている、その涼しい中で胸から雄から太腿まで全てを露わにしている若い為政者の美しい肢体をたっぷり眺めてから、彼女は掛け布を手繰り寄せた。何か動作をする度にふわりと広がる香りは、彼が浴み場で使っている香油のものだ。自分の身体にもそれが染みついていることに気付いて、ラナは昨晩の情事を思い出し、頬を熱くする。


 腹が冷えてはその後が災難だろう、掛け布で肩まで覆ってやると、その感触に気付いたのだろうか、瞼が震えて、眠そうな呻き声を上げた。


「……ラナ?」


 鼻にかかった甘い声が彼女の名を呼んで、腕が何かを求めるようにぐっと伸び、動く。


「ごめんね、起こしちゃった?」


「……今の刻は?」


 彷徨う腕がラナの腰を見つけた。甘えるようにしがみ付いてくるイークの髪をそっと撫でながら時刻盤の方を見れば、その針は夜の十刻を指している。もう間もなく夜明けだ。


「夜の十」


「まだ起きる時間ではないぞ」


 眠そうに開いた翠の双眸はとろりと微笑み、昨晩何度も何度も子種を植え付けた女の腹に頬を摺り寄せ、彼は何かをねだる子供のように見上げてくる。まるで猫のようだと思いながら顎の下を擽ってやると、イークは目を細めながらくすくすと笑って、それから一声、めおう、と啼いてみせるものだから、ラナも思わず声を上げて笑った。


「猫みたい」


「……本当の猫ならば、舐める」


 その目がきらりと輝き、口元に妖艶な笑みが浮かんだ。それと同時に伸ばされた手が彼女の肩をぐっと掴み、思っていたよりも強い力で引き寄せてくる。


「夜着が邪魔だな、何故着た?」


 柔らかい寝台に手をついた彼の上半身から掛け布が落ち、雄が太腿に触れてきた――固い。


「……着たくなったから」


「必要ないだろう、今からまた脱ぐのだぞ」


 咄嗟に、ラナはイークの上に覆い被さるように手をついた。頬や腰を這う腕から逃げることが出来ない。しなやかな指先は、やがて夜着の下に潜り込んだ。肌が触れた先から身体に熱が灯り、捩った腹にぴったりとくっついてくる相手の身体のすべらかさを感じ、彼女は喘ぐ。


「イーク」


 寝台が、軋んだ呻き声を立てて、二人を受け止めた。




 ラナが皇帝の居室に導かれてから八日が経っていた。


 イークと共にその存在を秘匿され、二人の顔を知るのはただサフィルス・ランケイアその人のみである。様々なことを考慮する必要がある、とのことで、彼女は皇帝の居室に留め置かれた。事実上の軟禁状態であったが致し方あるまい、と、彼女自身も思っている。何より、四肢や腹から大量に出血した後に安静にせず勢いのまま男と身体を重ねたのも不味かったようで、最初の三日程は身体がくらくらしていた。が、出てくる食事は魚介類や肉類の内臓を中心とした気遣いの溢れる取り合わせであったし、書物や平面映像機、凛鳴放送も好きなだけ読んだり見たり聴いたりしても構わないというお達しが部屋の主からあったため、彼女はあっという間に回復した。尤も、イークライトとかいう名の皇帝は彼女の健康を確かめるなどと言いながら、毎夜ラナとまぐわい、時折何処かへ姿を消したのだが。


 だが、彼女は雄と雌の獣染みたやり取りを抗い難い快楽として受け止めていたし、何よりも、彼はこの上なく魅力的な生き物であった。ふとした所作や伏せられた奥に薄く輝く双眸の色に何度も見惚れ、触れる肌はしなやかさと若さに溢れ、その笑顔は花と太陽を同時に宿す。光精霊王のように眩しいその姿が汗に乱れて嬌声を上げる夜、ラナは彼の頬を撫で、散らばる髪を耳にかけてやりながら、囁いたことがある。


「私のステーリア」


 事が終わり二人揃って寝台に突っ伏した後、イークはその意味について少し嗄れた声で追究してきた。


「さっきのは、どういう意味だ……精霊王が何か関係あったのか?」


「……エイニャルンで聞いたの、好きな人とか大切な人に向かって、精霊王の名前を言うのを」


 そう返せば、汗でしっとりと湿った身体があっという間に再び絡みついてきた。触れる腕にぎゅっと力が入るのが果てしなく愛おしくてたまらなかった。


「私の、たったひとりのフェーレス」


 長い口付けの後、眠気の向こうで囁きが聞こえたのを、しっかりと彼女は覚えている。


 皇帝はこの八日目の朝、彼女を抱いた後に件の近衛騎士を呼び、使用人の手による湯浴みの手配と衣装の手配を言付け、再び送り出した。


「……何処かに出られるの?」


 夜着を身に纏い直してから、ラナはそう訊いた。


 最初の三日程はゆっくりすることも必要だと思っていたが、それが過ぎると、彼女は何処にも出歩けない日々に飽き飽きしてきていた。報道音声や音楽をひたすら流す凛鳴放送もだんだん味気がなくなってきていたし、シルディアナ放送は大怪盗の追跡番組ばかりである。本当は広い場所で思いっきり身体を動かしたりサヴォラに乗ったりしたかったのだが、自分の免許をぼろぼろになった服と一緒に何処かに持っていかれてしまったことに気付き、次いで自分の名のことを思い出して、外に出る許可を貰うという心躍る思い付きは彼女の心の中で却下された。宰相の娘が訓練所で走り込みをするという光景など、宮殿の者が見たら何かの間違いだと思うに決まっている。時折商人居住区でその姿を見掛けるくらいなので、女性騎士の数が少ないわけではない筈なのだが、立場を考えろとラナの中に棲んでいる何かが言うのだ。宰相家の子女、それも一人娘である。


 腰を掛け布で申し訳程度に隠した彼は、微笑んでこう言うのだ。


「そなたと私が正式に結ばれ、帝国の主となるまであと少しだ……宰相家からの承認が降りた、今日、披露目を行うことが決まった……目通りが叶うぞ、ラナ」


 突如降ってわいた父の名に、彼女は驚いて、思わず声を上げていた。


「本当?」


「ああ」


 本当なのであれば、自分の身柄が未だに皇帝の居室のみにあるのは不思議である。頷いたイークライトに向かって、彼女は更に重ねた。


「先に会わせては貰えないの?」


「そなたを保護した際にサフィルスを使ってキウィリウス邸に知らせを寄越し、何度か根回しとやり取りをして秘密裏に決まった……先に会わせたが故に、宰相の周辺の者が買収されて予定を漏らし、披露目の時にキウィリウスの者が死に絶え、家が丸ごと潰れるなどという事態も考えられる……故に避けておったのだ、伝えるのが遅れてすまなかったな」


 イークはそう説明し、鼻だけで溜め息をつく。


「今日まで隠しておきたかったのね」


「そなたの安全の為だ、何が降りかかるかわからぬからな」


 彼女が納得したように呟けば、彼は頷いて腕を組んだ。


「しかも、私ごと、だそうだ……全く、私の方はイークやライトという名での忍びが過ぎて、ステラ宮やアミリア宮の者には既に正体がばれているというのに」


「やっぱり、イークとかライトとか、嘘だったのか」


「最早懐かしいな、それは」


 そう言って二人は笑いあった。


 程なくしてやってきた者達は全て女で、一様に膝丈の胴着を身に付け、衣嚢つきのベルトを締めている。その手に水気を拭き取る布や身体を磨く為の軽石、髪を整える為の刷子などをそれぞれ携え、老いも若きも入り乱れて動く身軽な女達は、若い二人を順番に、手早く磨き上げていった。


「額を露出なされば、より大人びて高貴に見えましょう、ラレーナ様」


 使用人達は事情を知っているようだった。その名で呼ばれることに慣れていない彼女は急に不安を覚え、前髪が上げられる時も抵抗を覚えたが、何人もの女達に囲まれているので、伸びてくる手を払って逃げる隙などない。逃げるのはやめにするなどと言ったことを思い出して、ラナは耐えた。ひょっとしたらこれ以上に厄介なことが待ち受けているかもしれなかった。


 衣装には、金糸でロウゼルと竜の文様が施された深緑色の胴着と、大きく拡がる裾全てに編み飾りが縫い付けられた下穿きがあてがわれた。短いのを上手く工夫して編み込んで結った髪や二の腕を飾る草木文様の装飾には、大ぶりの風魔石と翠玉があしらわれている。椅子に座ったままはたかれていく白粉は薄く、目元の化粧は花と緑を思わせる色に煌き、頬と唇も花弁のように色付けられた。


 それらが全て終わった後に鏡を受け取って覗き込んでみると、エイニャルンでの会食の時よりも飾り立てられて別人のようになった自分が、向こうから不安そうな目で此方を窺っていた。


「連れて歩くのならばこれ以上の女子など何処にもいまい、ラレーナ、我が花嫁よ」


 イークは彼女を見て、満足そうな笑顔と共にそう言った。そう呼ばれたラナは、自分の名であるにも関わらず、自分ではないような心地がした。


「……この部屋の外へ出るのね、もしかして、玉座の間?」


「その通りだ、将軍を供に、宮殿を一周して、その後は玉座の間で、シルディアナ放送で披露目を行う……何かを言う必要はない」


 皇帝の花嫁など。皇妃など。どうして自分が、と思った瞬間に、彼女は気付いた。


 ラレーナ・キウィリウス・サナーレの名――宰相である父と同じ家の名である――を背負うことは、そういうものと向き合うことと同義である。こんなつもりではなかったと言うことも出来るが、それは決して口に出してはいけないことであった。


 ラナは何も知らない。ならば、せめて口を開く場所を考えなければいけない。そう決心して自分の両手をぎゅっと握り締めた時、視線の先にサンダルを履いた男の足が現れ、彼女は顔を上げる。


「私からの贈り物だ、ラナ」


 イークが少し屈んで手を差し出していた。そこにあったのは草木文様の施された小さなシヴォライト鋼の白い箱で、内側に光沢のある布が敷かれたその中には、術式文字レファンティアングの刻まれた火魔石を抱く耳飾りがあった。金色に塗装された台座は草木文様とロウゼルが複雑な模様を描いて絡み合い、火精霊を呼び寄せる美しい紅の石を包み込むように覆っている。


 見事な彫金技術だ、ラナは思わず息を呑んだ。


「碧森堂の女主人は良い仕事をする、護身用の特注品だ」


「……いいの?」


「これならば、そなたに必ず似合うと思った」


 彼は微笑んで、一つを手に取って彼女の耳朶に触れる。シルディアナ帝国の民は例外なく、全ての者が生まれてすぐ両耳に穴を開ける。帝国民の証であるそれはラナの耳朶にも開いていて、皇帝はそこに金具をそっと滑り込ませ、留めた。火魔石と彫金の重みを感じて彼女がそれに触れれば、耳飾りは揺れて、燐光と熱をそっと放つ。


「胴着の風魔石と共に、これがそなたを護ってくれるだろう……近衛もいる」


 イークは、最後に跪いて彼女の両の手を取り、ぎゅっと握ってからそう言った。そのまま立った彼にそっと手を引かれ、ラナは立ち上がる。


 居室の扉を開くのはサフィルスだ。その向こうに、鎧を身に付け腰に剣を帯びた何人もの武人が、ずらりと並んでいる。その中に、頭二つ飛び抜けて、竜人族がいた――彼女はその顔に見覚えがあることに気付き、声を出しそうになったが、寸でのところで呑み込んだ。


 ガイウス・ギレーク。その名前を覚えている。


 その竜人族の昏い視線が鋭く此方を射抜いて、ラナの脳裏にあの日の光景が閃いた――飛び込んでくる黒衣、炎に巻かれる人影、おぞましい悲鳴、なだれ込む帝国軍兵士の群れ、あっという間に身体に剣を生やした人間、鮮やかな血飛沫、彼女を捕らえた腕、サイアの泣き叫ぶ声、その後に聞こえてきた布を広げるような音――竜騎士団長だ。生き残った火魔石の照明に照らされた漆黒の鱗に覆われた腕、脚、手や足。翼の鉤爪は赤い光を鋭く反射し、額の骨が眉から側頭部にかけて角を形成しているのを、はっきりと覚えている。喉がひゅっと鳴って、悲鳴を上げそうになった。


 その代わりに、彼女はイークの手をぎゅっと握る。すぐに握り返してくるその少し体温の低い手を頼もしく思った。


 竜騎士団長は僅かに目を細め、腹の中に生じた違和感を探すように唇を開きかけ、だがしかし何かを思い直したのか、彼女を見据えたまま口を噤んだ。


 このシルディアナ帝国において最も権威を持つ者の手を取り、ラナ――ラレーナは、行くのだ。


 そして、その者、皇帝イークライトは、宣言した。


「行くぞ」

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