23

 編んで結っていた髪はイオクス材のような色、身体は大きく、目は青。


 ラナという酒場「竜の角」の少女――否、シルディアナ帝国宰相グナエウス・キウィリウスの娘ラレーナ・キウィリウスの行方は依然として知れぬままである。そして、深夜の“大怪盗”による予告だ――キウィリウス家の至宝をお返しする。己が声明を出したことで宮殿が一時騒然となったのはどこか滑稽でもあった、とイークライト・シルダは思うのだ。


 皇帝の婚約者候補が生きているということは、彼自身の中で既に明白となった。だが、最早出会ったあの頃と同じままの彼女であるとは言えないだろう。何をされるのかわからない、という恐れがあった。


 だが、それでも、会いたいという想いだけは変わらない。


 彼はキウィリウスの親族を洗い出すことにした。洗い出させる、というわけではないことが彼らしい、己が足と手を使って何でもやってみるのが第五代皇帝である。洗い出すのは戸籍だ、キウィリウスの至宝――娘を浚っていったのは、もしや親族かもしれない、と思ったのだ。思うだけに留まらず、僅かな可能性をそれが潰えるまで探るということは非常に重要だ、とイークライトは考えていた。ただし、迅速に。


 髪がラナと同じ色だったというのは、同じ酒場で働いていたサイアという女の証言である。ステラ宮へ何度もガイウスやレントゥスを伴って通ううちに、その女は竜騎士団長と何度も言葉を交わすようになっていった。以前ステラ宮から戻る際にこっそり聞いた話によると、あの日、逃げようとしたサイアは帝国軍兵士に犯されたらしい。その場で助け起こした竜騎士団長の頬を、音を立てて張るぐらいの強者だったというから、その人の心の強さというものが窺える。だが、そう見えるだけかもしれない。


「サイアとやらはそなたといると目が輝いて見えるようになったな」


 と、ガイウスにそれとなく訊いてみたが、その時は言葉を濁された。何やら気になる関係にでもなったのだろうか、と面白く思ったりもしたが、突っ込むのは野暮というものだ。ラナが生きている可能性が高いということを、手当てを受けている市民に伝えた今、結果としてステラ宮のその一角の澱みが消えたのが何よりだった、と彼は安心するのだ。


 否、物思いに耽っている場合ではない。イークライトはぶんぶんと頭を振った。


 夕闇も迫る帝都の中央行政区、宮殿内は魔石動力内臓の豪奢な装飾のついたランプが煌々と輝きながら光精霊を従える、昼九の刻である。もう四半刻程すれば日は完全に沈み、戸籍管理人達はサフィルスと己を追い出しにかかるだろう。戸籍管理局の存在するアミリア宮に勤務している役人は、きっちり時間を守る厳格な者達が非常に多い。


 今日のイークライトは、髪を一つに縛り、少し薄汚れた化粧を施し、胴着に羽織に七分丈のズボンにサンダル、といった、その辺をうろついている下級貴族の子息が着ているような、簡素な綿の服装を纏っている。傍らにはすっかり従者の振りが板についたサフィルス・ランケイア――であるが、今日は近衛の彼が主人役だ。つまり、イークライトのみが忍びという状況である。


 アミリア宮の戸籍管理局は貴族でも平民でも誰でも入ることが可能であるが、戸籍の閲覧は軍属である証明を提示しないと不可能だ。円形の金の板に盾を掲げる竜が彫られているのが近衛の印だ、腰のベルトに下げたり、ピンを取り付けて胸飾りにしたりするのが一般的なようだ。精巧な飾りを仲間と共に身につけられることが少し羨ましい、と、イークライトはシルダ家の戸籍登録本をぼんやりと見ながら思うのだ。


 ところで、件の近衛騎士は戸籍登録本をぱらぱらと捲っていたようだが、その手がぴたりと止まった。その横顔を観察していると、普段より瞬きが少ないことに気付く。


「ランケイアの旦那様」


 イークライトが小声で呼ぶと、複雑な表情のサフィルスが北街区の住民一覧が掲載されている戸籍登録本を片手に近寄ってきて、囁いた。


「どうなさいましたか、御主人様」


「……その受け答えは、ばれませんか、ランケイアの旦那様」


「……流石に、どうすればよいのか、わかりません……わからぬ、許せ」


「その調子です、ランケイアの旦那様」


 間の抜けたやり取りをしている場合ではない。イークライトは用件を伝えたいのだ。


「何か有用なものがありましたか」


「……ここだ」


 サフィルスは開いた戸籍登録本をイークライトの目の前に差し出し、とある箇所を指差した。キウィリウス家に連なる者の記録が記されている箇所だ、植物紙の上に印刷機を通して印字された魔石混合のインクが黒く光っている、上から偽装するのを防止する為の闇の力だ。


「……ふむ、キウィリウスの奥方は死亡届が出されておりますね、新シルダ歴千八百七十八年、三の月、十三日」


 イークライトは呟いた。ラナという名であった少女が中等学舎を辞めざるを得なくなったのもこの頃だろう、と彼は思う。


 現在は新シルダ歴千八百七十九年、雨季も半ばを過ぎた十の月、三十日ある中の二十二日目である。十一の月は差し迫っていた。予告状のおかげで、イークライトの婚約に関する発表が公に向けて為されることに決まり、消えた花嫁候補の探索、大怪盗からの接触に備えて、近衛や竜騎士を中心として帝国軍も動かしている。表に出ない存在ではあるが皇帝だ、それに加えてキウィリウスの娘である、こちらも秘匿されてきたとはいえ。


「奥方の連れの方だ」


「ここの欄ですか……ティルク・サナーレ?」


 死亡届は名前の上に火魔石粉混合のインクで赤い判が押される。火魔石に少し焼かれて焦げついたティリア・サナーレ・キウィリウスという名の下に、親族の欄、弟と但し書きがされている、その名はティルク・サナーレ、男、新シルダ歴千八百五十三年八の月三十日目の生まれ、二十六歳。


「彼女には叔父がいるようだ」


「……外見も似ていると思えますかね、ランケイアの旦那」


「それは裏にある筈だ」


 裏を返すと、薄く伸ばした電子画が貼られていた。グナエウス――宰相は現在とあまり変わらぬ様相だ、電子画の更新日は、官僚の法の定めにより、新シルダ歴千八百七十八年、一の月の一日目となっている。だが、ティリアの電子画はおそらく二十代半ばであろうと思われる年頃で、それ以降の更新がされていないようだ。更新日の記載を制定する法が出来る前だったのだろう、それが何歳の時であったのかはわからない。


 その下のティルクの電子画は、中等学舎に進学する時に更新した十四の歳で止まっていた。更新日は学舎に通う生徒の規定として、新シルダ歴千八百六十七年、一の月の十日目。北街区第一中等学舎の所属となっている、貴族や竜人族の最も多い地域だ。現在軍属にある者に聞き取りを行えば情報が集まるだろうか、とイークライトは考え、後でガイウス・ギレーク竜騎士団長やレントゥス・アダマンティウス近衛騎士隊長に通達を送ることを決めた。アルジョスタ・プレナに関する手掛かりになるかもしれない。


 キウィリウス家の戸籍の記述は、それだけで終わっていた。


「……娘御がおられませんな、ランケイアの旦那」


「正式な戸籍登録は五歳検診の後だ、何らかの理由で離されたか?」


 双方頷き合う、だがそれは見せかけというもので、既に彼らは理解していることであった。己の国の法が定めるところは五歳、姿をくらませた当時のキウィリウスの娘の年齢はおそらく四歳。恐らく、戸籍の登録をしないままにキウィリウスの下から引き離す必要があったのだろう、考えられる可能性はアル・イー・シュリエの一件と、確実に存在したであろう、その一件に連なる政治闘争だ。


 イークライトは既に一つ発見をしていた。


 皇族――シルダ家だ――の戸籍も貴族や市民と同じで、軍属の者の許可を得たのであれば誰でも閲覧が可能だ。イークライト・シルダの頁もちゃんとある、秘されている為に電子画は貼られていないが。彼は自分の手元にあるシルダ家の戸籍登録本をもう一度見た。


 シルダ家の戸籍はシルディアナが帝国になってから血族全ての者が残されている。他の家へ嫁や婿に行った者は該当年月日に他の家へ移動、という記述がされていた。


 赤く判を押された父の次の頁である。父の次に皇族が生まれた証だ、そこに記述されている人物の電子画も、彼と同じように、ない。


 名は、アルトヴァルト・シルダ。


 イークライトはこの人を知らない。死亡届も出ていないということは、この大陸の、この世界の何処かに存在しているのだろうか。生年月日は、新シルダ歴千八百四十八年、三の月、八日。生きていれば三十一歳だ。


 自身と併せて、幻のような存在である。兄だ。


 幻。


 会ったこともない、兄の存在。彼は衝撃を受けていた。ぼんやりと口を開く。


「ラレーナ・キウィリウスは幻であった可能性も無きにしも非ず、と言ったところでしょうか、旦那」


「……本人を見ているだろう、イーク……これ、やめにしませんか」


「何故です、友人のように呼んで下さるので、私としてはとても嬉しい限りですよ」


「……光栄ですが、恐れ多すぎます」


 友人という言葉にサフィルスが頬を緩ませながらも、イークライトとの主従が逆転したやりとりに音をあげた時だった。


 アミリア宮のグランス鋼の巨大な窓の向こうを、翠光と金光が覆い尽くす。それは昼の太陽のように輝き、霧のように散っていく。


 その直後、けたたましい爆発音と共に、翠の閃光が宵の空を切り裂いた。


「……何だ?」


「魔力放出か……御主人様、すぐ慌ただしくなるので、もう行きましょう」


「そうだな、見ておきたいものは見た……サヴォラ事故か」


「恐らく」


 二人は囁き合い、戸籍登録本を棚に戻してアミリア宮より退出した。壁の中に巧妙に仕込まれた抜け道を戻る時、宮殿の廊下を走る複数人の足音や大声を何度も聞く。シーカらしい声が怒鳴っている、きっと取り調べが行われるのだろう。気にはなるが、任せておけばじきに解決するであろうと思えた。


 皇帝の居室の掛け軸を横にずらして、二人は戻ってきた。これより夜勤に当たる為に近衛の装備を一つずつ身に付けているサフィルスと共に薄く柔らかい夜着の長いチュニックに着替えながら、イークライトはやはり気になって考える、翠の色は風だ、サヴォラに違いない。だが、金色の光は何だったのか。


 その時だ、居室の外の出庭で眩い光が放たれたのは。


「――何だ?」


「私が行きます、陛下」


 装備を全て装着し終えたサフィルスが、腰に下げた動力機械付きの剣の柄に手を掛けながら前に進み出ていく。一歩一歩確かな歩みは頼もしいが、イークライトは思う、見えるのは翠光だ。出庭は広い、何者かが侵入する余地もあるが、その光は曲者のそれではない、彼にはどうしてか、根拠のない確信があった。


「何者だ、姿を現せ」


 遮光布を下げたグランス鋼の向こうにも近衛騎士の低い声は響いている筈だ、しかし、布を引いた時、そこにいたのは人ならざるものであった。


 風の精霊王フェーレス。


 豪奢に靡く翠の髪は八方へ拡がり、数多の風精霊を従え、何かを抱えている。はためく布には何の装飾もなく、ただ静謐を泳ぐ。いつも微笑んでいると人々は言うが、その美しいかんばせに、今、喜びはない。


 涙の代わりに風が生まれいずる、哀れみに伏せられたその双眸から。


 二人は抱えているものが人であることに気付いた。血に塗れている。


 その顔を見て、イークライトはサフィルスの横から飛び出してグランス鋼の扉を開け放った。


「――ラナ」


 彼は風に飛び付いた。抱かれた身体は、ぐったりと力が抜け、蒼白な頬や腕に数多の切り傷が存在している。己の身体を咄嗟に庇う暇などなかったのだろうか、腕の一部や足の先、胃の辺りが見るも無残な状態になっていた。服は襤褸切れと化している。


 惨状に思わず息を呑んだ。出血が、止まっていない。


「――まさか」


「サフィルス、手伝え!」


 近衛騎士は硬直して囁き、イークライトは叫んだ。


「光精霊王の思し召しの下にこの者に癒しを与えたまえ――」


 彼は風ごとラナの身体を掻き抱いた。己の服や肌が血で汚れたが、そんなことに構う暇などない。手に渦巻く光が満ち満ちて、ずたずたになった腹がみるみるうちにみちみちと音を立てて塞がっていく。再生をしているから問題はないようだと頭の何処かが冷静に伝えてきたが、彼は無視した。


 痛々しい傷ばかりだ。だが、その身体に欠けているものは何一つなかった。


 サヴォラ事故に巻き込まれたものは、例えクレル板であろうと人であろうとなんであろうと、全て細かく風に切り刻まれるという末路を辿る。凄惨な事故現場の報道はあまりにも刺激が強すぎる為に規制されてきたが、イークライトが忍んだ先で、それを見たという者は少なからずいた。ステラ宮には、その光景が忘れられずに療養している者だって存在している。操縦者が助かっていても、五体満足というわけではないことだってあった。


「――ステーリア!」


 光冠抱きし精霊王は彼の叫びに応えた。憐みを抱く輝く微笑みから、眩い双眸から、纏う竜鱗から、溢れんばかりの癒しが彼女の身体に降り注がれ、骨の繋がる音が幾つも聞こえた。切り傷が、大も小も全て塞がっていく。


 イークは泣きたくなった。何故彼女がこのような目に遭わなければいけなかったのか。


「ラナ」


 ひとりでに声が震えた。触れた頬が冷たい。


「ラナ」


 会いたい、と願っていた彼女は、彼の問いかけには何も応えない。腕を取った、微かに脈を感じる。胴着が意味を為さない程に風の刃のせいで露出してしまった胸にそっと頬を当て、その心臓が動く音を聴いた。


 精霊の気配が消え、翠光も金光も散った。


 柔らかな感触の肉の向こうで、彼女が生きている。そっと手で膨らみに触れれば、上下しているのがわかった。呼吸は止まっていない。


 ほう、と息をついたところで、手伝えと言ったきりサフィルスを放置していることに気が付いた。振り返れば、そこには膝をついて、心配そうな、どこか泣きそうな表情を取り繕うこともしない青年がイークを見つめている、手甲をつけた腕が肩に触れてきた……温かい。


「……イークライト様」


「……サフィ、私の衣装部屋に何か女ものの夜着があった筈だ」


「畏まりました」


 彼は彼女の身体を抱え上げる。鍛えていない腕には重労働だが、そんなことはこの際どうでも良かった。力になることが出来たのなら、と思った日が懐かしい。


 彼女を捜して躍起になっていた。


「……ラナ」


 片手で、己の寝台の上を掛け布で雑に覆い、そっと彼女の身体を横たえた。その手を包み込むように握ってイークは思った、髪が少し伸びた、その双眸が開く瞬間を見たい、声を聞きたい――名を呼んで欲しい、と。

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