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 進む道の両側には、白く輝く竜が首を垂れてずらりと整列している。


 それは蛋白石の石像だ。各々が掲げ持つ照明の光魔石が放つ光を受けて、虹色光沢がその鱗を覆い、瞳は多彩色に輝く。エイニャルンの暗い通路の中で出会ったアリスィアの胸元についていたものとは比べ物にならない程の大きさで、こんなものを何処から持ってきたのだろう、と、彼女は母の形見の腕輪を嵌めた左手を引かれながら思うのだ。


「主の道と呼ばれている、新シルダ歴十年にエーランザ・シルダの導きによりこのシルダ宮が建造された時からこの竜達はここにいて、代々のシルダ家の者……私達を見守り続けている」


 と、目玉を動かしてばかりいるラナの耳に、イークは歩きながら囁いた。


 そんな彼の頭には、飾り気のない冠が抱かれている。帝都に並び立つ尖塔を思わせる棘の根元にも、蛋白石によく似た輝きを放つ光魔石と翠の燐光を放つ風魔石があしらわれていた。


 金輪の耳飾りにぶら下がる細長い三つの光魔石が、歩調に合わせて揺れている。胴着は空と海の混ざった蒼に染められ、首を覆い、すらりとした胸板を彩る金の飾りは、竜頭と竜翼を模してしなやかな身体を縁取っていた。帯はロウゼルのような濃い色、それを留める金の鎖つきの腰飾りは天馬の翼の形。胴着の下には裾の長い下穿き、それは艶めかしい線を描く腰から踝までを隠している。上半身と下半身で使った色を全て乗せているのが、爪先と踵部分を保護する靴だ。金糸でロウゼルと竜の刺繍が施されている高貴な水色の羽織は長く、風精霊の衣のよう。


 化粧など施さずとも、その肌は張りと艶を湛え、剃り落としてから再び生え始めた産毛が全ての光を反射して彼の柔和に整った輪郭を縁取っている。様々な可能性と想いの籠った新緑の双眸は二重の下、長い睫毛の奥に煌いていた。ロウゼルの花弁の色を薄く引き伸ばした唇は崩れぬ笑みの形に引き結ばれている。


 イークライト・シルダはまさにシルディアナの至宝だった。ラナは思うのだ、彼あってのシルディアナ帝国なのだ、と。


 やがて彼らは辿り着く、板とは呼べない程に巨大な、クレルの扉の前に。施された彫刻は白竜で、光魔石の双眸が一行を睥睨していた。そして、その視線の先にはロウゼルと竜をあしらった美しい半球の盆が置かれている。


「扉が開いたら、私が先に行く手筈となっている、そなたは合図があるまで暫し待て……それまで扉は一度閉まるが、ギレークを付けよう、間違いなく帝国で最も強い者だ、安心するとよい」


 皇帝はまた彼女に向かって囁き、了解したというように頷く竜騎士団長に向かって、微笑みかけた。


 若い二人の周囲を取り囲むように守護している将軍達の中から、近衛騎士団長レントゥス・アダマンティウスが進み出た。その手に掲げているのは、角の先から台座まで光魔石で成形された美しい女の彫像だ、細くて小さな腕を大きく拡げている。台座の下には術力変換盤がついている、何処かに設置するのだろうかとラナが思った時、扉の前に設置されている盆の上に、近衛騎士団長はそれを置き、聖句を唱えた。


「光精霊王の思し召しの下に、御力を与えたまえ」


 刹那の後に、クレル板に施された文様を、複雑な術式文様を浮かび上がらせ、純度の高い石を打つような澄んだ音を響かせながら、眩い光が駆け巡っていく。竜の両目が、輝いた。


 重く引きずるような音と共に扉が開いていく。


 二人の手も、別たれていく。否、イークが手を離したのだ。


 その向こうは光で溢れていた。飛び回る光精霊達は笑い声を振り撒き、次々とイークの肩や腕に飛来して、誘うように羽織や髪を引っ張るのだ。


 近衛騎士団長が光の向こうへと消える。もう戻ってこないように思えて、ラナは不安になって、思わず彼の名を呼んでいた。


「イーク」


 振り返ってただ微笑みを残し、皇帝は溢れる光の中へ消えていった。


 それを追って、将軍達も次々と光の中へと身を投じていく。この向こうには何が待っているのだろう、そういう漠然とした不安を、彼女は覚え続けていた。何も永遠に失われてしまったわけではないというのに?


 ゆっくりと扉が閉まっていく。無意識のうちに、ラナは左腕の腕輪に触れていた。これではいけないと思い直しながらぎゅっと両手を握り締めた時、聞こえてくるのは、鎧の擦れる音。


「成程、それが、キウィリウスの証だな」


 突然そう話し掛けられて彼女は飛び上がりそうになったが、踏み止まった。声が聞こえてきた方向を見れば、昏い双眸が此方――顔ではなく腕輪だ――をじっと見つめている。それがずれて、視線が合った。


「そして君も、キウィリウスに似ている……顔は勿論だが、特に目だ……己の使命を見据えて進むその目が、とても」


 瞳孔の位置が見える、爬虫類と同じ縦長の黒が収縮して針のように細くなった。肩や腕、脚部を覆う鱗がかさかさと震え、僅かに逆立っているのがラナの視界の端に映る。


 竜人族は巨大であった。彼女の背丈は相手の胸程しかなく、手も足も巨大だ。その背に畳まれた翼の鉤爪が二の腕に引っ掛かって固定されているのだが、それだけで人を殺せそうな程に鋭い。おまけに、その腰には長剣と短剣を佩いている。


 厳しく顰められた表情のまま、僅かに微笑みを浮かべ、竜騎士団長は口を開いた。


「申し遅れた、ガイウス・ギレークという……こうして会うのは初めてだが、私は君を見るのは二回目だ」


「……ラレーナ・キウィリウス・サナーレと申します、ギレーク閣下……申し訳御座いません、私には、貴方様にお会いした記憶がないのです、幼少の折でしょうか」


「いや」


 貴族の礼儀など何も知らないラナは、知っているだけの敬語を頭の中から集めて返したが、そんなことはどうやら些末事であったらしい。ガイウスはただ一言答えて首を振った。


「あの夜だ、覚えているだろう」


 そう言いながらその竜人は歩を進め、扉の前の盆に触れる。何処かに起動釦があったのか、光魔石の女が輝きを増し、拡げた腕から上にレファンティアングを散らしながら長方形を精製した。次の瞬間、それは何処かの風景を映していた――イークがその術式画面の中央にいる、玉座の間だ。


「これを起動してイークライト・シルダ皇帝陛下の合図を待つ……私は、一人の男と共に地下に通じる梯子を下りる君の後ろ姿を見た」


 竜騎士団長は淡々と話す。


「そう、あの「竜の角」で……先程も、私を知っているような素振りを見せただろう……そういうわけで、我々は知り合いだ、そう構えずともいいさ、ラレーナ……ラナ」


 首だけで振り返って僅かに見せた口元の笑みが恐ろしくて、ラナは一歩後ずさった。皇帝から帝国最強との評価を得ている竜人族から、脚部装甲もなしに果たして逃げられるだろうか、鍛えてきたとはいえ……いざとなったらドレスを破いて逃走するしかない、そんなことを考えながら。


「……私を、どうにかするつもり?」


「……いいや」


 ガイウスが振り返って、彼女に向き合った。術式画面と扉の光を背と翼に受け、表情も仕草も影を帯びて見える。胸部や太腿部分を覆うクレル板の鎧と、膝丈の胴着が擦れて、哀しそうな音を立てた。


「どうやら君を怖がらせてしまったようだ……そうだ、君も、守らねばならない民の一人であったし、今もそうだ、ラナ……ラレーナ・キウィリウス・サナーレ」


 口の端に笑みを浮かべていようと、その表情は硬いままだ。


「マルクス・ウィーリウスを知っているか?」


「……何のこと、誰?」


 突然の質問だ、訳が分からずに彼女は訊いた。


「守らねばならぬ同胞だ、同時に、守る者でもあった……竜騎士団が主導した摘発の日は、体調が優れず任務を外れていたのだが」


 竜騎士団長は僅かに首を傾げる。そういうところはただの人間と変わらない。


「同胞……竜人族なの?」


「そうだ、反乱軍アルジョスタ・プレナに与していた、その身柄は拘束済みだ」


 その鱗が一気に逆立ち、ラナは思わずもう一歩後ろに下がった。それと同時に、彼女の記憶が呼び掛けてくる、マルクスと呼ばれていた誰かがいなかったか。


 あの薄暗い地下室で。


「何でも、中等学舎の時に、君の身内と知り合ったとか」


「……身内?」


「ティルク・サナーレ、君のおじだ」


 ラナは身構えた。胴着をぎゅっと握り締める、破きたくて仕方がない――脳裏に蘇るのは暗闇に溶け込む黒髪と大きな翼、太い眉と引き締まった顎、人懐こそうな黒い瞳、自身の肩に回された温かい腕。


 ガイウスがくすっと笑ったのが聞こえる。


「君をどうこうする気はないし、君と同じように、彼もまた私の守るべき民だ……マルクスに会ったね?」


 ラナはどうしてよいかわからなくなって、ただ相手の目を見据えながら黙っていた。


「そして、あの夜に、ティルク・サナーレは「竜の角」にいた」


 話しながら、一歩、二歩と、ガイウス・ギレークは近付いてきた。その、鱗で覆われた右手が、握り拳の形になって上がる。彼女は動けない。


「君はティルク・サナーレに導かれて、逃げおおせた、スピトレミアに……サヴォラ免許はサナーレの名で取ったようだな、近衛から通達が来た……シーカ・パラウス第五課班長率いる取調人が事故現場の検証も行った、君の荷物も確認させて貰った」


 ラナは、自分の心臓がどくりと音を立てたのを耳の近くではっきりと聴いた。


 目の前にある鱗に覆われた掌が上を向き、指が開かれた。そこにあるのは艶のない黒い指輪だ、大地へと落下するかのような格好で翼を拡げた美しい竜の意匠が施されている。


「逆さ竜の指輪だ、アルジョスタ・プレナの誓いの証」


「……私、見たことがない」


 ラナは首を振った。ティルクもエレミアも、指導者だというアーフェルズでさえも、彼女の前でこれを付けている素振りを見せたことなどない。


「マルクスが私にこれを渡した、私は受け取った」


「……どういう意味?」


「これを見たことがないと言ったね……君はまさに反乱軍の中心にいたが、表向きは関係ないということだ……私は関係者となってしまった」


 その瞳がどこか哀しげに細められるのをラナは真正面から受け止めた。ガイウスは、指輪を握り込み、それから決意の眼差しを以て、口を開く。


「だが、これは私の意志だ……君を守ろう」


 重々しい言葉がよく響いた、その時だった。


「そうか、ならば都合がいい」


 突如響いた何者かの声に、ラナは顔を上げる。ガイウスが手を腰の剣に掛け、身構え、唸り声を上げた。


「何者だ」


「俺か」


 姿は見えない。だが、何処からか此方の様子を窺っているのだということは辛うじてわかる。彼女は竜の隙間に目を走らせた。


「姿を現せ」


 ガイウスの鋭い問いは、くすくすという笑い声に受け止められた。


「今をときめく帝都のお騒がせ者さ」


「――ふざけているのか」


「ふざけてなどいない、今日はキウィリウス家の至宝を返して貰おうと思い立って、わざわざここまで馳せ参じたまでだ」


「……何だと?」


 誰かの存在が過去のものとなっていく時、人は普通、声から忘れていく。竜騎士団長と何者かのやり取りを聞きながら、ラナは思う。男の声だ、何処かで聞いたことがなかったか。彼女は覚えている。その声が二つの姿と重なることも。記憶の中で揺れる長い金糸、燃えるような赤毛。


「……嘘でしょう?」


 まさか、連れ戻しに来たというのか、身動きが取れなくなると言っていた癖に?


「御機嫌よう、皇帝の花嫁殿……いや、披露目はまだだから、違うな」


 ぶれる影が目の前で大きく伸び、ラナは思わず左腕の腕輪に触れた。視界をあっという間に闇が呑んで、叫ぼうとした口は何者かの手で塞がれる。何も考えずに生温い感触を思いっきり噛んだ。呻き声を聞きながら腕を振り回し、逃れ、今度こそ声を上げる。


「フェーレス!」


 翠光が、闇を切り裂いて、飛んだ。


 生まれ出ずる風が浚うのは、闇だと思っていた黒い布。緑の美しい切れ長の目が見据える先は、靡く長い金糸の髪。風の精霊王と相対するその顔も、噛み痕から一筋の血を流す手の温もりも、彼女は知っている。


「無事か」


「ええ」


 ガイウスが駆け寄ってきた。何とか頷くことの出来たラナを庇うように腕と翼を拡げ、声の主と相対する。


「どういうつもりだ、貴様」


「……また、お前は、軽々しく精霊王を呼ぶ」


 竜騎士団長の問いを無視して、彼は言うのだ。


 そう、痛みを堪えながら笑うその笑顔を、彼女は知っている。小さな竜巻に翻弄される黒い布を捕まえる背の高い男の生え際で、金と赤が混ざっていた。その蒼い双眸はラナのみを見据え、強かに、爛々と輝く。


「これが最後の仕事だ、名乗ろう、俺は大怪盗ユエルヴィール」


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