24
暫し後にサフィルスはすぐに戻ってきた。腕には何着かの夜着の他に、柔らかい綿の布も抱えている。それを見てイークは気が付いた、血に塗れているのは彼女だけではなく、己もだ。
「すぐに横の浴み場から湯をお持ちします、陛下」
「よきに計らえ」
動き回る近衛騎士はあっという間に二つ重ねた桶に湯をなみなみと張って持ってきた。綿の布を湯に浸して絞ってから手渡してくるその手際の良さと察しの良さに感心しながら、イークはそれを受け取り、気を失った彼女の身体へ向き合う。
割れたグランス鋼の欠片が申し訳程度に残ったラウァを外した。幻ではないかと思ったが、布越しに触れたその肌の温もりが、これが現実であることを訴えかけてくる。近衛騎士が重ねられた桶を二つに分ける音を聞きながら、彼は血の跡を優しく拭っていった。綿が赤黒く染まっていく代わりに、彼女の身体は皇帝の手によって磨き上げられていった。辛うじて原形を保っているブーツも手袋も、羽織の残骸も、襤褸切れとなった胴着も、切り裂かれた短い丈のズボンも、穴だらけになった膝上の靴下も、下着も、全て外していく。
腕輪も外して、寝台の隣にある小机に置いた。サフィルスがそれに気付いて手に取る、キウィリウス邸の調度品と同じ、と囁くのが聞こえた。
露わになって、己の手によって綺麗になっていく女の肌。
それは彼の中に眠る雄を激しく揺さぶり、目覚めさせる。
血で汚れた掛け布をその肢体の下から引きずり出す。彼女の身体を清め終え、イークは一息ついた。血濡れの布を洗おうとすると、サフィルスがそれを優しく浚っていく。代わりに新たな絞り布を渡された。小さな優しさが心の隅まで染みて、邪な想いを鎮められぬ己の体たらくに泣きたくなって顔を上げれば、近衛騎士が静かに微笑んでいる。
「陛下もお清め下さいませ」
見下ろした自身の腕から胸は彼女の血で汚れていた。
サフィルスが血濡れた布の入った桶を持って退出していく。
何も考えずに、彼は手に付着した赤黒い液体を口に含んだ。下腹部に妙な悦びが沸き上がる、口腔内を満たすのは体液の味。
彼女のもの――彼女の味だ。
自ら含んで一つになったという事実に、イークは熱い息を吐いた。夜着を脱いで自身の肌に付着した彼女の生命の残滓を拭う、その己の手つきと布の感触でさえも、目覚めた己の雄を高めてやまない。耐えられずに彼はちらりと寝台の上を見た。
汚れた夜着を脱ぎ捨てる。血濡れた布で己を撫で、何とか熱を抜いて宥めすかすまで、そう長い時は必要なかった。
こんな想いは、イークは初めてだった。
湯を張った桶の中に夜着と布を放り込む。血は落とした。その代わりに、彼は途方もない罪悪感と後悔を被り、寝台の上に横たわる彼女を、せめて己以外が決して見ることのないようにと思いながら、新しい掛け布でそっと覆う。戻ってきたサフィルスに向かって湯浴みをしてくると言い置き、彼は寝台の間を後にした。
居室より外へ出なくてよかったと、脱衣所で下着の紐を外しながら、彼はそれだけを思う。
クレル板の分厚く重厚な扉は闇魔石と光魔石製の認証板に、認証鍵或いはシルダ家の者が放つ光の術を翳すことでしか開閉出来ない。そこを抜けてすぐに存在するのが巨大な机と本棚、椅子の置かれた執務室である。入って右の扉を開ければ寝室と衣装部屋が併設されており、更に向こうはイークの今いる浴み場である。左側の扉の向こうは長椅子や平面映像機、凛鳴放送の機械鳥、調理台や食事の出来る机などが置かれた寛ぎの空間だ。
湯ではなく水を被った、冷たい。彼は完全に冷静さを取り戻した。
纏っていた血の匂いを完全に洗い流し、泡立つ香油で身体を清めた。シルダのみが纏うロウゼルと果実のかぐわしい香りが、浴み場にふわりと立ち込める。髪専用に調合された香油も同じ香りだ。イークは全身を丁寧に洗い上げ、僅かに生え始めていた顎や腋などの無駄な毛を剃刀で軽く処理した。衛生の為、帝国民にも義務付けられている、大陸中央の慣習だ。ほぼ毎日水浴み或いは湯浴みを行い、清潔を保っているシルディアナ帝国の民にとってはあまり必要ないとも思えるが、土と光などを合わせて使う複合属性術を使わねばならない流行り病にやられた時などの対処が困難ということで、特に下腹部は剃毛することが旧シルダ歴よりも前から常識であった。
壁に二つ並んだ釦のうち上にあるものを押すと、天井に取り付けられた竜の頭、その口から、冷たい水が暫く流れてくる。下の釦を押せば降り注ぐのは湯だが、今は温いものなど浴びたくなかった。ともすれば熱が上がりそうで恐ろしかったからだ。髪に香油を塗り込み、手で梳いて暫く、それも全て水で流した。
冷たく、重くなった髪を絞る。香油のべとつきが手に残ったので、壁に取り付けられた小さな竜頭のすぐ下、縦に並んだ二つの釦の上を押した。小さな竜頭から水が落ちていく、手を差し出せば魚の形をした小さな水精霊が生まれ、一瞬で水に還った。
脱衣所にはいつも、水気を拭き取る清潔な布や、綺麗に洗濯された下着や夜着が置いてある。どれも淡くロウゼルと果実の香りに染められていた、手早く身に付けながら、イークは息をつく。冷たい水を浴びたのが良かったようだ、少し寒いと感じたが、先程の昂りは霧消した。
寝室に戻ると、手近な椅子に座って待機していたサフィルスが顔を上げた。
「戻られましたか、陛下」
「……起きぬか」
イークは寝台の上に視線をやった。彼が出て行った時と何も変わっていない。彼の視線を追った近衛騎士の表情は平静そのもので、どうやら指一本たりとも触れていないらしい。
「ええ、まだ」
「……夜着をくれるか」
言って、彼は寝台に上がり、彼女をそっと抱き起こした。力の抜けた背中は右の膝を立てて固定し、右の二の腕で頭を支える。前の留め金具を開けた夜着をサフィルスの手から受け取り、何とかしてそっと腕を通させた。近衛騎士の目に入らぬよう、掛け布の上から留め金具を締め、長い夜着の裾からそれを引き出した。新しい下着も受け取り、夜着の裾を捲って紐を締めてやる。見てはいけないものを沢山見て背徳感が再び襲ってきたが、致し方のないことだ、とイークは自分に言い聞かせた。近衛騎士にも女性がいれば、と彼はまた考え、これを提案することに決めた。アダマンティウスは聴いてくれるだろうか。捲った裾を足元まで伸ばしてやれば、終わりである。
終わりなのだが、彼女の身体を寝台の上に下ろすのも名残惜しくて、彼は閉じた双眸を見つめた。その奥に美しい森のような輝きがあるのを知っている。唇は僅かに開き、白い歯がほんの僅かに見えていた。ゆっくり上下する胸は、先程彼も触れたからわかる、手の中に収まるくらいの柔いふくらみ。
「――私は扉の外へおります、陛下」
視線を上げると、サフィルスの海のような双眸が気遣うように細められていた。それに微笑みのみで返して、クレルの扉の向こうへと出て行く近衛騎士の背中を見送り、彼は再び腕の中を見る。
そっと頬を撫でた、すべらかだ。彼女の頬が緩む瞬間を彼は知っている。宵闇が二人を包んでいく。
彼は待つ、その目覚めを。
ラナの目蓋が震えたのはその二刻ほど後であった。
イークが眠気でうつらうつらし始め、右腕をうっかり立てた右膝から落としかけた時に、首に少なからず衝撃を与えてしまったらしい。呻き声に、彼は覚醒した。
「ラナ」
己の名を呼ぶ声に、ラナは目を開けた、身体が誰かの体温に包まれていることに気付く。そして、その体温の持ち主の顔が目の前にある――暗闇でもわかる翠の目と金の髪――彼女の口から思ったことがそのまま漏れた。
「――アーフェルズ?」
イークはどきりとした。小間使いだったアーフェルズ、アルジョスタ・プレナ。彼女は反乱軍に迎え入れられていた可能性が高いと彼は考えたが、続いたラナの言葉に思考は中断された。
「私、夢を見た、クライアの」
「ラナ」
呼び掛ける声に向かって、ラナは訴えた。まだ頭のどこかがふわふわと浮いた心地がする。竜の多彩色の瞳が視界の中心にある翠の瞳と重なり、彼女の世界で揺れている。
「竜の力を取り込まずに、剣にしたの、アーフェルズ――」
「落ち着け、ラナ、私はアーフェルズではない」
イークは、ラナがいつか話してくれた話を思い出すのだ。空を飛んでいたという夢を、誰かに撫でられ、抱き締められたという夢を。彼はそれだけしか聞いていない。他にもあったということだろうか、そして、他の者にはそれを教えているということだろうか。腹の底に炎の大精霊ヴァグールが現れた心地がした。
「私はイークだ」
「イーク」
ラナは信じられず、力の入らない右手を伸ばせば、イークがそれをそっと捕らえて握る。
「イーク、どうして、私」
「そなたを、大精霊フェーレスが抱いて、ここに連れてきた」
「私、フェーレス」
ラナは起き上がる。イークはその背を支え、足りぬ体温を分け与えるように肩を抱き、視線を合わせた。
「何をしていたのか、覚えているか?」
「私……私、
ラナは喘いだ。痛みの記憶が蘇ってくる、事故を起こしたのだ。
「
「落ち着け、ラナ」
「私、行かなきゃ、行かなきゃいけない――」
「ラナ」
イークは、もがくラナの腰と背に腕を回し、ぐっと抱き締めた。
「私の目を見ろ、ラナ」
翠の瞳がラナの目を焼く。暗闇の中、それでも鮮やかな若葉の色。いつか必ず会いに行くと決意した相手が目の前にいる、その事実に、彼女は我に返った。
「イーク」
「私を覚えているか」
「……うん」
彼女は頷き、彼は微笑んだ。
「フェーレスが、私を連れて、ここまで来たって?」
「そうだ、酷い怪我だった」
「どこも痛くない」
「私が治した、違和感などはないか?」
イークの右手に燐光が渦巻き、小さな精霊がふわりと生まれ、小机の上に置かれたラナの腕輪に吸い込まれ、消えていく。二人はそれを見送っていた。
「うん……大丈夫」
「よかった」
二人は見つめ合った。互いの体温の触れ合いに気恥ずかしさを覚え、知らずのうちに頬や唇へ視線がずれる。距離の近さに今更気付き、相手の光彩に己の瞳を見つけて驚いた。
「……息災であったか、ラナ」
「うん……イークは元気だった?」
イークは右手で彼女の頬を撫で、ラナは右手で彼の背に触れる。二人は同時にびくりと震えた。
「そなたを捜していた、元気に、な」
「……私を」
「「竜の角」へ行ったら、閉鎖されていた……もう会えぬと思いはしたが、諦めたくはなかったのだ」
彼の手がラナの頬を優しく包み込む。彼女の手がイークの夜着をぎゅっと握る。
「私、スピトレミアにいた、助けて貰ったの……心配を掛けてごめんね」
「よい、構わぬ……酷いことはされなかったか」
「うん、大丈夫、そんなのは何もなかった……ねえ、私、サヴォラ免許も取れたよ」
ラナは微笑み、次いでイークも微笑んだ。
「そなた、欲しがっていたな」
「訓練付きだったから、強くもなれた……運送の仕事は、シルディアナの外にも出られる組合にするつもりだったの、そうしたら……」
「……そうしたら?」
ラナは目を逸らす。イークはそれをそっと追った。
「そうしたら、あなたに会いに行きたいと思って」
彼の目が大きく見開かれた。彼女の頬に添えられた手が震え、腰に巻き付く腕の力が増す。
「ずっと会いたかった、お礼を言いたかったの、あなたに会って、頑張ることが出来たから」
ラナの声は真っ直ぐ、強く、どんな射手よりも鋭く、深緑の目と共にイークの心臓と目を射抜いた。言葉を紡いだ唇は美しく弧を描き、愛と慈しみを以て、芯のある微笑みを魅せる。
「――私だって」
イークは大声を出した。見開かれたラナの目に映るのは、今まで見たことのなかった彼の表情だ――眉間の皴、その両側で流麗な線を描く眉は下がり、熱を灯した翠の双眸はみるみるうちに潤いを増してゆく。迷子になった言葉を探すかのように、色付く唇も、声も、震えた。
「私だって会いたかった……」
「イーク」
「会いたかった、死んでしまったかと思った、ラナ」
「生きているよ」
「ラナ」
互いの頬に頬を寄せる。柔らかな感触に、二人は揃って喘いだ。僅かに抱擁を解くと再び視線が絡まる、そこから目が離せなくなるのだ。
どちらから、ともなく、唇を重ね合わせた。
若者は我慢など知らない。求め、受け入れる互いの唾液が混ざる中、二人は互いの味が絡み、雄と雌が目覚める瞬間を覚えた。
「そうだ、ねえ、イーク、一つ大変なことを言っておきたいのだけれど」
熱い息をついて彼女が言うと、喘ぐ彼はそっと視線を合わせてくる。
「――どうした」
「私、本当の名前があって」
「知っているぞ、ラレーナ・キウィリウス」
ラナは息を呑んだ。
「どうして」
「そなたを捜している時に調べた、あと、腕輪だ、キウィリウス邸の映像が放送で流れたであろう、似ていると気付いた」
彼女は見る、小机の横で、腕輪が微かな燐光を放っているのを。
「案ずるな、ラナ」
「でも、私、あなたに迷惑を掛けたくない、この名前で、これから行かなきゃいけないところが、父の――」
「構わぬ、我が花嫁よ」
イークは微笑んだ。
隠しておく必要など、もう何処にもない。宰相家キウィリウスの娘と皇帝家シルダの息子、帝国の駒は今ここに揃った。
「どういうこと?」
「私の名はイークライト・シルダ、シルディアナ帝国第五代皇帝だ」
時は止まる。否、止まらない、ラナがそう感じただけだ。
決して姿を見せず、声も出さなかった皇帝。生まれいずる時より病弱にして、政務を行わぬシルディアナ帝国の主。
「……すごく、健康だったのね、あなた、一杯食べるのだもの、六人分でしょ、病弱っていう設定はちょっと……無理があるかな」
あの時話し掛けてきたのは皇帝だったのか、何故商人居住区などぶらついていたのか、気安いやり取りなどやってよかったのか、そもそも病弱とは何だったのか。様々なことが彼女の頭の中を駆け巡ったが、口からは最後に思ったことが飛び出し、イークが吹き出した。
「……そなた、よりによって、そこか」
膝を打って大笑いを始めたイークを茫然と見ながら、ラナはまた思ったままを口に出す。
「うん、ごめんなさい、色々あったけど飛んじゃった……いや、そうじゃなくて、花嫁ってどういうこと?」
「何、皇帝家と宰相家の縁談が上がっておるのだ、それもあってそなたを捜していた……いや、すまぬ、どうにもおかしくて堪らん」
くすくす笑う彼につられて、彼女も笑った
「……じゃあ、もう少しここにいても大丈夫か」
「もう少しだけなのか?」
イークはじっとラナを見つめた。彼女は途端に恥ずかしくなって視線を落とす、そうして気付いた、着ているものが薄く滑らかな夜着であることに……下着の布の感触が普段よりも柔らかであることに。
「寝る時間でしょう……だからかな、誰か、私を着替えさせてくれたみたいだけど」
ラナが恥ずかしさを抱えながらそう言った途端、彼がびくりと震えた。まさかと思って彼女が顔を上げれば、翠の目が揺れ動いている……動揺しているのは明らかだった。
「……あなたが?」
「……如何にも、私だ」
「……見たの?」
視線を固定したイークは覚悟を決めた顔で言い放った。
「いや、綺麗だったぞ!」
「そうじゃない!」
頭を抱えたラナは羞恥が突き動かすままに叫んだ。
「ならば血濡れのままのそなたをどうしろと」
「ううん、イーク、ありがとう、おかげで気持ちよく眠れそう」
彼女は何も考えずに足元の掛け布を手繰り寄せた。そうしてはたと気付く、自分はここで眠るのか、ということに。
「……そうだな、私も寝るか」
吐息が耳に掛かってきた、熱いとラナは思うのだ……そして、ここは誰の寝台だ、とも。気付いてみればやたらと広く、非常に柔らかく、手触りも良い。そして、寝るかと言っておきながら、彼は彼女の腰に腕を回すのだ。
「ご機嫌は如何かな、我が花嫁よ」
「なあに」
イークは、気を失っていて眠気とは無縁そうな彼女の柔らかな頬をそっと擽った。馬鹿なやり取りを経ても尚、目覚めたままの雄が身体の内側から尽きることのない欲望を訴えかけてくる。
「眠るか」
「……眠くないの」
「そうか、なら」
今度は彼から口付けた。彼女の鼻から声が抜けて、布の擦れる音が寝台に倒れ込んだ二人を包む。
互いの髪と吐息が混ざる。二人を止められる者は誰もいなかった。己を暴かれる羞恥にラナは涙を流したが、決して嫌なわけではなかった。イークは彼女の隅々まで愛撫し尽くした。とんでもない質量を持った彼の想いが彼女の中心にそっと押し付けられた時、二人は震えた。
柔な感触も、時々裏返る彼の声も、圧迫感と締め付けも、全て夜の狭間。
淡く燐光を放つ腕輪が見ていた。
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