20

 彼女は手を伸ばした。隠すのが下手そうな表情も演技だったのだろうか、という疑問が心の隅をよぎって消えていく。震える指先に触れるのは薄金色の長い髪の筈だったが、感触でわかる、人型種族の髪の手触りではなく、それは絹糸だった。言われて気が付く、そういえば目の色もこんな色だった、聞いていて思い出す、声の高さもこのくらいだった、顔立ちも今になってはっきりと重なる。


 全て合点がいく、免許を取れた日に交わした言葉や見せていた表情の意味も、全部。


 言いたくなくても、言葉は口からするりと出て行った。


「騙していたの?」


「そういうわけじゃない……いや、すぐに気付くかと思っていた」


 そうだ、その通りだ。何故気が付かなかったのだろう、とラナは思った。


 ユエルヴィール――アルデンスは微妙な表情になって言った。口元は笑っているが目が困っている、もしかしたらそれが素なのかもしれない。伸ばされたラナの右手を、彼は左手で捕まえてそっと握る、まるで壊れ物を扱うような手つきだ。


「顔とか声で分かるかと思ったけどな、ちょっと変わりすぎたらしい、俺の方が」


「……でも、その髪は」


「前からずっと地毛は隠していた、事情があったからな」


「事情って」


 ラナの声は上ずっていく。それを止めるように、アルデンスが小さくしっ、と息を吐いて、大きな右手の親指が彼女の唇を塞いだ。


「やめて」


 まだ自由だった左手でラナが相手の右腕ごと跳ね除ければ、戸惑ったような傷付いたような複雑な表情をされ、いよいよ彼女はどうして良いかわからなくなってきた。おまけにここはアンデリー邸の大広間である、何故このような場所でそれを伝えようと思ったのか。


「何で今なの」


 視線を落とすと目に入ってくるのは捕らえられた右手を包む相手の指。


「いい機会だと思った、俺ももう、そんなにしょっちゅう会えなくなるだろうし、お前とは」


「何で」


「……訊いてばっかりだな、ラナ」


 だって、と抗議しようとしたが、見上げたアルデンスは何かを覆い隠すように微苦笑を湛えているものだから、ラナの口から出ようとしていた言葉が全て行き先を失い、腹の底まで落ちて行った。


「ヒーエリア家は、元は帝都在住の帝国貴族だった」


 彼は目を伏せる。僅かに見える蒼色の光彩が暗く翳りを帯びた。


「俺が南街区の学舎で、姿を変えて、ユエルヴィールだけをお前に名乗っていたのは、アル・イー・シュリエの一件で、十年以上も暗殺者の手から逃れなければならない程のことを、ヒーエリアの家の者が担ったからだ」


 ラナは思わず取られた右手に力を入れた、己の故郷の話ではないか。アルデンスの右手がそっと握り返してくる。未だ会えぬキウィリウス、夢の中のシルダ、目の前のヒーエリア、踏んだこともないアル・イー・シュリエ。何もかもが自分と繋がっていく恐怖が、腹の底から湧いてきた。


「俺の父は死んだ」


「――何で」


「村を焼いた故に、宰相を貶めようとする貴族から狙われた……恐らく、キウィリウス家の力を削いで、己がのし上がることを考えていた奴だろう、俺の母が裏切って、俺を逃がしてくれた兄共々奴にやられた……俺が六歳の時だ、まあ、もう奴も死んだけどな」


 俺がやった、アルデンスは動かない表情のまま、そう呟いた。


「学舎だけが救いだったな、今のことなんて忘れて、色々なことを知ることが出来たし、話す相手もいた」


 ラナは思う、目の前にいるこの青年は一体誰なのか、と。彼女はこんな人を知らない。帝都で眺めていた綺麗な髪は偽りで、鬘だった。熱心に語ってくれた神話や伝承、民俗文化の話は、彼の唯一の拠り所だった。ずっと同じ年齢だと思っていたが、違った。


「二年遅れだったけど楽しかったな、お前もいたし……ラ=レファンスへの推薦ももぎ取れて、俺は頭脳とかいう名前の力を得て、シルディアナから脱出した……その先でまさか魔石工学が必要になるとは思っていなかったけどな」


「……何で、エイニャルンに?」


「文字通りの基礎からの学び直しの為の遊学だ、再受講は仮面だったけどな」


 情と愛は違う、心の何処かでフェーレスの姿をした誰かが叫んでいる。だが、ラナは呑まれた。心の中で様々な想いが綯交ぜになって、涙と一緒に溢れ出す。


「俺には恨みがある、帝国にも、家族を奪って何も思わない貴族連中にも、決断を下したキウィリウスにも」


 最後に出てきたキウィリウス、の単語に、ラナは震えた。思わず右手を振り解いて腕輪に触れたのを咎めるでもなく、ただ見やったアルデンスは、苦笑した。言葉を吐き出した彼の表情が何かを堪えるような痛ましげなものになり、戻ってきた彼の右手が彼女の涙を拭い去っていく。


「お前が誰か知っている、ラレーナ」


 その囁きに心臓を掴まれたような気がした。


「ラレーナ・キウィリウス」


 アルデンスの唇がその名を紡いだ。ラナは喘いだ。


「私を殺すの?」


「しない、俺はそれを望まない」


 彼はゆっくり、しかし苦しそうに首を振った。


「殺すにしては入れ込み過ぎた、無視出来ればよかった」


「じゃあどうして私に話し掛けたの、今もどうして」


 ラナの左腕が掴まれる。腕輪に指を這わせたアルデンスの表情は読めない。


「お前を嫌っているわけじゃない、恨んでいるわけでもない、寧ろ、その逆だ……俺はここから出られない、何故かというと」


 彼は大広間の奥を見た。その蒼い視線の先にいるのは、ネーレンディウスと、スピシア。


「……俺は中等学舎に入る為にアンデリー家の支援を受けた、既に婿入りが決まっている、ネーレンディウス様は俺を高く買ってくれた」


 だから、と、アルデンスは声を落とし、完全に声も涙も出なくなったラナの耳元に向かって、囁いた。


「……次の乾季から俺はアンデリーの家に入り、学院との往復をするようになって、身動きが取れなくなる……あと二ヵ月ぐらいだな、その前に言っておきたかった、ラ=レファンス魔法学院がスピトレミアを支援しているからこそ、俺という存在が取引された……その後ろにあるのはアルジョスタ・プレナだ」


 彼も望んでこうなっているところはあるのだろうが、色々な国や反乱軍の思惑に翻弄され、利用されてきたのだ。おそらくお前もそうなるとでも警告したいのだろう、だが、彼女は何も言えなかった。アルデンスが最後だと言わんばかりにラナの両肩をしっかり掴み、視線を合わせてくる。その双眸に宿る激情の蒼い炎に気付いても、絞り出された声が微かに震えているのに気付いても、もう遅い。


「……抗え、お前がキウィリウスの至宝である限り、ラナ」


 光精霊に貫かれたような気がしたけれど、ラナは何も言えなかった。




 アルデンスは披露目があるからと言って去っていった。


 後に残されたラナはぼんやりと立ち上がる。直後にアーフェルズが戻ってきて皿に乗った料理を差し出してくれたが、彼女は無理矢理笑って首を振った。


「やっぱり自分で取るね、アーフェルズ、ありがとう」


 皿の上に甘味も煮込みも関係なく料理が乗っているのも食べなくてもいいと思える一因だったが、先程の話のせいで食欲が飛んでしまったのが大きかった。そうかい、とアーフェルズは一言残念そうに言って長椅子に座り、それから気付いたらしい、ラナを見上げて問うてきた。


「どこかへ行くのかい?」


「すぐそこの出庭、遠くないよ……ちょっと風に当たりたくて」


「じゃあ、ここから見ているから、行っておいで」


 大広間の端から出庭までは歩いて数歩である。護衛もしやすいだろう。ラナは開け放たれたグランス鋼の大きな扉の外へ出た。


 エイニャルンは美しい昼下がりを迎えている。岩棚の中腹から橋と谷の向こう側が見えて、ぼんやりと何をするでもなく眺めていれば、時折橋の昇降機が上下し、竜翼のサヴォラが発着所から飛び立ったり舞い降りたり、風精霊を纏いながらゆったりと渓谷を飛んでいったりした。空の蒼と岩肌の赤土の対比の中に陽光と風精霊が混じる。


 ざわめいていたラナの心がすっと柔らかくなって、冷えていった。


 世界は光に満ち溢れている。


 アルデンスは結局自分に何を言いたかったのだろう、とラナは考える。ユエルヴィール。彼は次の年から動けなくなるとも言っていた。彼女にはよくわからない、彼女が何かするのを支援するつもりだったのだろうか、何かといっても、ラナには自分が何をするのかまだ分からない。運送の仕事を探すのでも手伝ってくれようとしたのだろうか、しかし、そんなことがちっぽけに思える程の何かを抱えている、と、彼の表情が物語っていたのはわかる。


 お前がキウィリウスの至宝である限り。


 ラナは思い出すのだ、帝都の大怪盗のことを。


「大怪盗はアルジョスタだったのかなあ」


 思わず零しても、誰も応えない。だが、それでよかった。アルジョスタ自体が大怪盗である、そう考えれば辻褄が合うような気がした。予告の放たれた日にラナは帝都から脱出、もとい連れ去られたのだ。彼女はエイニャルンの朝焼けの中のアーフェルズを思い出す。君一人を帝都から連れてくる為に、おおよそ百人のシルディアナの若者が死んだ。


 人の命を数多賭けてまで手に入れようと願う程、キウィリウスの名のついたこの身には価値がある。


 彼女は気付いた、そして再び朝のシルディアナ放送のことを思い出した。


 キウィリウス家の至宝をお返しする。


「こんなところにいたのね」


 声が聞こえて、ラナは振り返る。スピシアがグランス鋼の扉から出てきたところだった。護衛であるエレミアはどこだろうと中を覗くと、アーフェルズの隣に座ってこちらを気にしているようだ。


「披露目の時間よ、ラナ」


「披露目?」


 何故私が、それに呼びに来たのであればエレミアが長椅子に座っている理由がわからない、とラナは思った。それが顔に出ていたのだろう、スピシアは軽く溜め息をつきながら隣まで歩を進めてきた。


「まあ、あなたが落ち着いたら、でいいのだけれど」


 そう言って、小柄なその人は出庭の柵に背を向けて凭れ掛かる。灰色の目は油断することなく、逃すまいとでも宣言しているかのようにラナを見ていた。


「宰相の娘がスピトレミアにいらしているのだもの、そりゃあ、披露目しなきゃ」


「……知っているの、皆?」


「最初からよ、まさか騎士課程もやるとは思っていなかった、って、噂になっていたわ」


 私も思ったけれどね、と付け足して、スピシアは少し笑った。


「だからでしょ、メライダ教官に手取り足取りだったの、正直これが一番羨ましかった」


 最初からだったのか、そう思えど、ラナは何も言えなかった。彼女は更に気付く、領主の娘はまだ言いたいことが沢山あるのではないか。


「私ね、アルデンスと結婚するの、嫌なの」


「……どうして」


「だってあいつ、あなたばっかり見ているのだもの、それも羨ましかった、訊いたら、前からの知り合いだったそうね」


 スピシアの表情は笑っている。だが、どこか諦めたような光がその双眸に宿っていた。


「でも覚えていなかったのでしょう、罪な人ね」


「……髪型も違ったし、体型も変わっていたから、本当にわからなかった」


「まあ、アルデンスはそれで良かったみたいね、距離が近すぎて余計な心配なんてさせたくないとか言っていたわ、いいわね、そういう風に想って貰えるのって」


 ラナは顔を上げた。出庭の向こうを風の蝶フェーレ・フィリが、名の如し巨大な蝶の翼を拡げ、優雅に飛んでいく。


「……スピシア」


「なあに」


「……私を恨んでいるの?」


 スピシアはおかしそうに笑ってから首を振った。


「いいのよ……私には期待に応えなきゃいけない、使命があるから、そんなもの、領主の娘にとっては些末事に過ぎないわ、ただね」


 徐に、右肩を掴まれて、ラナは息を呑んだ。細くて小柄で華奢だと思っていた相手の右手は、紛れもなく訓練を受けた人の力強いもの。同時に、腰にそっと手を回されて、どうしていいかわからなくなった。


 大広間で酒を呑んでいたのだろうか、健康な人間にしては少し熱い息が掛かるのを耳で感じる。陽光を受けてきらきらと輝く暗い金色の髪が、ラナの頬に当たって、森のような落ち着いた香りが、鼻と心をそっと包んだ。


「あなたの強さにちょっと甘えて寄りかかってみたくなっただけよ、ラナ、ありがとう」


 スピシアが離れ、そっと微笑む。


「最初に話し掛けた時も、きっと私が領主の娘だなんてあんまり想像つかなかったでしょうけど、だけど普通に話してくれたわ……装甲訓練の時も、教官を呼んでくれたわね……さっきのお店でもそう、私をただの女の子にして、褒めてくれた……今もそう、それが、それが本当に、嬉しかったの」


 受け止めてくれたのが、と彼女は囁いた。竜の子が鳴くような声で。


「貴族の名前なのに、貴族じゃないのね、あなた、本当に変なの」


「……スピシア」


「あなたを披露目なんて出来るわけないわ、ただの平民じゃない、政治の道具になんて、なれるわけがないわ、貴族の女としての価値なんてないに等しいじゃない、陰謀も建前も、何も知らない、って顔をしているもの」


 諦めたように笑う口元、泣きたいのを堪えて優しく細められた灰色の目。美しい紅の大地がスピシアの横顔を彩り、エイニャルンに遊ぶ翠と光は彼女の纏う群青色のドレスをいっそう高貴なものへと変える。


「飛んでいけるでしょう、どこまでも」


 その笑みが消えて、色のない双眸が、一息の後に激しく燃えあがった。


「逃げて」

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