Ep.2.5
明日へ
よもや、己の翼で誰かを抱く日が来るなどとは思っていなかった、というのが正直な感想だ。
覚醒した意識の下、目を開くと視界に飛び込んでくるのは、美しい金の髪。初めて彼女を見た時はもっと長く伸ばされていたそれは、輪郭を覆う程度で切られて碌に手入れもされていなかったが、言葉を交わすうちに輝きを取り戻していった。閉じられた瞼の下に、澄んだ青空のような美しい双眸が眠っている。自分の翼と腕に触れる肌は滑らかで白く、張りのある若さで、学びを目指しているのであれば恐らく高等学舎に通っているだろう、それくらいの年頃であることが伺える。
それに触れることをよく許されたものだ、と思った。そっと撫でれば摺り寄ってくる、柔らかで脆い人間の身体。鱗に覆われた大きな体躯に抱かれようなどと、今まさに再び鎌首をもたげる巨大な雄と触れあおうなどと、よく思ったものだ。摘発の日に負った心の傷の癒しに己がなるわけなどないと思っていた。
「サイア」
何故、と疑問を込めて呼び掛けても、眠る彼女から返事は返ってこない。昨晩の攻め立てが過ぎたらしいのか、疲労は眠りを深くしているようだった。気をやったのが夜の七刻――既に朝焼けの迫る時間だ――であったというのもあるだろう。胸から腰に掛けて鱗のない箇所を覆う己の胴衣の裾を何かを訴えるかのように引っ張ったのは彼女だったし、それに応えたのは自分だ。竜人族の巨躯に恐怖を覚えぬように、己の身体を下に敷き、その上からゆっくりゆっくり触れさせ続けていた筈で、何かを急ぐつもりもなかったのだ。
それまで、自分の心を動かしてしていたのは罪悪感と焦りであったと、はっきり断言出来る。休息の度に「竜の角」にいた者達を連れ出し、中央広場や凛鳴広場に連れ出した。ヴォレノという名の男などは自分に向かって「休みなのに申し訳ないですなあ」などと言っていたが、新しい仕事が決まったら彼と呑みに行くという約束をしたのは自分であるし、人々とのやり取りも、楽しくて仕方がなかった。
そして、その中心にいたのはサイアだった。
皇帝イークライトが言うには、一月前は暗く翳った表情をしていたという。彼女に無体を働いた軍の兵士達は謝罪をしたいと面会を申し込んだそうだが、ステラ宮の治癒術士は決して会わせず、五十年の有期つきで投獄したという情報だけを伝えたからだろうか。溜飲は下がっただろう。雄という生き物への恐怖は、治癒術士が修復したのだろうか?
わからないことだらけだ。宰相の娘――ラナと名乗っていたようだった――の生存に希望を持ち、光を取り戻した彼女は、ステラ宮のその一角を明るい声と笑顔で照らすようになった。
わからないことだらけだが、惹かれないわけがなかった。ずっと見ていたい笑顔だった。
彼女の髪を撫で、そっと抱き込みながら思い出す。己が守らねばならないのはそれだ、と得心したのは、夕暮れの迫る七の刻、光に縁取られた互いの短い髪が風にそよぐ中、紅がかったその微笑みが自分に向けられた時だ。肩の上にその身体を翼で抱き上げ、城壁の上から二人でそっと海を見ていたのだ。十一日前の休日のことだった。
そう、自分自身は竜騎士団長である、守らねばならないのだ。それは、行くあてがないというので共に暮らし始めたサイアだけではない。
近衛騎士団長のレントゥス・アダマンティウスから連絡が来たのだ。大柄、青い目、イオクス材のような色の髪は宰相の娘ラレーナと同じ色で、編んで結っている。その者の名はティルク・サナーレというのではないか、と。情報を持ってきたのは、最も若い近衛騎士であるサフィルス・ランケイアという名の二十二歳の若者である。
「電子画は、彼が中等学舎に入学した十四の頃から更新されておりませんでしたが、ラレーナ嬢の血縁に当たります……宰相グナエウス・キウィリウス様の奥方の名がティリア・サナーレ・キウィリウス、その親族の欄を辿って見つけました、奥方の弟のようです」
アミリア宮に保管してある戸籍の内容をしっかり覚えたらしいランケイア氏族の三男は、何か他にも言いたそうな表情をしていたが、それ以上のことは言わなかった。何かあったのだろうか。
「他にも何かあったのか?」
思ったことをそのまま訊けば、射るような光を湛えた海色の双眸が見上げてくる。
「この者と同じ年齢の軍属の者に、どのような者であったのか、情報を、とのことです」
「成程、年齢は?」
「二十六歳でした、新シルダ歴千八百五十三年、八の月、三十日目の生まれです」
今年二十六歳を迎える竜騎士について、何名か心当たりはあった。ニア、セテルス、レイリア、マルクス。その四名を思い浮かべたところで気が付く、マルクスは反乱軍の一斉摘発の際、体調がすぐれないということで休みをとっていた筈だ。その前にも、そのひょうきんな竜騎士は何度か同じ理由で休むことがあった。戦いに臨む者は常に最高の状態でいることが求められている、そうでない者は任務から外していたのだが、別の者と通じていた可能性があるのかもしれないと思うと、言いようのない怒りが沸いてくるのがわかった。
「二十六歳か……ティルクという男、所属は?」
「恐らく、反乱軍アルジョスタ・プレナかと……「竜の角」にいた者の証言の他に姿を確認したという情報はまだありませんが、伝手を探ってみます」
「……ふむ」
窺うような視線を寄越してくるサフィルスの口元や頬からは、表情を読むことが出来ない。だが、伝手、という単語が気になった。そこで思い出すのは、宮廷術士であったランケイア直系の長女エレミアが出奔し、その弟である長男ルクスが氏族の中心となってその火消しに奔走していた、という事実だ。
「姉御……スピトレミアか?」
ただ首を傾げて微笑みを浮かべるのみに留まる若い貴族のそんな仕草は、ランケイア氏族がシルディアナにおいて古くから存在する家系であることと、出奔先が帝国に対してかなりの頻度で反乱を起こすスピトレミア――反乱軍アルジョスタ・プレナと考えても間違いではないだろう――であるという可能性を突きつけてきた。
エレミア・ランケイアの出奔は、国のことを想っての行動だったのだろうか。
呼び出した人物を待っている。ふと心の内より湧き出てきた疑問に、自分で驚いた。
顔を上げると、グランス鋼を張った大きな扉が目に飛び込んでくる。その向こうは広い出庭だ、敷かれた芝生が雨粒を抱き、昼の光を反射している。その向こうのくすんだ青空の中を、竜翼を展開したサヴォラが風精霊を撒き散らしながらゆったりと飛んでいった。
それを見つめながら、思うのだ。
ひたすらに守ることのみが、国を真に想う行動だと言えるのだろうか?
皇族を守ることが、真に国の為となるのだろうか?
守らねばならないのは、か弱き民なのではないだろうか?
スピトレミア地方で反乱を起こすのも、民ではないか?
そうやって動く民も、何かを守ろうとしているのではないか?
或いは、守る為に何かを変えようとしているのではないか?
皇族も、民ではないか?
イークライト・シルダは、重すぎるものを抱えようとしているだけの、ただ一人の青年ではないか?
出会わなければよかった、と呟く、笑顔の鎧の下に全てを隠した、ただ一人の青年ではないか?
民は、やがて戴冠するであろうその青年一人に、全てを押し付けるのだろうか?
「失礼致します、ガイウス・ギレーク団長」
「……入って良いぞ」
簡単な礼をとって入室してきたのは、同じ竜人族のマルクス・ウィーリウスだった。黒い光彩が黒い瞳孔を覆い、人間であればその収縮によって読み取ることの出来る筈である感情を、上手く隠している。呼び出されたのは何故か、と純粋に疑問を抱いているように思えた。
「どうかなさいましたか、団長」
色々なことを読み取る能力は十分にある、という自負はあった。だが、竜騎士団長という地位へ抜擢される程に武ばかりを磨いてきた自分だから、小細工が出来る程に言葉に対して器用でないことなど、とうの昔にわかっている。だから、単刀直入に訊いた。
「ティルク・サナーレを知っているか」
瞬きが増えたマルクスは、首を傾げた。
「……どうしてです?」
返ってきた答えに、こやつは知っている、と確信した。知らぬならば、誰だ、と言う筈だ。
「君と同じ年の筈だ、どうも宰相の娘の親族らしい、知っているのだろう」
「……どうしてそう思われるのです?」
「何、知らなければ、誰だ、と言うのではないかと私は思った、それだけだ」
マルクスは何かを突かれたような表情になって、それから顔に力を入れたらしい、眉間と目が引き締まり、側頭部に伸びた双角が揺れた。
やがて、沈黙が訪れた。
言わないつもりだろうか。仲間を庇うのは、彼もまた何かを守ろうとして忠義を立てた種族の一人だからだろうか。それが国か、反乱軍かの違いがあるだけで。
そう考えていると、長い溜め息が聞こえた。
「ギレーク竜騎士団長」
「……どうした」
訊きながら見つめたマルクスの表情は、迷いがないように思える。だが、言葉は嘘をつかなかった。
「思うのです、自分は国を守ることが使命でしたが、それは民の為だと」
「マルクス」
息が詰まる、己の心が共鳴するのがわかった。気が付いたら名を呼んでいた。
「それを示してくれたのは彼でした……ティルク・サナーレ」
マルクスが微笑んだ。微笑んで、歩み寄り、握り拳を差し出してくる。まるで受け取れと言わんばかりに、自分の胸板に重い拳がそうっと触れた。
「自分を許せないとは常に思っています、団長……だけど、今のままだと沢山の犠牲が出る可能性が高いと考えています、スピトレミアの反乱も短期間で起こるようになってきました……労働者の不満も、ここまで聞こえてきます……それを教えてくれたのは彼らでした」
両手で包み込んだその拳が開いて、何かが手の中に落ちてくる。見れば、逆さ竜の彫り込まれた黒い指輪だった。
「……アルジョスタ・プレナ」
こういう時、自分はきっと怒りを覚えるものだと思っていた。だが、ただ、ひたすらに、哀しかった。
「君は、やはり――」
「ティルクは」
遮られて顔を上げると、苦悩に満ちた表情が此方を見つめていた。
「ティルクは、酷い目に遭っていました、十三年前、俺が学舎にいた時に」
「十三年前?」
「疫病の村が焼かれた後です、その決断を下したのは当時から宰相だったキウィリウスで、ティルクはその奥方の弟で……その時は知らなかったですけれど、初めて喋った時も、誰かにこっぴどくやられた後で、痣だらけだった……俺の前でそれを隠そうとしていて、痛々しかった」
マルクスは俯いて、首を振った。その時のことを思い出しているのだろうか、険しい表情を見せている。腹の中では苦悩と怒りが渦巻いているのだろう。
「訊いたら、あいつ……お前、ちょうどいい、力が欲しいから手合わせをしろ、なんて言ってきて……その後からは大変でした」
口角に浮かんだ笑みを痛々しく思った。だから何処までもついて行ったと言うのだろうか?
「あいつみたいに馬鹿な奴、他に知りません……姉も、姪も、あの宰相のせいで消えた、俺が守らなければ、なんて言いながら、売られた喧嘩は全部買って、訓練じゃ学舎の教員も叩きのめして、俺みたいな竜人を見れば手合わせを頼んで……その度に、俺で我慢しろ、って言いながら手合わせを繰り返して……痣なんて出来ないくらいに、お互い強くなって……本当に馬鹿です、探し出さなければ、守らなければ、って、それがずっと口癖で、何をするかわからなくて、俺も止めるのに必死で」
「……アルジョスタへは、いつ?」
だから、何処までも見守っていたと言うのだろうか。
「その一年後です……止められると思っていました、いつもみたいに無茶ばっかりすると思ったら、放っておけなくて……だけど、もう止まらなかった、馬鹿だった俺一人じゃ、止めることも出来なかった……なら、もう、行くしかないと思いました、いざとなったら、俺があいつを守ることが出来るから……そう、そうだった」
身柄を拘束するのならご自由になさってください、とマルクスは続け、微笑んだ。彼自身が放った言葉に興奮しているのだろう、黒い鱗が僅かに逆立っている。そこで気付く、己の鱗もまた、逆立って微かに擦れる音を立てた。
話しているうちに何かを取り戻して覚悟を決めた黒の双眸が、一度瞬き、心臓を射抜いてくる。
「宰相と皇帝から政権を民へとなるべく穏便に移す、それが今は最良です……あいつの、ティルクの導きが、俺の道を決めた、これが俺の意志です、団長」
それから二日が過ぎた。
マルクスは仲間の竜人族の手によって身柄を拘束され、竜人族しか知らない場所に隔離された。だが、話を聞いた者は皆動揺していたし、それはティルクという名の人間の存在と共に、あっという間に拡がっていった。何より、自分自身が動揺していないと断言することは不可能だった。
ステラ宮やアミリア宮と繋がる空中庭園を、僅かな供を連れて歩く。そこからは、中央広場全体を望むことが出来た。見下ろした地上には大勢の民が集まっており、少し前に雨が降り始めた中、それに構わず集団で熱意を込めて賃上げの要求を叫ぶ光景は、ただ異様であった。雇い主から支払われる最低賃金の引き上げと雇用条件の緩和、休日制度の見直しを、彼らはひたすら訴えている。
「……簡単に出来たら良いと思うことは数え切れませんな」
「ええ、レントゥス」
近衛騎士団長が傍にいた。結局、マルクスから聞いた話は自分からは言わないことに決めた。拘束までしておいて何も報告しないのか、と自身の中の何かが執拗に責め立ててきたが、黙殺した。簡単に言えたら苦労などしないのだ。
「貴方はどうする、ガイウス」
レントゥスが此方を見つめている。表情を巧みに操ることに長けたこの人物を見ていると、底知れぬ不安が沸いてくる。真意を汲み取ることが出来ず、思わず訊き返した。
「……どう、とは?」
「我が道と違えようとも、それもまた道だ……全く、竜人族は素直すぎていかん」
己の中にある迷いに気付いたのだろうか。それを言い当てられたような気がして思わず僅かに身を引けば、近衛騎士団長はその口の端に微苦笑を浮かべた。
「うちのランケイアの若造も、貴方達に近い」
ランケイア。先日、自分を訪れたサフィルス・ランケイア。反乱軍アルジョスタ・プレナと通じていることを匂わせるだけ匂わせて戻っていったあの青年は、一体何を守ろうとしているのだろう。
何も言えずに、目を逸らした。その先は中央広場だ。何かが違えば、サイアもあの中にいたかもしれない。「竜の角」で働いていた民達が、そこにいて然るべき立場にあるのは確かだった。
そう、サイア。彼女も守られるべき存在である。そして守るのは他ならぬ自分だった。
「……守るべきものを、守るだけです」
言えたのはそれだけだった。
自分達が出す大声で興奮している群衆の中を、黒髪を綺麗に切り揃えた女と、波打つ砂色の髪の青年が横切っていく。心がどうしようもなくざわついて、その二人がやけに浮いて見えた。
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