21
いつから魔法罠に掛かっていたのか、ラナは思う。
先導者はいない。彼女は腕輪が放つ淡い光だけを頼りに、岩壁の露出した狭い通路を進んでいた。護衛をしていたアーフェルズに厠へ行ってくると申し出てから「スピトの針箱」で貰った袋と一緒にそっと大広間を抜け出して、どれくらい経っただろうか。結局何も食べることが出来ていない。脱いだドレスはそっと畳んで、袋の中に丁寧に入れた。髪飾りも二の腕を飾る派手な腕輪も外してその上に置いた。サンダルも脱いで、靴下にブーツへ戻った。胴着の上に羽織、短いズボン。首にラウァを引っ掛けて、取ったばかりの免許と、左腕の腕輪だけを持って、スピシアに教えられた通路へ駆け込んだ。アルデンス――ユエルヴィールと言った方がいいのかもしれない――から貰った簪も、ドレスと一緒に置いてきた。誰も見ていなかった。
ラナは今、ただのラナだ。
どうして逃げてきたのか、自分でもわからない。わからないと言うよりも、逃げてと言われて、その衝動のままに飛び出してきたと言った方が正しいかもしれない。己の与り知らぬところ……というわけでもなくなってきたのだが、利用される存在であるということに言いようのない拒否感を覚えた。柵に囚われたアルデンスやスピシアの顔が脳裏によぎって消えた。二人とも、諦めた瞳をしていた。
ラナには覚悟というものがない。
ラレーナ・キウィリウスとは、過ぎたる名前だと思う。キウィリウスの名である。帝国の政治を握る父の姓である。彼女は父の顔を覚えていない。なのに、その名前だけで、その細い、極細い繋がりだけで、顔も知らない誰かの為に生きていくことを強いられる未来が舞っているのかもしれない。全ては憶測でしかない。だが、彼女は強く思う、そうはなりたくないと。
もしかしたら、スピシアには意中の人がいたのかもしれない。
もしかしたら、アルデンスはずっとラナの方を見ていたのかもしれない。
いつの間にか彼女は再び涙を流していた。もしかしたら、ティルクは縁を結んだキウィリウスの名を恨んでいて、だからこそアルジョスタにいるのかもしれない。もしかしたら、アーフェルズは、死んでしまったのかと泣かれる程に、酷い目に遭ったのかもしれない。
だが、ラナには分からない。ラナ自身は、他の誰でもないからだ。腕輪に宿る翠の光がぼんやりと滲んだ。本当の名はラレーナかもしれないが、彼女は彼女だ。
そうして出来るだけ走って進んでいくと、登り坂の向こうに風の匂いを感じた。空調の効いたアンデリー邸のものではない、外から入り込んでくる新しい空気を吸い込む。この道を抜けたらエイニャルンの岩盤の上に辿り着く筈だ、と、スピシアが言っていた。そこから走ればいいだろう、でも、何処に向かって?
「ここまで来たのね」
思わず立ち止まった瞬間、声がして、ラナは跳び退った。不意に周囲が明るくなり、目の前に浮かび上がるのは人の顔。
「誰」
「安心して、捕まえに来たわけじゃないわ」
美貌が微笑んだ。声は女のものだ、その肌色を縁取るのは、眉の上と顎のあたりで切り揃えられた黒髪。ふわりと浮かぶ光精霊が通路の赤い岩肌を照らし、相手の肢体を浮かび上がらせる。すらりと伸びた四肢、纏うのは胴着や羽織などではない前合わせの麻布、胸元の蛋白石の装飾が煌めき、濃い色の腰帯、二の腕から手の指までを覆う独立した飾り袖。右手には実体のない光が渦巻いている、光の術だ、おそらく照明だろう。
ラナの心臓がどくりと大きく打った。彼女はこの人を知っている。
「あなた、夢で見た」
「あら、アル・イー・シュリエの民にも夢見の力があったのね」
「もしかして「竜の角」に来たことがある?」
「今年が始まったばかりの頃かしら、行ったわ、料理が美味しかった……今はないのよね、残念すぎるわ」
美女の顎の先で揺れている黒髪がさらりと音を立てた。その身体や表情は、人間の匂いなど一切纏っていない。ラナは底知れない恐怖を覚えた。
「イェーリュフと一緒に、いた」
「……そういえば、いたわね、あの厄災運びのくそイェーリュフ」
美女は、臭う靴下でも発見した時のような表情を見せて、そう言い放った。そんなところは、ただの人だ。ラナの恐怖は途端に薄れ、頭の中は疑問で埋め尽くされた。
「厄災運び? 何か良くないことが起こるの? どうしてここにいるの?」
「頼まれたからよ、アーフェルズに」
「アーフェルズ?」
一番怪しい者だ。後ろにあるのはアルジョスタ・プレナだ、というアルデンスの言葉はさっき聞いたばかりである、その反乱軍の指導者がアーフェルズではないか。その頼みでここにいるというのであれば、どうして警戒しないという選択肢が取れよう?
「エルフィネレリアに亡命しなさい、イェーリュフの楽園、大陸の永世中立国へ」
「アーフェルズが、どうして?」
ラナは忘れたわけではない。アーフェルズは、君が必要だと言った。そのアーフェルズがみすみす彼女を手放すような真似をするのだろうか? そこまで考えて、彼女はアルジョスタ・プレナの主導者の闇の深さがどれくらいのものなのかを一切知らぬことに気が付いた。
彼女が知っているのは、深淵の奥底に煌く、永遠に秘された宝の如き清廉さのみ。
「選択肢はいつも沢山用意しておくものよ」
「……どういう意味?」
「問答をしている暇はないわ、私のドラゴンを待たせているの、速くしないと見付かっちゃう」
こっちよ、と、その手がラナの手を取って、走り始めた。
「ちょっと、待って」
「待てないわよ」
躓きそうになって訴えても、止まらない。
アリスィアと言葉を幾つか交わしたことで、逃げたところでどうなる、という問いかけが、彼女の腹の底から水のように沸き上がってきた。エルフィネレリアへ行って、そこで何をしろというのだろう、ティルクも、アルデンスも、スピシアも、アーフェルズも、エレミアも、荒れ地に全てを残して。キウィリウスの名など捨てて。イークにも会えぬまま。
抗えぬ流れに呑み込まれて、それでも足掻く人々を置いて?
彼女は気付く、今、己が泳いでいる場所は、ただの浅瀬、ほんの波打ち際ではないか?
「待って、待って、ねえ」
「どうしたのよ、時間がないわよ」
引っ張られていた手が離された。ラナは立ち止まって、相手の顔を見た。睨んだ先の双眸は奥二重の鳶色。
「どうしてエルフィネレリアなの」
「あなたが安心して生きていける場所だから」
一瞬だけ、大陸全部がエルフィネレリアになってしまえ、などと思ったが、ラナは打ち消した。ありえない、馬鹿馬鹿しい妄想だ。だが、或いはシルディアナ帝国が夢見たものが大陸の統一であったかもしれない。
「全部捨てろ、ってこと?」
「ほとぼりが冷めたら戻ってもいいのよ」
そのほとぼりが冷めるまでに何か大切なものが失われたら?
「……あなた、誰」
「私はアリスィア、ラライーナよ」
ラライーナ、黒髪に鳶色の目を持つ種族。竜と意思疎通の出来る、森の人。そして、彼らは術の力を使えない筈であるが、目の前の美女は光の術を使っている。どうして荒れ地にいるのだろう、とラナは思った。
「どうしてここにいるの」
「私も夢に呼ばれて来たの、ラナ」
歩きながら話しましょう、アリスィアは言って、再びラナの手を取った。今度は引っ張るような真似はしないらしい。
「あなたも夢を見たの?」
「私のはね、剣の夢」
「剣?」
「そう、私はあれを壊さなきゃいけないわ」
二人は並んで歩いていく。ラナは思う、アリスィアの横顔は凛と整っていて美しい。己の使命を見定め、尚且つ何者にも囚われない、全ての柵を破壊して自由の向こうへ飛んでいく、そんな決意を秘めた目。本当はどうかわからないが、少なくとも彼女はそう感じた……その強さが自分にあれば、とも思った。
「どうして私のことを知っているの?」
「情報は幾らでも流れてくるわ、キウィリウスの至宝さん」
「全部知っているのね」
ラナはふと、夢の中で訴えかけてくる白竜のことを思い出した。
約束を還す時が来た、アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を。白竜はその手に剣を捧げ持っていた。こんな境遇の子供――否、彼女はもう成人だ、何も出来ないと嘆くだけの、脅威から逃げても許される時代は、過去の喪失の悲しみと共に過ぎ去ろうとしていた。
約束を還す時が来た、己の血に刻まれた真実を見定めよ、己の夢に現れた我の言葉を聞け、アル・イー・シュリエの末裔よ、その名に印された約束を。何を探さないといけないのかも、もう少しで掴むことが出来るような気がしていた、夢の奔流が彼女の頭の中を満たす。手掛かりは、白い輝きを放つ高雅な剣。静謐が支配する白亜の空間、巨大な翼をその背に畳んだ白い竜がその腕に捧げ持つ。
約束を還す時が来た、百年にわたるシルダの罪を被る小さきものとその血族よ、生きとし生けるアル・イー・シュリエの末裔よ、新たな風の主と共に、その名に印された約束を。
彼女の家族はどこにいるのか明白だ。あの声の持ち主もきっと、そこにいる。
――アーフェルズは死んでいない。
「アリスィア」
「決めた?」
「うん」
ラナはごくりと喉を鳴らした。気付いていた、全てを残して行くなどという選択肢など、元よりない。彼女は夢を見たのだ、他が為、守る為に剣を打たんと決意するクライアの記憶を。柵に囚われて尚、愛を貫こうとしたその想いを見たのだ。
「じゃあ、ウィータに乗っていきましょう、私の相棒なのだけれど、ドラゴンは魔石切れなんて起こさないからエルフィネレリアまで余裕よ」
「違う、帝都よ」
アリスィアが振り返った、驚きに目を瞠っている。ラナは自分を勇気付けたくて、態と、にやりと笑ってみせた。
「帝都、予告状の通りになってやる」
微かに、でも確かに、何かが己の中で繋がろうとしている。その柵が、時を越えて彼女を呼んでいる。クライア・サナーレ。ラレーナ・キウィリウス・サナーレ、言うならばこうだろうか、彼女もその姓を貰った。ミザリオス・シルダ。イークライト・シルダ、未だ顔も声も知らぬ皇帝が、その姓を抱いている。
彼女は夢を見なければならない、何処までも、飛ぶ為に。そして彼女は知らなければいけない、約束を還す為に。
「逃げるのはやめにする」
自分から飛び込んでいってやる。ラナはアリスィアと向き合った。
「……
「ありがとう」
行ったところで自分に何が出来るのか、なんて一切考えなかった。彼女には名がある、ラレーナ・キウィリウス・サナーレ。それは彼女の纏うたった一つの鎧だ、クレル板でもフェークライト鋼でも何でもない、ただの名。二人はやがて地上に出る、そこで待っていたのは
「……こっちに来てしまったのか、ラナ・サナーレ……いや、ラレーナ・キウィリウス」
「……メライダ教官?」
黒いマントを身に付けてそこに立っているオスティウス・メライダが苦笑して、腰に手を掛ける。ベルトに吊られた金属の擦れる音とともに、抜かれたのは美しい短刃が二本、徐々に赤くなりゆく陽光の下にそれは煌いた。柄に逆さ竜の紋章が刻まれている。
「行かせるわけにはいかない」
「あなた、準備を整えておく、っていう手筈だったでしょう」
オスティウスが構えたのを見て、アリスィアが声を荒げる。その華奢な手に渦巻いていくのは火だ、先程は光を出していなかったか、とラナは気付いた――ラライーナに宿る人の気配が薄れたような気がした。
「よくも邪魔してくれたわね」
「そうではない、レフィエールの末裔よ」
口ではそういいながらも、オスティウスの双眸は鋭い光を湛えてラナだけを見つめている。腕も下ろさぬまま、彼は彼女だけに向かって、言った。
「ラナ」
その名前で呼ばれることだけが、何故だか妙に嬉しい、と彼女は感じるのだ。もう、ただのラナでなくなってしまったからかもしれない。或いは既にその重みによって落ちかけているのかもしれない。
「私はお前に言った筈だ、まだ騎士課程の講義は続く、と」
「……はい」
「脚部装甲が座席にある、装着しなさい」
何を言い出すのだ、という疑問が沸いて、直後に浮かんだまさか、という言葉によって塗り潰されていく。ラナは音を立てて唾を呑んだ。
「卒業試験だ、誰かがここに来る前に私から一本取りなさい……そうしたら、
出来るのか、という疑問は、いつも尽きることはない。ラナは言われた通りに脚部装甲を装着し、オスティウスの方を振り返った。エイニャルンの赤土が一層赤くなりゆく夕刻、彼はその双眸に鋭さを湛えたまま、口元だけで微笑む。
いつだって、恐ろしい。彼女はその恐怖を思い出した。目の前で飛び散る血飛沫、木霊する断末魔、あの日の「竜の角」はいつだって、ラナの身体を震え上がらせる。サイアの悲鳴、何も出来なかった自分は、誰かの手を借りて逃げるだけしか出来なかった。何かの弾みに殺されていても、おかしくはなかった。
だが、出来るのか、出来ないのかは、やってみないとわからないものだ。
ラナは力を手に入れた。その証拠は、何よりも、オスティウスが向けてくる刃の煌めきが本物であることだ。
脚部装甲だけしかない、武器になる刃など皆無だ。だが、そのような状況はいずれ訪れるだろう、ひょっとしたら、脚部装甲もない状況で何十人と相対することになるやもしれぬ、彼女は思いながら相手を見据える。いつでもかかってきなさい、と、オスティウスの顎が動いた。
フェーレス。
声には出さない、ラナは心の中でそっと唱え、装甲に嵌められた風魔石の力を解き放った。
風精霊と遊ぶように、彼女の身体は跳び上がる。相手の踏み込みと跳躍は強力だった、装甲なしで肉薄するしなやかな腕を右太腿のクレル板で弾き、左脚の出力だけを咄嗟に上げる。直後に襲った短剣を風と噴出口が弾いた。
だが、オスティウスはそのような衝撃で得物から手を離す戦士ではない。
黒のマントが翻り、飛んでくる。アルジョスタ・プレナの装備だ。両手で払った瞬間、相手の双眸が目と鼻の先に見えた。恋人の距離だ、だがラナは年上に興味などない。左脚の底が空中を蹴った、切り裂けという願いを込めた刃の代わりに、強力な腕がラナの左腕を捕らえて締めに掛かってくる。
右手を相手の肩に掛けた。左の脚部装甲から吹き出す風で、宙返りを一つ、彼女は戒めからするりと抜けた。見えた背中を拳で一突き、だが手応えなどない。
オスティウスがくるりと振り返って襲ってくる。着地すら許さぬ猛攻にラナは喘いだ、彼女が得物を持っていたら今の一突きで勝負はついている筈だった。
高く跳び、逃れる。何度もそれを繰り返した。だが、そればかりでは勝つことなど出来ない。しかし、相手に隙がないのだ、両の腕には古式の短剣、筋肉は張りつめ、油断のない戦士の瞳は揺れることなく全てを捉えんと動く。その胸元に揺れているのが何かの装飾であることに彼女は気付いた、紅の陽光を受けて、きらりと反射する。
金属片だ。
勝てば、鍵を渡すと言っていた。
そして、ラナは悟った、結局のところ、相手は手加減をしていたのだろう。
着地と同時に前に飛び出す。オスティウスの踏み込みは強力だ。もう一度上に逃げた。直後に振るわれた腕を、身体を捻り、躱し、伸びた腕が戻ってきていないその首元に右手を掛ける、掴んだ革紐がちぎれて、金属片が飛んだ。
ラナは思わず笑みを零した、刹那、オスティウスの目が見開かれ、彼女は曲げた左脚の動力を切り、そのまま厚い胸を綺麗に蹴り抜いた。
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