22

 ぐっ、という呻き声を上げて、相手が倒れていく。


 それを見ながら右脚の動力を切って、彼女は着地した。飛んだ金属片が目の前に落下している、拾い上げて赤土を払い落し、上半身を起こしたオスティウスに向かって、ラナは駆け寄った。


「参った、いい蹴りだった」


 思いっきり蹴られたにも拘らず、彼はどこかさっぱりとした苦笑を見せる。立とうとはせずに座ったまま彼女を見上げてくるその身体が、どこか小さく思えた。


「すみません、教官、思いっきり蹴ってしまいました」


 彼女が屈んでその顔を覗き込むと、安心させようとしているのか、口元が無理に笑おうとしているのがわかった。咳をし始めたから相当衝撃があったようだ、思わずラナは顔を歪めるが、オスティウスの手が優しく背中を叩いてくるものだから、それに甘えてしまうのだ。


「構わん、何かあってもそこのレフィエールの末裔が何とかしてくれる」


 アリスィアの方を振り返ると、渋い顔で溜め息をついている。今はちゃんと、彼女も人だ。


「自分から出しゃばって自分から負傷して、都合のいい時に私を頼るから、人間って意味がわからない」


「仕方がないだろう、彼女はまだ騎士課程を修了していなかった、その試験だ」


 治癒の光を生み出しながら近付いてくるラライーナに向かって、もとよりこの予定だったぞ、などと少し拗ねたように付け足しながら、オスティウスは再びラナを見て、微笑んだ。


「合格だ、お前は最適解を導き出した、その鍵を持って行くといい」


「……メライダ教官」


「言っただろう、昨日、免許を渡した時に」


 はっとした。力強い手が伸びてきて、ラナの肩を優しく引き寄せる。


「お前の決めた道だ」


 その薄い砂色の瞳には色々な感情が宿っていた。その全てを到底読み取ることは出来ない、狂おしい程の想いが存在していることだけが、辛うじてわかった。彼女を守ったその腕は、まるで愛し己の子との永遠の別れを惜しむが如く、強く、ラナの身体を抱き締めた。


「ラナに、風の精霊王の加護と感謝を」


「教官」


 離れた右腕がそっと彼女の頬を撫でていく。オスティウスは微笑んだ。


「飛んでいきなさい……どこへでも、好きなところへ、私のフェーレス」




 彼女はラウァを装着した。アリスィアとオスティウスが見守っている。認証鍵を差し込み、免許を運転鍵として魔石認証窓に翳せば、スピトレミアの最新機体風の翼フェーレ・エイルーダに内蔵されている小型光魔石動力が操縦席にある操縦桿内部に組み込まれた小型ランプに光を灯す。座席周囲の桿も同じように光り、準備は整った。万が一を想定して、尾に黄色い布も括り付けてある。


 魔石動力を起動させると、両翼の噴出口に翠光が集まり始めた。ラナは二人を振り返る。


「――行ってきます」


 オスティウスが頷き、アリスィアは静かに微笑んだ。


 彼女は操縦桿を引いた。


 私のフェーレス。美しい風の精霊王は若い男の姿で人の前に現れる。ラナが思い出すのは数刻前のアルデンスの言ったことである――相手を精霊王に例えるっていうのはスピトレミアじゃよくある求愛の言葉だ――彼は若しかするとラナを見ていたのかもしれなかった。


 どうして、こうも好意を受け取れぬ状況なのか、と彼女は思う。


 アルデンス・ヒーエリア・ユエルヴィールは、領主の娘との婚姻を控えている。


 オスティウス・メライダは教官である。彼がアルジョスタの黒い布を纏う由縁を、ラナは知らない。


 スピシア・アンデリー・シェルメリアは、やがてスピトレミア領主となる。今になって気付いた、領主の娘の目はオスティウスを見ていた。


 ラナとしても、ラレーナ・キウィリウス・サナーレとしても、自分がいない方が、物事はもう少し上手く行くような気がする、彼女はそう思う。だが、今こうして存在しているのだから仕方がない。そうなってしまった哀しみを、どうすれば解決出来るのか、誰に問えばいいのかもわからない。ティルクやアーフェルズ、エレミアにもきっと見付けられないだろう、そんな気がした。


 ならば、全てを背負って、行くしかないのだ。それが壁となるのであれば飛ぶしかないのだ。どうやって、と皆が口を揃えて言うだろう、その手段を得ることすら困難であれば、どうやって?


 どうやって。彼女だってわからない。だが、歩くしかないのだ。


 己のみを抱いて。


 砕け散った明日の一欠片すら拾えないまま、記憶の向こう、微かな温もりの残る夢に縋って生きてきた彼女は、その向こうへと飛び立とうとしている、全ての終わりへと。


 塗装された厚いグランス鋼が全ての風を跳ね除けていく。翠光を纏う黒い風の翼は青と紅の出会う金の刻に、途方もない哀しみを斬る美しい刃となって、エイニャルンの岩棚に舞い上がる。


 私のフェーレス。エイニャルンは数多の想いを抱いている。


 私のフェーレス。捨てるのではない、彼女はそれを己が美しき翼へと、変える。


「フェーレス」


 それは、彼女が呼べば必ず応ずる、天駆け地を撫で時ゆく旅人、人むすぶ始原の風。


 翠光の導き。


 ひときわ美しく豪奢な翠色の髪が四方に踊り、親しげな笑みは陽光に輝いた。力強くしなやかな若木の如し四肢を拡げ、フェーレスは風の竜翼にその腕を添わせる。宝飾はいらない。風に飾りなどいらない。


 風の翼フェーレ・エイルーダは渓谷を行く。人々が何かを探して騒めく一角はアンデリー邸だ、幾人かが精霊王に気付き、指差し、あっという間に集まってきた。


 ラナは翼を蜜鳥に切り替え、機体を出庭に寄せた。見知った顔が見える。


「ラナ」


 驚愕に彩られたティルクの顔に向かって、彼女はラウァを上げることで応えた。その横には意外だと言いたげなアーフェルズもいる。スピシアとアルデンスが同時に出てきた。エレミアが納得したような、諦めたような表情で見上げている。


 自然とラナの口角は上がった。


「私はラレーナ・キウィリウス・サナーレ」


 思ったよりも張りのある声が腹の底から風に乗って、紅の光に頬を染めて夜という名の恋人を待つ渓谷に響き渡った。隠されたエイニャの涙エイニャルンをそっと包む濃紺の帳は、もう、すぐそこで彼女がそれを引くのを待っている。


 幾人もの息を呑む音もまた、微かに反射した。


 風の音はあれど、駆動音は存在しない。謳うように朗々と、喉が鳴る。


「私は今から帝都へ行く、父に会ってくる、道具じゃなくて、娘として……私は、アル・イー・シュリエの人々の子孫で、その記憶を夢に見るの……アル・イー・シュリエが焼かれた悲劇の謎を、解かなきゃいけない……きっと、この国の大切な何かに、関わっている筈だから」


 群衆の中から一人が進み出た。それはアーフェルズの声をしていた。


「連れていってあげることも出来たのに」


「ありがとう、でも、自分で行ける」


 ラナは微笑んだ。アルジョスタの指導者も微笑んだ。真意はわからない、だが、それでいい。衣装が乱れるのも構わずにティルクが掴みかかるのを受け止めながら、彼は頷いた。


「おい、アーフェルズ」


「行っておいで」


「お前の決めることではないだろう!」


 おじが叫んでいる。


「今あそこに行ったらどうなるのか、想像ぐらいはつくだろう、アーフェルズ――ラナ、行くな、お前の手に負えると思うのか」


 ラナは首を振った。


「でも、私は行く」


「命の保証が出来ないぞ!」


 怒りと戸惑いと哀しみを隠そうともしないティルクに向かって、彼女は静かに微笑んだ。


「じゃあ、せめて風に祈っていて、おじさん」


「……やめろ、やめてくれ、お前まで失いたくない」


 まるで懇願するかのような、その声が震えている。彼は揺れる瞳でラナを見つめたまま首を振りながら後退り、弾かれたように大広間の中へ飛び込んだ。


 ひとり、冷静なアーフェルズが、その翠の双眸で彼女を真っ直ぐ射抜いてくる。


「あれは間違いなく追ってくるね」


「アーフェルズ」


「君の思うままに、行きなさい、ラナ――」


 ――風のいとし子。彼の囁きに、フェーレスの笑う微かな声が重なった。


「これが私の披露目――飛燕展開!」


 ラウァを下げて、ラナは叫んだ。




 美し風は今、エイニャの涙を後に残し、駆ける、暇を告げし鳥の声も聞かず。




 彼女は、飛んでいた。


 金色と紅に染まりゆく空と、機体を叩き掠めていく風の塊。髪は全て後ろへなびき、言い表しようのない高揚感がその身体を満たす。


 地平には紺碧の恋人を迎えて美しく頬を染める大地と、その上に点在するスピトの群れが次々と現れては消え、を繰り返していた。何処まで行っても彼女は落ちなかった。彼女は風の翼を抱いて、体勢を崩すこともなく、いた。


 やがて霞む大気の向こうに見えてくるのは、高い塔が幾つも建ち、魔石の力による動力環がぐるぐると光りながら揺らめく、帝都シルディアナの壮麗なる眺め。


 たった一人で飛び続けていたわけではない、風の大精霊フェーレスが彼女と共にいる、その側に、美しく染色された裾の長い服を着た誰かがいつの間にか存在していた。


 ――ラナ。


 その誰かは、母の声で彼女を呼んで抱き上げた。


 ――ラレーナ。


 頭を撫でた手の持ち主だろうか。顔も見えない男の低い声が、朗らかな声で彼女を呼んで、愛おしそうに笑った。父だ。


 ――ラナ!


 変声期の終わっていない少年の高く澄んだ声が聞こえた。次いで、まだ細くも温かい腕が彼女をぎゅっと抱きしめ、空のような色をした瞳が嬉しそうに細められた。ティルクだ。


 いつの間にか彼女は温かい腕から引き離されて飛んでいた。尖塔の間を縫うように泳ぐが如く進むこの身体に、風の精霊達が明滅を繰り返しながら触れ、空気の波動を無数に生み出している。夢との狭間にいたのだろうか。


 あの温かい腕を、ティルクを置いてきてしまった。それは、夢ではない。


 楽しそうな笑い声が響いてふと横を見れば、ひときわ美しく豪奢な翠色の髪を靡かせる、名を持つ風は、フェーレス。


 夕闇の迫りくる中に、彼女はレファンティアングをすり抜け、尖塔の間を吹き抜ける突風に身を任せる。飛燕は自在に駆けた、帝都を彩る精霊王が風に風を呼び、それはやがて遥か古よりシルディアナの主として君臨し続けてきたものと呼応する。


 光冠抱きしステーリア。


 宝飾の如く光り輝くそのかんばせ、光魔石よりも眩い双眸、湛える笑みは紅の陽光を抱いて、若き風を出迎えた。女の肢体に、纏いしは竜鱗。


 突如出現した光の精霊王は、風の精霊王に向かって、両手を大きく、大きく拡げた。


 フェーレスはステーリアの腕に抱かれ。


 微笑み合った二柱は、夢のように、数多の光の粒子となって、散った。




 あっ、と思った瞬間、彼女は光に呑まれて、何も見えなくなった。切るような痛みが身体を襲う、奔流の中、最後に感じたものは森の息吹――




 森が語りかけている。


 傷だらけの身体を引き摺ってここまで来たのは奇跡だと思えた。土すらも見えぬ深い、深い緑は、足をすっぽりと覆っている。


 目の前には微笑みを絶やさぬ美しき、人の形。だが、それが人ではないことを、どうしてか心が訴えかけてくる。目の前のものは自分達とは違う、と。


 事実、瞬きの間に、それは巨大なつがいの竜へと姿を変えた。


 ――汝、遥かなる約束の地より来たりし、己が道を行く者か。


 ――己が道の為、力を手にせんと来たりし者か。


 朝日の色をした竜と、夕日の色をした竜が交互に言った。恐怖と戸惑いが綯交ぜとなって心の中をかき乱す。


 夢――否、記憶だ。彼女の口はひとりでに動いた。


 ――如何にも、私の名はクライア・サナーレ。


 クライアの記憶だ。


 始原のもの棲みし地に覇を為す力あり、選ばれし者の鎚にて至高の得物となるだろう、しかし求めゆく大陸の覇者はやがて災禍を招かん。彼女の記憶の中に、その言葉が朗々と響いた。どこでその唄を聞いたのだろう、だが、麗しくも老獪な男の声だったような気がする。


 ――己が使命を果たさんが為、ここまで参りました、始原の森の主よ。


 森が騒めいている。


 ――小さき子、小さき子、如何様にして。


 ――小さき子、小さき子、その命の灯は煌々と輝いている。


 瞬く間に、竜は再び人の姿へ変わる。心があるのかどうかわからない、しかし、その顔は疑いのない、尽きることのない愛と慈しみを無限に湛えて、微笑んでいた。


 ――小さき子、その高潔なる魂よ、迎え入れん、我が眷属に。


 ――小さき子、その高潔なる魂よ、迎え入れん、ラル・ラ・イーの眷属に。


 その指が触れた箇所から、小さな傷が消えていく。獣に襲われた大きな切り傷も消えていく。折れた腕が激痛を伴って再生していく。彼女は悲鳴を上げた。何かが入り込まんと、彼女の血の結びつきを変え、愛する男を知ったばかりの身体を無理矢理こじ開けていく。


 ――私は望みません!


 とめどなく溢れる涙の向こうに、正気を保とうと、見える筈のものを睨みつける。その瞬間全ては止まった。


 彼女は半ばまで創り変えられた身体を守るように、自身の腕で抱き締める。


 ――何故。


 ――何故、小さき子。


 彼女は口を開く。


 ――私はクライア・サナーレ、生きて死す人の子、愛する者と共に生き、死にたい。


 愛する人、師でもあるアウルスの微笑みが彼女には見えている。その体温も、雄の香りも、色付いた声も全て、覚えている、鮮明に。


 ――されば、さだめの下に、生きると申すか。


 ――されば、さだめの下に、力を与えん。


 朝日と夕日の声は森の中に、彼女の中に吸い込まれていく。残念だとでも言いたげな表情を残し、燐光が再び竜の形を成し、その多彩色の瞳が、彼女の頭上に迫った。


 ――小さき子よ、ケイラトの力を与えん。


 落つる涙が朝日の光を放ち、彼女は両手でそれを受け止めた。




 白竜ケイラト、その言葉だけを抱いて、ラナは意識を失った。

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